ハーンのエッセイ集

ラフカディオ・ヘルン 平井呈一訳『東の国から―新しい日本における幻想と研究―(上)(下)』*1岩波文庫)を読んだ(まだ、下巻の「横濱で」を読み終えたところなのですが)。今回の「春の一括重版」に入っているもので、これが二度目の重版であるらしい。しかし、奥付をみると「第三刷」だから、「刷りっぱなし」(断裁ナシの意ではなく)になっていたことが分る。
著者のラフカディオ・ヘルンというのは、つまり「ラフカディオ・ハーン」のこと。しかも、かの平井呈一が訳者ということになると、ついつい中身を読みたくなる(いわゆる「熊本時代」に書かれたものだから*2、その点においても少なからず興味をそそられたわけだが)。
なかには、例えば「柔術*3」(下巻)のような「日本論」というか「文明論」もあるが(日本人として、『パパラギ』を読んだ後のような居心地の悪さを感じる*4)、その殆どが、肩肘張らずに読める好エッセイである。たとえば上巻の冒頭を飾る「夏の日の夢」は、それじたいが夢心地で書かれたような作品で、現実と空想の世界を往還する幻想的な作品であるし*5、活き活きとした熊本弁で描かれる「生と死の斷片」もなかなか良かった*6
ところで、「柔術」の後記に「(西洋文明は―引用者)個性というものの最も高尚な形を發達させたが、それと同時に、一方ではまた、最も厭うべき形をも發達させた。――人間の知っているうちで最も繊細な同情と、最も崇高な感情を發達させたが、そのかわりまた、ほかの時代にはなかった利己主義と苦惱をも同時に發達させた」(下巻,pp.83-84)とあり、また「赤い婚禮」に、日本における情死に対する尊崇の念というか思想を述べたくだりがあって、それについてハーンが、「佛繁などよりもずっと古くからある思想であると同時に、また、それよりもずっと後年の新しい思想のようにも思われる。いってみれば、苦惱というものを永遠に信仰する思想なのであろう」(下巻,p.124)と述べているのだが、これらの「苦惱」は明らかに別のものだろう、と思った。出来れば原文を確認してみたい、と思った。

*1:題名だけを見ると、つい「世界の国からこんにちは」を思い浮かべてしまう。

*2:当時の九州や熊本の具体的な描写は、上巻の「九州の學生とともに」「博多で」あたりにみえる。

*3:姿三四郎』でもしつこく述べられていた、「柔道」と「柔術」の差異はドコへ行ってしまったのだろうか。

*4:当初は、嘉納治五郎についてなにか面白いことが書いてあるのかと思ったのだけれど、全く違った。

*5:赤ん坊の「あー、ばー」という喃語についての考察には、ちょっと笑ってしまったが。

*6:平井は「解説」で、熊本方言を再現するにあたっては「岩波書店校正部の俳人西島麥南氏の御示繁をあおぎました」(下巻,p.202)と書いている。