『砂の器』をデフ放送で

砂の器 [DVD]
デフ放送、つまり聴覚に障碍のある人むけの放送で、野村芳太郎砂の器』(1974,松竹)を観たのだけれども、これが、ちょっと、ひどかった。加藤剛が「宿命」を延々と演奏する舞台に回想の重なるシークェンスに、「演奏はクライマックス」「静かだが曲は続いている」(うろ覚えだが)という字幕は、たとえ演出上の効果を説明するものだとしても明らかに要らないし、また、加藤嘉が嗚咽、というかむしろ慟哭するシーンに、「ア〜〜〜〜」とか「ウ〜〜〜〜」とかいった字幕も要らない。加藤が泣いているのは観れば分るのである。
ところで、この映画における丹波哲郎の「テンション」の変化を詳しく分析(前半と後半で大きく異なる)しているのは樋口尚文氏で(『「砂の器」と「日本沈没」―70年代日本の超大作映画』筑摩書房)、松竹版『砂の器』(その後の『砂の器』映像化作品はみなこれを踏襲している)がなぜ「ベタな」感動を呼ぶかということまで示して見せたという点で、これは例えば村井淳志『脚本家・橋本忍の世界』(集英社新書)よりもずっと説得的であったのだが、リリー・フランキーもいわゆる「丹波調」に言及していたことを思い出した。『日本のみなさんさようなら』(文春文庫PLUS)においてである。ここでリリーは、加藤嘉の嗚咽を「グボゲロドボバルォォ――!!」あるいは「グボゲロバ――!!」と表現している。「ア〜〜〜〜」とか「ウ〜〜〜〜」とかいう表現よりは、こちらのほうがずっと正確なのだから笑ってしまう。
それともうひとつ気になったのは、内藤武敏の捜査一課長が、劇中で「和賀英良としてはジュンプウマンポ」と言っていたこと。以前観たときには気がつかなかった。
新書365冊 (朝日新書)
宮崎哲弥『新書365冊』(朝日新書)のp.160に、屋名池誠『横書き登場』(岩波新書)が出て来るのだが、「トリヴィア本だが面白い」と紹介されている。『諸君!』連載時にこれを立読みして、「それはないだろう」と思ったものだが、同じ感情を抱いた人があるらしく、これに関しては、ネットで二、三の報告(怒りを伴うもの)を見た記憶がある。だが坪内祐三新書百冊』(新潮新書)を評したくだりで、「新書の幹流は、人文学と社会科学の啓蒙書にあるというのが私の持論だが、本書を読むと、いかに自分が人文学の分野を蔑ろにしてきたかを改めて思い知らされる」(p.258)とアリバイ的言辞を、いや、反省されているようだし、p.339-40では、私でさえ「ひどい」と思った本をちゃんと叩いてくれているので(その本の内容紹介には「脳科学、物理学、言語学を縦横無尽に駆使して」云々とあるのだが…)、今後の再開に期待したい。