正宗白鳥『読書雑記』の『細雪』評

 池谷伊佐夫『書物の達人』(東京書籍2000)で紹介されている本の一冊に、正宗白鳥『読書雑記』(角川文庫1954)がある。これについて池谷氏は、「初出がはっきりしないので、元版がいつどういう形ででたのか不明だが、わずか百六十頁ほどの薄い文庫本の四分の三にあたる百二十三頁に、読書雑感が当てられている。まるで、ながながと続く古老の読書談義を拝聴しているかの思いでこれを読んだ」(p.211)云々、と書いている。
 その「元版」と思しき新書版を、二冊、所有している。ただし、発行年や装釘がたがいに異なる。
 ひとつは、正宗白鳥『讀書雜記』(三笠新書1952)。奥付をみると「昭和27年9月20日第1刷刊行」となっていて、手許のは「昭和27年10月20日第2刷刊行」。当時の定価は100円で、三笠新書の通番「4」が附いている。当初はカバー缺かとおもっていたが、どうも最初から附いていなかったようだ。大阪の古書肆にて350円で購った。
 いまひとつは、正宗白鳥『讀書雜記』(三笠新書1955)。東京の古書肆店頭にて216円で購ったものである。奥付をみると「昭和30年5月30日第1刷刊行」となっている。当時の定価は120円。こちらには、抽象画が描かれた白色のカバーが附いており、その表紙に、「現文壇最高の叡知が深い体験と独自の識見をもって、古今東西の文学を縦横に鑑賞し、そこに深い、人生批判、社会批判をも投影した絶好の読書案内」といった内容紹介が書かれている。カバーを外した本体の装釘も、前述の1952年刊のそれとは異なる。また、1952年版の本体、中扉、奥付に記されていた通番「4」の文字も消えている。
 池谷著の書誌によれば、角川文庫版は「昭和二十九年六月十五日」に刊行されたというから、刊行順としては、「カバーなし通番『4』つき三笠新書」→「角川文庫」→「カバー附き通番なし三笠新書」、ということになる。いったん他社の文庫に収まったものを、一年も経たないうちに再刊するのは珍しいことのように思うが、ともかく、二冊の新書は、本体や奥付、中扉が異なるほかは、中身の版面がそっくりそのままで、ざっと見る限り、手の加えられた形跡はない。ページ数も同じである。しかも、これらの新書版にも、初出のデータなどはまったく記されていない(そもそも「あとがき」にあたるものがない)。
 したがって、1952年刊の新書版が元版なのかどうかは、これだけでは分からないのだけれど、例えば正宗白鳥坪内祐三・選『白鳥随筆』(講談社文芸文庫2015)の巻末に収められた「著書目録」(作成・中島河太郎)をみると、「単行本」の項に「読書雑記 昭和27・9 三笠書房」とあるから(p.304)、新書版が元版だと考えて、まず間違いないとおもう。
 さてこの『讀書雜記』、池谷氏はその内容に関して、「文中さまざまな作品が登場するが、それがことごとく批判され、称賛の栄にあずかったものは数えるほどしかない。『途中まで読んでやめてしまった』という記述も多い。ことに私小説には辛辣な評が多」い(p.211)と書き、「ちなみに、数少ない絶賛をあびた作品に谷崎潤一郎の『春琴抄』」がある(p.212)と記す。また『讀書雜記』所収の「『宮本武蔵』と『細雪』」(pp.163-84)は、谷崎の『細雪』を、――『春琴抄』ほどの手放しの絶讃とまではいかないにしても――高く評価している。
 白鳥は次のように述べる。

細雪』のやうな作品は、私などの好みにはかなはない筈で、中卷下卷と讀み續けたいと熱望してはゐなかつたが、つい讀み出すと、この作者特有の匂ひのあるやうな文章に心惹かれて讀み耽るやうになるのである。大阪の女性の會話は、私にも面白く思はれ、一般の讀者の興味をそゝるのである。概して會話のうまい作家は文壇に少いのである。西洋の小説には、會話のうまい作家が、さぞ澤山あることであらうと推察されるが、悲しいかな、それは飜譯では皆目分らず、原語で讀んでも、我々の語學知識ではそこまで味ふことが出來ないのである。(略)
 谷崎は、久保田(万太郎)同樣、東京の下町生れであるから、作中人物の會話がおのづから、都會的で氣が利いてゐるのであらうが、『細雪』の會話は、意識して、努力して、研究的にそこへ寫し出したのであらうから、氣輕な自然さがない。あまりに大阪言葉であり過ぎると云つたやうな感じがする。しかし、これが、模範的大阪言葉(たとへ傳統的の純大阪言葉であるとかないとかの議論はあるにしても)でなく、他の地方語か、或は普通の東京語なんかで書かれてゐるとしたら、この小説に對する私などの興味は半減するであらう。それほどだから、この小説は外國語に飜譯されたら、肝心の會話の妙味だけでも全く失はれてしまふと云ふみじめな事になるであらう。會話に含まれてゐる意味は別として、言葉そのものから受ける藝術的快感を、『細雪』の讀者は覺えるのであるが、會話ばかりでなく、全體の文章から受ける文字の上の快感が、『細雪』鑑賞の重要な分子になつてゐるのである。雪子と妙子は一種の風韻を帶びて浮動してゐるし、縁談だの社交だのの日常生活が、實際に有る如き光景として描叙されてゐるが、三卷の長編としては、事件の印象が稀薄なのである。大小説を讀終つたと云つたやうな感じがしない。長い繪卷物を披いて、見終つたやうな感じである。作者の人物描寫は彫刻的ではなくつて繪畫的である。すべて繪のやうであり奇麗事である。上卷の、京都に於ける觀櫻の場面、中卷の阪神間の山津波の光景、下卷の大垣在の螢狩りの有樣などが、繪卷物のなかでも、色彩鮮明に描かれて、見る人を、藝術鑑賞の境地に惹入れて陶醉させるのである。作者の態度は甚だのどかである。
 私が三卷の『細雪』をとぎれ\/に讀んで、最も感心したのは、作者のこののどかな態度である。この長編は戰時中に書きはじめたもので、執筆にも發表にも支障のあつたものだが、終戰後に書き終るまで、作者の製作の上では心を亂さなかつたのであつた。周圍の時世には激しい動搖があつたのに關はらず、作者の實生活にも、世間と同樣の心配苦勞があつたであらうのに、はじめ計畫を立てた時の氣持をそのまゝに貫徹したのであつた。そこに私は敬意を寄せ、羨望もするのである。(pp.179-82)

 上記のように白鳥は、『細雪』中の会話文について、「あまりに大阪言葉であり過ぎると云つたやうな感じがする」と書いているが、大阪生まれの生島遼一は、むしろ逆の見方をする。

 でも上方の人間である私には、谷崎氏の書く上方言葉が一段と進歩してゐることに興味がもてた。大阪言葉を技巧的にもちひて世評の高かつたのは『卍』だつたが、われわれから見るとあの言葉づかひはまだ生硬でことさら上方用語が隨處にはめこんである感じだつたが、その後の作品で次第に垢ぬけして、『細雪』ではごく自然な、そのままらしい、大阪言葉の生地になつてゐる。殊に若い女性同士の一見そつけなく、裏に情をふくんだ會話にさういふ生地がたくみに生かされてゐる。かういふのはいはゆる船場中心の土地言葉で、大阪言葉に露骨なものが洗練され、まつたくほのかな、ぼんやりした上方味になつたものだ。この小説に書かれてゐるやうな中流舊家のやや大阪流に近代化した環境特有のものであらう。いはゆる大阪言葉、從來小説に書かれた上方言葉とは大分ニュアンスがちがひ、おつとりとして、しかも一種の神經があつて、案外標準言葉に近いところがあるのは意外かもしれぬがかういふのが本當である。(生島遼一谷崎潤一郎論」『日本の小説』角川文庫1953所収:135-36)

 生島氏は「『細雪』問答」でも、Aという匿名氏をして「(『細雪』は)會話の部分が面白いといふこと――大阪言葉の中でも、從來あまり人の書かなかったニュアンスの豐かな、ふつくらした特殊な大阪言葉が、さういふ點で評判をとつた『卍』などと比較にならぬほど今度はよく書けてゐるのみならず、會話において人物の性格がよくとらへてある」(同前pp.145-46)と言わしめているが、しかし作品全体としては、さほど高くは評価していないようである。というのも、同じ文中でAは、「『細雪』のやうな小説、これほど自己滿足的な小市民感情の横溢してゐる作品が日本の現代文學の第一級の作品としてどつかと位置してゐることはいろいろかんがへさせられることがある」(p.154)と言っているし、つづけて、

 僕はこの小説讀後の印象から、この作品をたとへば繪でいつたらどんな繪だらうかといふことを想像した。失禮ないひ方ながら、どうしてもこれはブルジョワ家庭の床の間にかけられる掛物の繪、四季折々に、春は花見の圖、夏はあやめ、秋は紅葉といつたやうにとりかへられるあの繪である。さういふ繪が少しも反撥を感じさせないで眺められる人たちがどういふ人たちかはいふまでもない。(p.154)

とも述べているからである。この記述は、発表年からして、白鳥の「繪畫的」云々という評を意識したものではあるまいとおもわれるが、しかし白鳥の如く、「京都に於ける觀櫻の場面」を、「少しも反撥を感じ」ずに眺められる人たちは少くない。
 例えば永井荷風は、「細雪妄評」で「細雪の篇中、神戸市水害の状況と、嵐山看花を述べた一節とは、言文一致を以てした描写の文の模範として、永遠に尊ばれべきものであろう。わたくしは鷗外先生の蘭軒伝の他に、其趣を異にした言文一致体の妙文を喜ばなければならない」(『葛飾土産』中公文庫2019*1所収p.192)と書いているし、また辰野隆も「舊友谷崎(細雪蘆刈春琴抄など)」で、「特に僕の興味を引いたのは――正宗(白鳥)氏も既に指摘してゐるが――毎年、幸子が夫貞之助を促がして、雪子、妙子、悦子と連れ立つて試みる吉例の花見である。僕はこの花見の一章に日本の傳統的花見の粹を見るやうな氣がする」(辰野隆谷崎潤一郎』イヴニング・スター社1947所収p.82)と書いている。なお辰野は、「もし、「細雪」が繪畫であり、「春琴抄」が詩であるならば、「蘆刈」は正に音樂であらう」(同前p.93)、とも書いている。
 批判するにせよ賞讃するにせよ、このように『細雪』を、なぜか絵画にたぐえる場合が多いというのは、なかなか面白いことである。

書物の達人

書物の達人

  • 作者:池谷 伊佐夫
  • 出版社/メーカー: 東京書籍
  • 発売日: 2000/08
  • メディア: 単行本
読書雑記 (1952年) (三笠新書〈第4〉)

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日本の小説 (1953年) (角川文庫〈第467〉)

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葛飾土産 (中公文庫)

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谷崎潤一郎 (1947年)

谷崎潤一郎 (1947年)

  • 作者:辰野 隆
  • 出版社/メーカー: イヴニング・スター社
  • 発売日: 1947
  • メディア:

*1:単行本は中央公論社(1950)刊。ちなみに「細雪妄評」の末尾には、「昭和廿二年十一月草」とある。