お伝の最期

晴れ。
今日はドイルの生誕日。
午後から大学。書籍部で、鹿野政直岩波新書の歴史 付・総目録1938〜2006』(岩波新書)と山口仲美『日本語の歴史』(岩波新書)を買う。
永山勇『仮名づかい』(笠間書院)、中村隆文『男女交際進化論 「情交」か「肉交」か』(集英社新書)を読む。
この『男女交際進化論』に、「毒婦」を「あくまでも社会の女性への差別偏見が作り上げた虚像」と批判した箇所があり、その例として「毒婦お伝」が取り上げられている。「お伝」については、朝倉喬司『毒婦の誕生―悪い女と性欲の由来―』(洋泉社新書y)が詳しく、事件の経過についてはもちろん、その女陰が標本として東大病院に保存されていることまで書いてある。また、矢田挿雲『江戸から東京へ』*1が「お伝」について書いているということも朝倉氏の本に書いてあるのだが、矢田は仮名垣魯文『高橋阿伝夜刃(ママ。「叉」カ)譚(たかはしおでんやしゃものがたり)』くらいしか参照せず、それを「『情欲』を中心に措えなおし、事実として書いた」(p.29)のだそうで、「与太話」にすぎないらしい(朝倉氏は、「(お伝による後藤吉蔵殺しの―引用者)動機は要するにカネだった」p.32 と結論している)。
学海余滴
さらに朝倉氏の本は、「処刑のときお伝は恋人、小川市太郎の名を呼んで大暴れに暴れ、役人の仕損じた太刀で顔面を血だらけにしながら、首を飛ばされたと伝えられている」(p.43)とお伝の悲惨な最期について書いているのだが(余談だが、執刀医は小山内健だったという。小山内薫の父である)、最近読んでいる依田学海『学海余滴』(笠間書院)に、その処刑の様子と後日譚が書かれてある。それによれば、実はお伝の女陰のみならず「髑髏」までもが保存されていて(「洋医」富田清の個人蔵)、お伝処刑の十一年後、なんと僧(!)となった小川市太郎が富田のもとを訪ねて来る。
小川曰く、「拙僧、お伝が刑に処せられしにより、元よりよるべなき身なれば、かしこここに身をよせて四五年を夢の間に打過しに、量らず世に出たるに、山岡鉄舟居士に値遇しまゐらせ、因果応報の理と悟り、遂にその弟子となり、かくは出家して候ひき。斯てその名も夢幻と改め、この頃まで越路(ママ)なる鉄舟寺に寄宿せしが、この寺に尋来れる法師の物語にて、お伝の髑髏を東京浅艸田町壱丁目の富田氏こそ蔵め置かれたるなりと承りしかば、懐旧の思に堪へずして、斯は推参して候なり」と。
しかし、そのとき髑髏は富田の手許になかったので(自分の子供に貸し与えていたという)、一両日を経ての再会を約し、その日は別れる。
さて、夢幻こと小川が中一日を隔てて再び富田を訪ねたところ、富田は服紗に包んだお伝の髑髏を夢幻の前に取り寄せて置いた。すると夢幻、はらはらと涙を流し、これはお伝の髑髏に相違あるまいと云う。証拠は髑髏の後部に残る刀創。
夢幻曰く、「(お伝が―引用者)斬られしその時の有様はいかなりけんと知る人に就きて尋ねききしに、かれが刑場にのぞみし時まで、所縁のものはいまだ参り候はずや、必来べき筈なるにいかにしけんと問ふことしきりなりしかど、これを知るもの無りけん、しかじかと知らするものあらず。はやその時刻となりけれども、逢んと約せしその人に一目なりとも相見ざれば死なぬ死なぬと泣叫び、頭を縮めてたやすく斬らせず。太刀取はいきまきて是非をいはせずこれを斬るに、頭の後へきりかけて打落すこと得ならず。又打おろす二の太刀は腮を掛て切り損じ、三の太刀にてやうやく首を落ししが、切先あまりて右の膝を四五寸ばかり切りしといふ。苦痛さこそと思ひやり、我々が(処刑の―引用者)日を誤りし為とし思へば悲さいと弥増したりき」と。
富田は、ようやく眼前の夢幻こそ小川市太郎に他ならないことを確信する。髑髏の刀創が夢幻の話と一致するからである。さて、続けて夢幻曰く、「かれが屍骸をその時にすてられなば、この対面は得難かるべきに、幸にして医術の為にのこし置れしは不幸のうちの幸なり。いかで永く御家に蔵め医療の用にもならましかば責めてもの罪亡しとなり候はん。只ここに一つの願あり。そはかの養父九右衛門は今なほ世にながらへてあれば、再び参り候はん時、ともに来りて対面を願まつる事あらん。又拙僧も一たび越後にかへりゆき、かの地の所用を果しなば、天王寺に庵を結び、かれが菩提を弔ばやと思ひ候へば、忌日あけたるその時は、いかでこれを借し給はりぬ。香華を備へて魂を祭らん」と。
これは『大和新聞』に載った記事であるらしく、学海は「その後は如何なりけん」と結んでいる。

*1:古書市で、中公文庫(改版)が揃定価二千円で出ているのを見かけたのだが、生憎手持ちがなく、買い逃したことがある。その後ちょくちょく見かけるが、改版でもそうでないものでも四千円以上の値が付いている。