清張好み(3)

■「カルネアデスの舟板」(『張込み』新潮文庫ほか所収)

おれは眼を掩うつもりで、その絶対な感情を実行した。それは抵抗出来ない運命的なものだ。人は、おれの計算の頭脳と考え合せて、嗤うかもしれない。それも承知だ。どうせ現代は、不条理の絡み合いである。

 私がこの作品にはじめて接したのは、「傑作短編集(五)」と銘打たれた『張込み』(新潮文庫)の中の一篇としてであって、その当時(今から十五年ほど前)は、〈一事不再理の原則〉というキーワードでお馴染みの「一年半待て」*1のほうがむしろ心に残ったし、おもしろいとも感じた。実際に、「カルネアデスの舟板」よりも「一年半待て」を傑作に数える人が多いようである(まったくの印象論かもしれないが)。
 しかし、ここであえて「カルネアデス〜」を挙げるゆえんは、この小説が後の『落差』*2を思い起させるからだし、また「殺意」などのように、殺意立証の困難を描いており、興趣がつきないからでもある*3。さらに、清張と同年生れの大岡昇平が「ひがみ根性」と評した、清張の「権力コンプレックス」が如実にあらわれているからである*4
 そういった点に着目して読むと、〈緊急避難〉の着想に縛られて読むよりも、はるかに面白いのである。

 ただ、清張作品のいわば「推理小説的リアリズム」は、偶然の作用によるところが大きいのもまた事実なのであって、「カルネアデス〜」もその例に漏れない。ほかにもたとえば、殺意の立証自体が鍵となる「殺意」や「なぜ『星図』が開いていたか」でさえ、偶然に見聞した出来事によらざるを得ないところがある。ついでに言うと、かつてとりあげた「恩誼の紐」も、これまた偶然行き当るカップルが証人を捜しはじめることから事態が急展開する。
 とはいえ、私はそれを作品の構造上の弱みだとは考えない。
 確か乱歩が「屋根裏の散歩者」を書いたときに、小説のリアリズムをめぐって論争が起ったということがあったようだが(中島河太郎の文章で読んだのだったか。それも定かでないが)、リアリズムの追求が作品の感興を殺いでしまっては元も子もない。

*1:「種族同盟」も、〈一事不再理〉をヒントにして書かれた作品であり、映像化の回数はむしろこの「種族同盟」が多いくらいだ。タイトルは、映画も含めてきまって「黒の奔流」となり、しかも悪役が(原作は男なのに)なぜか必ず女(最近ではさとう珠緒星野真里が演じた)になっている。

*2:カルネアデス〜」の大鶴恵之輔は、清張によれば「モデルは無い」とのことだが、その大鶴が、『落差』の主人公・島地章吾の雛型となっていることは明らかである。

*3:但し「殺意」とは違って、その動機は最後まで世に知られることがない。

*4:「彼は高度成長時代の果実の分配の不平等にのみ執着して、その時代精神を「嫉妬」と「恨み」に因数分解した作家である」(『本よみの虫干し』p.46)、と書いたのは関川夏央氏。けだし名言である。