何が彼をさうさせたか

巖谷大四『波の跫音―巖谷小波伝―』(新潮選書)を再読するが、ディテイルが気になって、なかなか読み進めることが出来ない。じつはいま、言文一致体と雅俗折衷体をすこし調べていて、尾崎紅葉がなぜ「雅俗折衷体」から「言文一致体」――柄谷行人氏は、言文一致の創造について「もう一つの文語の創出にほかならなかった」と書いているのだが――に乗り換える気になったのか、そこのところがたいへん気になっているのである。
『波の跫音』でも書かれているように、漣山人なぞは、初めから「言文一致」で通していたし(但し、作品によっては文語体も用いた)、ドイツから帰朝した後には「お伽かな遣い」すなわち「表音式かな遣い」を提唱するなど、極めて分りやすい「改革派」であるのだけれども、しかし、割と柔軟なところがあるとは云え「言文一致体」に徹底抗戦する構えをみせていた(『読者評判記』等を読めば分る)紅葉山人はなぜ、「話すように書け」と門下生に諭すようになったのか。謎だ。
ところで。全然関係はないが、気になったこと。伊藤文学『『薔薇族』編集長』(幻冬舎アウトロー文庫)の冒頭に、伊藤氏の父親の話が出て来る。
『薔薇族』編集長 (幻冬舎アウトロー文庫)

親父が第二書房を設立したのは一九四八年。ぼくが駒沢大学予科に入学した年だった。四四年に解散した人文系の出版社・第一書房の社員だった親父は、戦後、その再興のために動いたが果たせず、自分で出版社を作ったというわけだ。
親父は好んで短歌集や詩集を刊行した。たとえば話題になったものとして原爆歌集『広島』、戦犯歌集『巣鴨』、基地歌集『内灘』という三部作がある。いずれもあまり売れなかったが格調は高かった。(p.14)

引用文中の「親父」というのは伊藤禱一で、彼のことはもちろん長谷川郁夫『美酒と革嚢――第一書房長谷川巳之吉』(河出書房新社)にも出て来る。伊藤の苦悩が描かれるのは同書の最後のほうで(pp.425-27)、一切の権利を講談社に売り渡すという巳之吉の独断は、「実務家肌の番頭格・禱一の目には、(中略)つまりは“ご乱心”であるかのように映ったのだった」(p.427)、とある。また、「伊藤禱一は戦後、八雲書店、斎藤書店を経て、第二書房を興した」(p.431)ともあるが、彼が「(第一書房)再興のために動いた」ことについて詳しい言及は無い様である。