しのごの

◆『日本国語大辞典 第二版』(小学館)、「士農工商」項の語釈(2)に、「他人とおりあわず、あれこれ不平をいうこと」とあり、下中彌三郎『大増補改訂 や、此は便利だ』(1936)における用例が引かれている(「妥協性を欠いて、いろいろ文句をいふことを、士農工商を並べるなどいふ」)。
ところで内田百ケンの『山東京伝』(1921)に(最近軽装版の出た「ちくま日本文学」にも入っている)、

士農工商、云つたつて駄目だ。君の樣に頼み甲斐のない人はない」

という台詞が出て来る。『日国』の語釈(2)はこれと同じようなニュアンスをもっている。「士農工商云う」というのは、もしかすると「四の五の云う」の地口ではないのか(京伝の黄表紙自体に、「士農工商云う」という表現は出てくるのか?)。
金田弘・鈴木丹士郎編著『知ってなっとく 日本語鑑定団―ことばの疑問Q&A』(小学館ジェイブックス1999)によると、「四の五の(云う)」は博打に由来することばだという説があるらしい(『嬉遊笑覧』等を引く)。
また同書に、

なお、山東京伝黄表紙孔子縞于時藍染(こうしじまときにあいぞめ)』〔寛政元年(一七八九)年刊〕に「とかく酢の蒟蒻のといつて、受けとりませぬ」と、「酢の蒟蒻の」という言葉がみられますが、これは「四の五の」をもじってつくった言い方だと思います。江戸時代に流行した地口(ことわざ、慣用句をもとに発音の似た文句をつくるしゃれ)である言語遊戯です。(p.26)

とあり、しゃれ言葉の好きな山東京伝がまたしても出て来る。
ちなみに『日国』には、「しのごの」項に、『孔子縞于時藍染』の用例が引かれている(「きわめ通りうけとる節、四の五のとは申しますまい」)。
◆話は逸れるが、子規の漱石宛書簡(明治二十三年八月二十九日付)に、

これは四でも五でも六でもなき故狐の尾を見つけたなどといふべからず

という洒落が出て来る。正岡子規 粟津則雄編『筆まかせ 抄』(岩波文庫)では p.212 に、和田茂樹編『漱石・子規往復書簡集』(岩波文庫)では p.71 に、それぞれみえる。後者の「注」に、「詩、語、録にかけたしゃれ。『吾輩は猫である』にもでてくる表現」(p.437)であるというので捜してみたがなかなかみつからず、ようやくみつけたそれらしいのが、『猫』三の「彼の考によると行さえ改めれば詩か賛か語か録か何(なん)かになるだろう」。「四」とか「五」とかで検索をかけても、そりゃ見つからない筈である。
それから「四でも五でも六でもなき」という表現は、多分「四でも五でも(詩でも語でも)」を前提として、「ろくでもない」が導き出されたものなのであって、それに触れずにしまう「注」は不十分ではないのか。また子規の念頭には、「四でよし五でよし」また「四も五も」といういいまわし(『日国』の挙例で知った)が無かったか、どうか。