「原敬る」

和田垣謙三『兎糞録』(至誠堂書店、大正二年七月十四日初版発行、大正九年二月十九日四十版)より。

五六 原敬
力士伊勢濱、寒玉子と申合ひ、互に土俵の砂を蹴立てゝ手に汗を握らしめしが、如何なる機(はづみ)にや、伊勢は誤つて玉子の腹部をしたゝか蹴飛したり。玉子、何かは以て堪るべき、グッといひ樣打倒れ、やがて火を吹く如く泣面を澎(ふく)らせながら叫んで曰く、「ソンナ亂暴な相撲があるものか、内務大臣ぢやあるめえし」と。伊勢、これを氣の毒に思ひしが、咄嗟の場合「内務大臣」の意味を解すること能はず、「内務大臣とは何の事だ」と問ひしに、玉子は苦しき息を喘ぎながら、「ハラケルだ/\」と答へたり。蓋し内務大臣原敬を捩(もぢ)らしたるなり。名詞に er を附して之を動詞とするは、其例西洋文法に甚だ多し。この玉子、なか/\隅に置けぬハイカラといふべく、やがて孵化して關トリとなること必定なり。(p.141)

「寒玉子」の最高位は前頭九枚目、らしい。つまりめでたく「関取(鳥)」となったようだ。

日本俗語大辞典
はらける(原敬る)[動](「原敬」に動詞化する接尾語「る」をつけたもの)うそをつく。当時の内務大臣原敬を動詞化したもの。1914年の議会以来の流行語。◆『ポケット顧問 や、此は便利だ』増補訂正版(1915年)〈下中芳岳・秋永東洋〉「原敬る うそをいふことを意味する。又は、づう/\しい。大正三年春の議会以来の流行語」◆『寸鉄』第一号(1919年)「是々非々主義の原敬氏、懐手して待つほどに熟柿は落ちて天下は政友会の手に帰しぬ。それに就き思起すは曾て力士伊勢浜、寒玉子と申合ひ、こゝを先途と揉合ふ中、如何なる機か、伊勢誤って玉子の腹をしたゝか蹴り、玉子泣面ふくらせつゝ、『そんな乱暴な手があるものか、内務大臣ぢやあるめえし』と蓋し時の内相、原敬氏に er を付しハラケルの動詞にもぢらせたるなり」
米川明彦編『日本俗語大辞典』東京堂出版2003)

「1914年の議会以来の流行語」というのは、『や、此は便利だ』の記述を踏まえたものだあろうが、そうすると、『兎糞録』の初版発行年とは合わなくなってしまう(『寸鉄』の記事は、『兎糞録』のパクリ?)。それに「議会以来の流行語」というのは、どういうことだろう。角界で生まれた俗語が、議会の答弁か何かで広まった、ということなのだろうか。
もっとも、和田垣謙三という人は、「どこまでまじめでどこまで冗談かわからない」人物であったらしく、学年末に出題した試験題目にも、「テキレッツのパーについて解釈せよ」というのがあったのだそうで(高島俊男「明治タレント教授」)、『兎糞録』の内容も、どこまで信頼に足るものなのか分からないのだけれども。