抽齋、霞亭…

◆先刻からずっと、『澁江抽齋』『北條霞亭』が鷗外の二大傑作であると書いていたのは誰だっけ、とおもい出せずにいたのだが、若しかすると……と石川淳森鷗外』(岩波文庫)を披いてみたら、まさにそれだった。評論家による読書随筆みたようなもので読んだ記憶があったのだが、石川淳だったのか。『敗荷落日』*1の強烈なインパクトのかげに隠れてしまっていたようだ。『森鷗外』、冒頭にこうある。

「抽齋」と「霞亭」といずれを取るかといえば、どうでもよい質問のごとくであろう。だが、わたしは無意味なことはいわないつもりである。この二篇を措いて鷗外にはもっと傑作があると思っているようなひとびとを、わたしは信用しない。「雁」などは児戯に類する。「山椒大夫」に至っては俗臭芬芬たる駄作である。「百物語」の妙といえども、これを捨てて惜しまない。詩歌翻訳の評判ならば、別席の閑談にゆだねよう。
「抽齋」と「霞亭」と、双方とも結構だとか、撰択は読者の趣味に依るとか、漫然とそう答えるかも知れぬひとびとを、わたしはまた信用しない。この二者撰一に於て、撰ぶ人の文学上のプロフェッシオン・ド・フォアがあらわれるはずである。では、おまえはどうだときかれるであろう。ただちに答える、「抽齋」第一だと。そして附け加える、それはかならずしも「霞亭」を次位に貶すことではないと。

あるいは、「では、おまえは」以下の晦渋な書きぶりをきらう人もあろうが、全篇を通読するとそうでもなかった(はずである)。
◆澁江抽齋の名が出てきたついでに。吉川幸次郎は、澁江全善が抽齋と号するのを、段玉裁の「抽書」説によるものではないか、と述べていた(『読書の学』)。これはすなわち、『説文解字』「言」部の「讀籀書也」(讀ハ書ヲ籀スルナリ)に対して、段氏が「抽繹其義薀至於無窮謂之讀」(其ノ義薀ヲ抽繹シテ無窮ニ至ル、之レヲ讀ト謂フ)と註する部分をさす。

*1:たったいま、某所のレビュー(『森鷗外』)を読んでみたが、「荷風の悪口を」云々、とあった。それは違うだろう。石川は、決して「悪口」なんか書いていない。