『薔薇曝れ首』

赤江瀑『花曝れ首(はなされこうべ)』

『花曝れ首』(講談社文庫,1981.8.15)所収。
単行本の書名は、『熱帯雨林の客』で、文庫化されてから改題されました。
解説は、山尾悠子。山尾氏は、赤江氏の短篇ベスト2として、この『花曝れ首』を挙げています。話型としては、松本俊夫の『薔薇の葬列*1(1969,松本プロ=ATG)を思わせるようなところがある。
というのは、この映画ではゲイボーイのエディ(ピーター)とゲイバーの「マダム」であるレダ(小笠原修)が、権田(土屋嘉男)を奪おうと相争うのですが、それがかげ子と飛子の秋童と春之助が、石工の「男」を奪おうとする話型に類似しているからです。
しかし、現実世界で秋童・春之助のふたりは、「篠子」の魂を奪おうと争います。この二重構造が、現在と過去を交錯するというプロット展開の重要なカギになっていると愚考するのですが、果してどうか。もしそうだとすれば、「虚実」やあるいは「現在/過去」の入り乱れる『薔薇の葬列』の構造自体もやはり、「花曝れ首」に近いものがある、とも言えましょう(『薔薇の葬列』のラストは、逆オイディプス、すなわちゲイによるエディプス・コンプレックスをもって締めくくられるので、主人公たる「エディ」の名は恐らくそれを踏まえたものなのでしょう)。
むろん、『花曝れ首』においては、「男」に対しては配偶者(というより恋愛対象者)的なものを求め、「篠子」に対しては保護者的なものを求めるので、『薔薇の葬列』とはずいぶん異なっています。しかし秋童による、「男」の好意を得んがための行動は、まさに「狂気」のひとことに尽きます。幻想文学はまず、こうでなくっちゃ。ラストは、安吾の『桜の森の満開の下』(あるいは、渡辺淳一の『桜の樹の下で』。映画しか観ていないのですが)を想起させます。

*1:ちなみに、かの中条省平は、『季刊フィルム』誌上に「『薔薇の葬列』論―現代状況への批判の刃」を書いてデビューしました。なんと、このとき十五歳! この論考はいま、『中条省平は二度死ぬ!』(清流出版)のp.34-43に収録されています。松本俊夫さんが中条省平さんに宛てた手紙も読めます。ぜひご一読を。