『センセイの書斎』を買う

晴れ。
Kで、内澤旬子『センセイの書斎―イラストルポ「本」のある仕事場―』(幻戯書房)を購う。Kでは昨日から平積みにされていたが、昨日は持ち合わせがなく断念したのだった。「おわりに」の「主が彼岸の国へ旅立ってしまった書斎」に、金田一春彦氏と千野栄一氏の書斎が挙げられているが、米原万里氏の書斎もここに加わってしまうことになるわけだ。
食道楽(上) (岩波文庫)
午後から大学。村井弦斎『食道楽(上)』(岩波文庫)のつづきを読み進め、また山口仲美『日本語の歴史』(岩波新書)を読みはじめる。『食道楽』、思っていた以上におもしろい。「本文中各項に出ずる献立は新しき料理法を示さんとする主意にて無理なる配合多し。読者それ心して見るべし」(p.40)って、そんなバカな。
最近読んだ、『定本 庄司淺水著作集 書誌篇第十巻 日本の書物』(出版ニュース社)にも弦斎の名がちらちらと出て来た。『出版興亡五十年』に基づく次のようなエピソードも描かれている。

『出版興亡五十年』(小川菊松著)によると、明治四十一年(一九〇八)「実業之日本」は新渡戸稲造博士を、「婦人世界」は大衆作家で『食道楽』の著者で知られた村井弦斎を、一か月それぞれ五百円の顧問料で迎え、業界を驚嘆させたという。それもそのはず、当時「実業之日本」は一部定価十三銭、「婦人世界」は十五銭だから、正味七掛半(七十五パーセント)として、前者は五千百二十八部分、後者は四千四百四十四部分が顧問料として消えてしまうわけだ。一説には村井は「婦人世界」の顧問を引き受ける際「返品差引きで雑誌一冊につき一銭の報酬が欲しい」と要求し、増田(義一、一八六九〜一九四九。実業之日本社の創業者―引用者)はこれを容れたという。村井が編集顧問を引き受けてからの「婦人世界」の誌面は、にわかに活気を呈し、村井の小説が連載されてから、部数はぐんぐんのびて十二、三万部にも達し、創刊三年目には二十五万部(最高三十一万部)にも達したという。(p.194)

但し、黒岩比佐子さんの「【解説1】忘れられた明治の啓蒙小説家」によれば、弦斎は、『婦人世界』に小説を「二十年間で、増田に懇願されて二篇を連載したにすぎ」ず(p.586)、あとは「婦人啓蒙のための実用記事」を主に連載していたらしい。
それにしても、明治四十(一九〇七)年あたりの弦斎はパッとしなかったのだろうか*1
というのは、『東京朝日新聞』(明治四十年十月八日付)の「貸本屋の昨今(七)牛込區」に、「弦齋ものゝ讀者は近來殆んど絶無といふべき状況(ありさま)だが天外(てんぐわい)の「コブシ」新渡戸氏の「隨想録」は最も多(おほ)くの讀者を有(いう)して居(ゐ)る」とあるからだ。

*1:というのは誤りでした。それは「早稲田方面」に限っての話で、市ヶ谷あたりでは新刊に見向きもしない読者たちがこぞって「弦斎もの」を借り出していたみたいです。