「句読法」若干

野元菊雄「区切り符号の用法」(『月刊言語』一九七五年九月号,大修館書店)に、「これら(「?」や「!」―引用者)は句点と同じ扱いですから、そのあとに句点はいら」ないとある。また最近では、講談社校閲局編『日本語課外講座 名門校に席をおくな!』(講談社,2007)に、「(疑問符・感嘆符は―引用者)大原則として疑問、感嘆の文末で用いる。この場合は句読点と同等・同格の扱いとなりますから、疑問符・感嘆符のあとに句読点をつけるという形はありません」(p.187)という発言があるが、これはあくまで戦後の「ゆるやかな規範」。古くはそうでもなかったようである。その主な例を以下に示すと……、
尾崎紅葉金色夜叉』(明治三十一年〜三十六年)
※「(略)お前さん能く來られましたね、學校の方は?。」
※「宮さん、何を泣くのだ。お前は些も泣くことはないぢやないか。空涙!。」
押川春浪『海島冒險奇譚 海底軍艦』(明治三十三年)
※『轟大尉! (略)右號令を傳へて下さい!!!。』
※『ど、ど、ど、何處に! どの人が?。』と伸上る。
○國木田獨歩『運命』(明治三十九年)
※『(略)眞實に生意氣なこといふよ此人は!。』
※『そう?、先刻まで謙輔樣が來て居て東京の話をして聞したのに。』
※『たゞで有ると?。』
※『來れ!、爾に見すべきものあり。』
ただ、このような句読法、すなわち句読点や記号種をふくめた問題について考える場合、非常に厄介なのは、「印刷史」ないし「媒体」の問題を抜きにしては、どうしても論じられないということ。

矢作勝美の見るところでは、明治二十一年に出た山田美妙の『夏木立』には、記述符号が一定の方針にもとづいて組織的に使われていて、部分的な混乱はあるにしても、句読法としては、いちおう体系化している。同年の『浮雲』は、草双紙や漢籍系統のはざまにあって、近代文学にふさわしいタイポグラフィを創りあげるところまでには行けずに、その手前のところで模索している状態だった。
そして、明治三十一年の『金色夜叉』前篇に限って言うなら、従来の草双紙や漢籍系統の型からはっきりと抜け出し、それまでにない新しい文芸作品としての、独自のタイポグラフィが出現している。尾崎紅葉は、作品の上だけでなく、タイポグラフィの発展の面から見ても、大きな足跡をとどめたのであり、明朝体による独自のタイポグラフィは、文学史上、明治三十年代の初頭から後半にかけて、創り出されたと見るべきではないか、と矢作勝美は認定する。(谷沢永一『読書人の立場』桜楓社1977,p.217-18)

矢作勝美氏の『明朝活字』は必読文献であるようだが、……それにしても、「タイポグラフィ」まで考慮に入れなければならないかとおもうと、まったく暗澹たる気持ちになる。
(昨日から今日にかけて、“怒濤の”更新を行っているように見えるが、なに、実は以前メモしておいた事柄をちょっといじって載せてみただけだったりする。体調――とアタマの具合――を気遣ってくれたNさん、どうぞ御安心めされい)

「『ちょいと』お待ちよ車屋さん」

セピア色の言葉辞典 (文春文庫)
「ちょいと、これをごらんよ」と言ったら、知人が笑いだした。「ちょいと」が、おかしいと笑う。
「しかし、間違った遣い方ではないはずだが?」「間違ってはいないが、普通は、ちょっと、だろう。ちょいと、は古風だよ」
指摘されて気がついたが、これは私の口癖である。東京下町の、言葉遣いである。私が住んでいた頃は、皆、こう言っていたが、現在は遣わないのだろうか。古風だと言われると、肩身が狭い。
小津安二郎の映画を見ると、たとえば杉村春子や、若い淡島千景岡田茉莉子が、盛んに遣っている。下町も山の手も関係なかったようだ。少くとも昭和三十年代までは、「ちょいと」全盛であったようである。泉鏡花は東京に出てきたころ、娘たちが「ちょいと」と言うのを聞いて、江戸を感じた、という。
「どちらかというと、品のない言い方じゃないかな」知人が笑う。「たとえば赤線の女性が、ちょいとお兄さん、寄ってらっしゃいよ。そんなふうに用いていたよ」
赤線を知らぬ私には、何とも言えぬ。しかし小津の映画は、大体が当時の中流階級を描いていた。知人の見方は一方的すぎないか。
調べてみた。『よしわら』という本がある。大河内昌子編、昭和二十九年に日本出版協同株式会社より出版された。吉原で働く女性たちの手記集である。店先で客を呼ぶセリフが、随処に出てくる。
「いらつして、いらしつて、ねえ、ちよつといらしつてよ」「ねえ、ちよつと、おじさん。おぶうでも如何……ちよつと、ちよオッとォ、ピカピカ眼鏡のお兄さん、おもどり遊ばしてえ」「ちよッと、そこのお兄さん」
「ちょっと」である。ついでに吉原では、「いらしって」または「いらっして」という言い方だったらしい。「いらっしゃいませ」と呼んだ断髪の女性が仲間に笑われている。
出久根達郎『セピア色の言葉辞典』文春文庫2007,pp.147-48)

また村瀬学氏は、『トンコ節』を引きつつ以下の如く書いている。

阿久悠のいた時代―戦後歌謡曲史
「ちょっと」と「ちょいと」は微妙に違っている。「ちょいと」の方は「ちょいとそこのお兄さん」と声をかけられるような「粋な、色っぽい声かけ」の感じがするが、「ちょっと」はどちらかといえば、「すこし」という時間感覚を伝えるものになっているからだ。「ちょいと」は、関係の瞬間性、あるいは瞬間の関係をつかまえる言い回しになっている。それはまさに声をかける臨場的な瞬間であり、「ちょっと」もまた、はかない関係をとらえる言葉であることには変わりがない。
村瀬学「一九七〇年代―「独りよがり」の時代へ(抄)」,篠田正浩 齋藤愼爾責任編集『阿久悠のいた時代―戦後歌謡曲史』柏書房2007,p.83.初出:『なぜ「丘」をうたう歌謡曲がたくさんつくられてきたのか―戦後歌謡と社会』春秋社2002)

出久根氏の言うとおり、「ちょいと」が「品のない言い方」であって、「たとえば赤線の女性が」よく用いていた、また「色っぽい声かけ」である云々というのは、確かに一面的で的を射ていないのではないかとおもう。古い邦画を観ていると、男女差や階層差にかかわらず、台詞のなかに「ちょいと」が頻繁に出て来るのである。
しかし、それにしても――、「ちょいとちょいと」と重ねてみると、花柳用語ふうに聞こえてしまうのは何故だろう。これはまったく主観的なものなのだろうか。
と思って、永井荷風の『ボク東綺譚』を眺めてみたら、丁度見つかった。

戸外(そと)には人の足音と共に「ちょいとちょいと」と呼ぶ声が聞え出した。(岩波文庫改版,p.50)

そんな些細なことが気になって、昨年末、『花柳小説名作選』(集英社文庫)や荷風の『腕くらべ』などを漫然と眺めていたことがあったのだけれども、藝者が客(あるいは同業者)を呼び止めるときは、「ちょっと」も「ちょいと」も有り得たようである。
これが出身地と関与するものなのかどうか、面倒なので、そこまで調べることはしていない。
→参照:『退屈男と本と街』「『ちょいと』いいことば。」(http://taikutujin.exblog.jp/1316460/

「原敬る」

和田垣謙三『兎糞録』(至誠堂書店、大正二年七月十四日初版発行、大正九年二月十九日四十版)より。

五六 原敬
力士伊勢濱、寒玉子と申合ひ、互に土俵の砂を蹴立てゝ手に汗を握らしめしが、如何なる機(はづみ)にや、伊勢は誤つて玉子の腹部をしたゝか蹴飛したり。玉子、何かは以て堪るべき、グッといひ樣打倒れ、やがて火を吹く如く泣面を澎(ふく)らせながら叫んで曰く、「ソンナ亂暴な相撲があるものか、内務大臣ぢやあるめえし」と。伊勢、これを氣の毒に思ひしが、咄嗟の場合「内務大臣」の意味を解すること能はず、「内務大臣とは何の事だ」と問ひしに、玉子は苦しき息を喘ぎながら、「ハラケルだ/\」と答へたり。蓋し内務大臣原敬を捩(もぢ)らしたるなり。名詞に er を附して之を動詞とするは、其例西洋文法に甚だ多し。この玉子、なか/\隅に置けぬハイカラといふべく、やがて孵化して關トリとなること必定なり。(p.141)

「寒玉子」の最高位は前頭九枚目、らしい。つまりめでたく「関取(鳥)」となったようだ。

日本俗語大辞典
はらける(原敬る)[動](「原敬」に動詞化する接尾語「る」をつけたもの)うそをつく。当時の内務大臣原敬を動詞化したもの。1914年の議会以来の流行語。◆『ポケット顧問 や、此は便利だ』増補訂正版(1915年)〈下中芳岳・秋永東洋〉「原敬る うそをいふことを意味する。又は、づう/\しい。大正三年春の議会以来の流行語」◆『寸鉄』第一号(1919年)「是々非々主義の原敬氏、懐手して待つほどに熟柿は落ちて天下は政友会の手に帰しぬ。それに就き思起すは曾て力士伊勢浜、寒玉子と申合ひ、こゝを先途と揉合ふ中、如何なる機か、伊勢誤って玉子の腹をしたゝか蹴り、玉子泣面ふくらせつゝ、『そんな乱暴な手があるものか、内務大臣ぢやあるめえし』と蓋し時の内相、原敬氏に er を付しハラケルの動詞にもぢらせたるなり」
米川明彦編『日本俗語大辞典』東京堂出版2003)

「1914年の議会以来の流行語」というのは、『や、此は便利だ』の記述を踏まえたものだあろうが、そうすると、『兎糞録』の初版発行年とは合わなくなってしまう(『寸鉄』の記事は、『兎糞録』のパクリ?)。それに「議会以来の流行語」というのは、どういうことだろう。角界で生まれた俗語が、議会の答弁か何かで広まった、ということなのだろうか。
もっとも、和田垣謙三という人は、「どこまでまじめでどこまで冗談かわからない」人物であったらしく、学年末に出題した試験題目にも、「テキレッツのパーについて解釈せよ」というのがあったのだそうで(高島俊男「明治タレント教授」)、『兎糞録』の内容も、どこまで信頼に足るものなのか分からないのだけれども。

「どこかで見かけたような表現だ」とおもったら。

そこに一冊の阿久悠があるかぎり、私たちの人生の辞書に「退屈」の二字はない。
篠田正浩 齋藤愼爾責任編集『阿久悠のいた時代―戦後歌謡曲史』柏書房2007,p.125.阿久悠『飢餓旅行』講談社文庫版、郷原宏「解説」1993)

だが、手許に一冊の清張短編集がある限り、われわれの人生の辞書には少なくとも「退屈」の二字はない。
松本清張『男たちの晩節』角川文庫2007,郷原宏「解説」p.285)

郷原氏自身は、はたして意識されていたのだろうか。