怪談牡丹燈籠

 福岡隆『活字にならなかった話―速記五十年』(筑摩書房,1980)には「江戸言葉との格闘」という章があって、落語速記の労苦について書かれている。その話題は、八代目桂文楽個人全集(立風書房刊)の製作秘話が中心となっており、たとえばポーズフィラーの「えー」はカタカナで「エエ」と書くだの、間の長さによって「…」、「……」、「…………」を使いわけるだの、相手のセリフにかぶせたり間をおかずに発話したりする場合は「――」を使うだの、位相語はルビで使い分ける(ex.おなじ「旦那さん」でも、商家のかみさんが呼ぶときには「だんなさん」、幇間が呼ぶときには「だァさん」)だの、たくさんの原則を立てなければその話術をある程度忠実に再現することができない、と具体的なことが書いてあり、落語速記の苦心のほどが知られて興味ふかい。
 落語速記や怪談噺に話が及ぶ場合、だいたい三遊亭圓朝口演の「怪談牡丹燈籠」を端緒とすることになっていて*1、この「江戸言葉との格闘」も御多分にもれない。そもそも著者の福岡には、『日本速記事始―田鎖綱紀の生涯―』(岩波新書,1978)という著作があり、一章分が「怪談牡丹燈籠」に費やされている*2。これは、速記術が「言文一致体」「口語文」の創造にいかなる影響を与えたか、という問題を知る上でも必読の文献であろうが*3、「怪談牡丹燈籠」の典拠にはさらりと触れられる程度(pp.78-79)で、その典拠探しは、石井明『円朝 牡丹燈籠―怪談噺の深淵をさぐる』(東京堂出版,2009)などに詳しい。同書後半部は、石井氏の論考「怪談噺の誕生」(小松和彦編『日本妖怪学大全』小学館,2003)をさらに発展させたものでもあるのだが、主たる内容は「怪談牡丹燈籠」の成立についてであって、これが中国怪異小説「牡丹燈記」(『剪燈新話』)や浅井了意「牡丹燈籠」(『伽婢子』)以外にも、先行する草双紙や歌舞伎の類、また市井の殺人事件や巷説に至るまで様々な事象を採りこんだことが詳しく説かれている。この本も、もちろん速記本としての「怪談牡丹燈籠」の性格に言及しているが、清水康行の論考を挙げつつ傍訓の危うさを指摘することも忘れない(pp.10-11)。
 さて私は、何度でも強調するが、落語に(も)うとくて、活字で読んだり、動画サイトで見たり、たまに衛星劇場で見たりする程度で、天満天神繁昌亭にもまだ一度しか足を運んだことがない。このうち比重が大きいのは、やはり活字で落語を読むことである。こないだも山田洋次創作落語集『放蕩かっぽれ節』(ちくま文庫,2002)を読んだし、六代目圓生の名演集も最近出た文庫版で(部分的にではあれ)読んだ。この六代目圓生が得意とした噺のひとつが「怪談牡丹燈籠」で、『圓生の落語3 真景累ヶ淵』(河出文庫,2010)に収められている。単行本刊行時から収録されている「解説」(宇野信夫)は、ほとんど圓朝のことばかり書いているのだけれど、これによると、圓生は「怪談牡丹燈籠」を誰に教わったわけでもなく、圓朝の口演速記を熟読して自分なりにアレンジしたのだという。五代目志ん生も「怪談牡丹燈籠」を得意演目としていて、これをはじめて口演したのは開戦後間もない頃、大塚鈴本での独演会であったという(小森収編『都筑道夫の読ホリデイ 上巻』フリースタイル2009,p.196)。

活字にならなかった話―速記五十年 (1980年)

活字にならなかった話―速記五十年 (1980年)

円朝 牡丹燈籠―怪談噺の深淵をさぐる

円朝 牡丹燈籠―怪談噺の深淵をさぐる

圓生の落語3 真景累ヶ淵 (河出文庫)

圓生の落語3 真景累ヶ淵 (河出文庫)

*1:例をあげるとキリがないので、最近読んだものをひとつだけ挙げておくと、戸板康二『劇場の青春』(河出新書,1956)所収「怪談の傳統」。

*2:p.81「逍遥が『浮雲』の序文で、「(前略)このごろ怪談師三遊亭の叟が口演せる牡丹燈籠となん呼び做したる仮作譚を…」とあるのは、「逍遥が『怪談牡丹燈籠』の序文で、…」の誤りであろう。たしかに逍遥は、「春のや主人」として『浮雲』の序文も書いているのだが、ここはうっかりしてしまったものと見える。ついでに言っておくと、福岡著では「叟」に「おきな」というルビが振られているが、岩波文庫版『怪談牡丹燈籠』(1955刊)所収序文のルビは「おぢ」となっている(p.3)。

*3:黒岩比佐子『古書の森 逍遙』(工作舎)pp.143-45には、速記と「言文一致」との関係のほか、速記と「矢野龍渓に始まる小説改良の流れ」との関係について書いてある。