「文学の鬼」との異名をとり*1、また、「私小説」という言葉の生みの親としても知られる宇野浩二の作品は、ほぼ自身の実体験に基づくものだったのではないか――、などと何の根拠もなくおもっていたが(というより、昨夏まであまりきちんと読んでいなかったのだが)、改めて読んでみると、実はそうでもないことに気づかされる。
たとえば『蔵の中・子を貸し屋 他三篇』(岩波文庫1992第7刷*2)には、表題作の「蔵の中」「子を貸し屋」のほか「一と踊」「屋根裏の法学士」「晴れたり君よ」が収められているが、創作性の強いことが明らかな「子を貸し屋」は措くとしても、その他の各作品について、宇野自身は「あとがき」で次のように述べている。
『藏の中』は、はつきりいふと、近松秋江先生が、あらゆる著物を質にいれてしまつた上に、自分が現在きてゐる著物まで質にいれてゐる、といふやうな話を、廣津和郞から、聞き、その話を元にして、その頃(大正六七年ごろ、)私もさかんに質屋がよひをしてゐたので、その時分の私自身の生活と感想のやうなものもいくらか(かなり)取りいれて、だいたいは空想で作つたものである。(pp.203-04)
『一と踊』は、これも、ある友人が、ある時、ある山の温泉に滯在ちゆうに、ここに書いたやうな、(もつとも、ここに書いたやうなのは私の空想であるが、まづ、このやうな、)二人の老婆の踊りを見た、といふ話から、私のいはゆる體驗したやうな事を元にして書いた、やはり、作り話である。(p.204)
『屋根裏の法學士』は、これを書いたころ私が下宿をしてゐた九段の中坂の下へんの下宿屋を舞臺にしただけで、やはり、まつたく作り話である。(p.204)
『晴れたり君よ』は、書き出しのへんが本當にちかい話で、中頃のはうもその時分の私のいはゆる體驗のやうなものではあるが、この小説を書く氣になつたのは、はじめの方に書いたやうな事を經驗したのが『元』であつて、それを元にして、鼻唄でもうたふやうな氣で、作りあげたものであらうから、まづ『若氣』が作つた出來そこなひの唄のやうなものであらうか。(p.205)
「空想」「作り話」などと、こうまで「手の内」を明かされては、いささか拍子抜けする気がしないでもないのだが、晩年に至って宇野がそこまで強調しなければならなかったのも、何か理由があってのことだったかもしれない。
ちなみに「屋根裏の法学士」に出て来る「下宿屋」の描写として、以下のような印象的な一節がある。
さて、法學士乙骨三作の下宿は、ある坂の中腹であつて、しかもそれが往來の面よりも二尺ほど低い地面にたつてゐた。だから、彼の部屋は、往來(すなはち坂)に面した二階にありながら、道をとほる人の顔と、室内にすわつてゐる彼の顔とが殆ど同じくらゐの高さになるので、窓をあけはなして、押し入れの戸もあけておいて、そこの寢床の上に横臥しながら、往來のはうを見わたすと、往來の人は、まさか押し入れの中に人がゐるとは思はないから、誰も見てゐる者のない空の部屋のつもりで、無關心な態度で通つて行くので、彼は通つて行く人人を手に取るやうに眺めることができるのであつた。(p.93)
似た描写は、宇野の『苦の世界』にも出て来る。引用は『苦の世界』(岩波文庫1989第17刷*3)から。
私の部屋は往来にめんした二階にあったが、その下宿屋の建物が坂の中腹に位置していたので、私のすわっている畳と、往来の人のあるく土とがほとんど同じ高さだった。だから、窓をあけて首をつき出した私は、家の二階部屋にいるにもかかわらず、自分の顔とおなじ高さに往来する人々の顔を見いだして、…(〈その二〉p.130)
その時、表のかた、今日の今朝私が窓をひらいて、通りがちょうど坂になっているので、私のふむ畳と往来の高さとがほとんどおなじだとか、窓からつきだす私の顔と、往来をゆく人の顔とがほとんどおなじ高さにあるとかいってよろこんだところの、…(〈その二〉p.147)
こういった描写は、まさに自身の体験に基づくものであったろう。なお「屋根裏の法学士」というのは、江戸川乱歩の「屋根裏の散歩者」を想起させるが、宇野の上記の記述がなければ、「屋根裏の散歩者」は(タイトル、屋根裏からの「窃視」という設定も含めて)世に出なかったと思しい。宇野の「夢見る部屋」(池内紀・川本三郎・松田哲夫=編『日本文学100年の名作 第1巻1914-1923 夢見る部屋』新潮文庫2014等)における執拗な室内描写や幻燈趣味なども、乱歩に与えた影響は大きかったと思われ*4、事実、乱歩の随筆でも何度か言及されている*5。
乱歩が特に初期の宇野作品を耽読したことはよく知られるところで、最近出た落合教幸+阪本博志+藤井淑禎+渡辺憲司〈編〉『江戸川乱歩大事典』(勉誠出版2021)も「宇野浩二」を立項しており(pp.432-36)、そこには、
初期乱歩短編の文体には宇野浩二からの影響が顕著である。大正後期の文壇小説の饒舌体が乱歩・横溝にもたらした影響の問題や、また、読者への語りかけという、のちの少年探偵団シリーズで最大限発揮される語りの形式の起源を考察する上でも、宇野浩二の存在は大きいであろう。(pp.435-36)
などとある(担当執筆は安智史氏)。
とまれ宇野の創作態度は、「私小説」のスタイルを取りながら、空想(作り話)と事実とを意図的に綯交ぜにするというものだとおもわれ、このことをよく象徴する表現が、「枯木のある風景」に古泉圭造(小出楢重がモデル)の言葉として出て来る。
「それで、今度の風景は、その雑物をみんな取って、こっちの絵エ(『裸婦写生図』を指さしながら)の裸婦の横たわっている辺に、枯木の丸太を四五本横倒しにおいたろと思てんね。それだけで、後はまだ思案ちゅうや。……今までの、写実一点張りは、これで(再び『裸婦写生図』を指さして)当分打ち切りにして、これからは、芭蕉風に、写実と空想の混合酒(カクテエル)を試みてみよと思うんや。題して『枯木のある風景』というのはどうや。」
「ふうむ、」と島木は唸った。
島木はその晩ほとんど眠れなかった。その日、島木は、古泉の家の門を出た時から自分の家に帰るまでの間、「芭蕉風に、写実と空想の混合酒(カクテエル)を試みてみよと思うんや、」という言葉を何度口のなかで繰り返したか知れなかった。(講談社文芸文庫版pp.236-37)
しかし、宇野の作品には実在の女性をモデルにしたものが多く、その女性たちについての記述が、事実なのか、はたまた創作なのかよく判らないところが、かえって「批判」を呼ぶことにもなったのではなかろうか。
水上勉は、『宇野浩二伝』で次の如く書いている。
「苦の世界」「軍港行進曲」では伊沢きみ子が、「山恋ひ」その他の「諏訪もの」では(原とみはともかく)村田キヌが、「子の来歴」「人さまざま」「四方山」では星野玉子や公吉やキヌが、事実といくらか変えられて、あるいは歪めて書かれていなかったか。たとえば伊沢きみ子が事実は四歳も年下だったが二つ年上にされている点など、意地悪く考えれば作者に周到な自己弁護の匂いがなくもない。年上の妓を身売りに出すのと年下の妓を出すのとでは、ずいぶん違うからである。よしそれがあっても、「人は嘘を書くことが出来ぬ」と浩二はいう。だからそれで浮ばれなくても、モデルたちは観念しなければならないということになるのである。浩二の小説づくりの態度がそうである以上は、小説からその「真」と「嘘」とをふるい分ける作業はまたなみたいていのことではない。(『宇野浩二伝(上)』中公文庫1979:408-09)
こういった宇野の「自己弁護」に関しては、大岡昇平が次のように言及しているのを最近見つけた。
一九七〇年水上勉が『宇野浩二伝』を書き始めた。彼は「續軍港行進曲」の叙述や生前の宇野自身の暗示に従い、道玄坂上や三宿方面にこの竹屋(渋谷の宇田川横丁附近にあった竹屋―引用者)を探したのだが、遂にそれは発見できなかった。私はそれについて、当時感想文を書いたことがある。要旨は宇野の小説では、この竹屋が色街の近くにあって、表を着かざった芸者やお酌が通る。すると元芸者の愛人がいら立ち、やがて宇野に別れ話を持ち出して、横須賀から芸者に出るということになっている。しかし現実の竹屋は練兵場通りにあり、裏は柴田君の家に代表される高級住宅地に接していて、近所に色街なぞないのである。それをそういう風に作ったのは、私小説通弊の「私」一人いい子になるためのうそで、実際は宇野がすすめて芸者にしてしまったのではないか、という疑問を提出しておいた。(略)
竹屋の裏座敷には宇野の母親が同居していた。この母親は、水上の調査によれば、北河内で水商売をしていたことがある。(略)女はむしろ宇野母子によって売り飛ばされたのではないかというのが、私の意見であった。(略)
当時接触があった出版社出入の「女友」から手紙が来て、愛人がヒステリイを起す記事が『苦の世界』にある。この女はそれきり出て来ないし、水上の調査はこの「女友」に及んでいないが、(略)証言が事実とすれば、(宇野の)新しい奥さんとはこの「女友」ではなかろうか。
要するに女は九段下の下宿からではなく、「竹種」(竹屋の名前)にいる間に芸者になって出て行ったのである。(略)女の身代金を敷金として、新しい女と共に移ったのでなければならない(略)。
水上勉は私とは成城で隣組なので、私はこの情報をすぐ伝えた。(略)話の録音テープも聞かせた。彼も宇野の書き方のあいまいさに気付いていて、私の意見に半ば賛成だったが、『宇野浩二伝』を単行本にする時も結局この証言を取り入れなかった。彼としては恩師について書くに忍びなかったに違いないので、これは伝記を書くに当っての一つの態度といえる。しかし第三者である私としては、一応書きとめておく方がいいかも知れないので、私自身の回想を書く途中で知った一つの可能性として記しておく。(大岡昇平『幼年』文春文庫1975:188-91)
もっとも水上は、『宇野浩二伝』には宇野について知り得たすべての事柄を盛り込んだわけではない、と後にいっている。『わが文学 わが作法―文学修行三十年』(中公文庫2021←中央公論社1982)で次の如く記している。
…私だけがきいたこと、私だけが見たことを、急に(宇野浩二―引用者)先生の晩年に至って手柄顔に書きつづけることに、多少の控え目を意識していた。それは、私のなかの節度といってもいいし、私だけがきいていることのなかには、あるいはききちがいや、臆測が作用して、先生の真実をあやまりつたえる懸念がなしとしない。そのことを恐れたのである。(略)
いずれにしても、私は、自分で調査し、メモしてきたことや、先生の許にいた日ごろ、先生ご自身からきいたことなどの思い出のすべてを、ここに書いているとはいえない。(略)したがって、作品にも出さなかった調査メモや、先生の言行録については、私はそのまま、今日も机のよこの筐においているのである。(pp.133-34)
この「調査メモ」には、大岡から聞いた話の概要も記してあったかもしれない。
それにしても、上記の大岡の話が事実であるとすれば(その可能性が高そうだが)、ひどい話である。ひどいことを自覚していたからこそ、そのあたりを虚=創作でごまかしたのだろう。
ちなみに、『苦の世界』で「ヒステリイを起す」愛人のモデルとなった伊沢きみ子は、宇野と別れて二年後に自殺している。昭和の初めに宇野は精神に異常をきたすことになるが、その原因をこのあたりに求めるのが、嵐山光三郎氏である*6。
しかしながら、この連作(『苦の世界』のこと―引用者)を読めば、「のんびり」どころか、宇野発狂の因が、この家庭事情暴露小説に対する、モデルとされた女たちの反発にあったことが推測される。宇野の情痴私小説には、「火宅を楽しむ陽気さ」がある。愛人をつぎつぎと作り、それを題材として私小説を構想する「情話製作工房」あるいは「私家版赤新聞」告白編といった気配さえある。〈その一〉に書かれたきみ子は猫いらずを飲んで死の抗議をした。それが、一見、傲慢不埒な宇野の心に斬りつけぬはずはない。宇野の職人芸は、私小説の形をとって、主人公が宇野自身の投影として見せつつも、それが「真の宇野」であったかははなはだ疑わしい。どこかに嘘がある。その弁明をするかのように『苦の世界』の最終章〈その六〉は、「ことごとく作り話」というタイトルである。(「宇野浩二――なぜ薔薇を食べたか」『文人暴食』新潮文庫2006:348-49)
宇野の「発狂」については、たとえば近藤祐『脳病院をめぐる人びと―帝都・東京の精神病理を探索する』(彩流社2013)の「プロローグ」(pp.7-8)や第3章のpp.206-10も、広津和郎の記述などを引きつつ*7、その症状なども含めて詳述するところであった。「脳梅毒による進行麻痺」との診断がくだされたという。
それでも宇野は、数年で奇蹟的なカムバックを果たす。
私は、昭和四年に大病する前(ママ)、昭和四年一月號の「改造」に小説を書く約束をして、昭和三年の十一月二十五日頃であつたか、その日、徳廣(徳広巌城。上林暁のこと―引用者)が原稿を取りに來ることを承知しながら、菊富士ホテルを體だけ引き上げたことがある。さうして、その詫びのつもりで、昭和七年十二月八日、病後の第一作『枯木のある風景』を徳廣巖城にわたした時は、誇張していへば、互いに萬感胸に迫るものがあつた。(宇野浩二『文學の三十年』中央公論社1947:167)
宇野の作風はしばしば、病前と病後とでがらりと変わった、というふうに言われるけれど、その変化について手軽に知ることができるのが、『思い川・枯木のある風景・蔵の中』(講談社文芸文庫1996)であろう。昨夏、「人間椅子が選ぶ講談社文芸文庫フェア」(全10冊)のうちの1冊に択ばれ、選者の和嶋慎治氏が次のような言葉を寄せている。
軽妙饒舌な文体で、つかの間垣間見る夢を描くのが、宇野の初期作品の特徴であった。一転、畢生の作「思い川」においては、簡潔な筆致で夢を夢のままに結実させている。まさに文学の鬼、執念の人とは宇野浩二である。
なるほど初期の「蔵の中」「一と踊」などもよかったが、どれか一作を択ぶとすれば、私も『思い川』をとる。岩波文庫に入っていた初期短篇「晴れたり君よ」と同じく、村上八重をモデルとした女性が登場する作品で、記述も重なる部分があるが、「その後」のことについて詳述している(やはり「虚」も交えて書いているだろうけれども)。
ところでタイトルの「思い川」に関しては、作品冒頭でエピグラフ風に、
おもひ川ながるる水のあわさへも うたかたびとにあはできえめや 『伊勢物語』
と示されていて、この歌に由来するであろうことが暗示されるが、水上勉は次のように述べる。
「思ひ川」は、「あるひは 夢みるやうな恋」という副題があり、さらに「おもひ川ながるる水のあわさへもうたかたびとにあはできえめや『伊勢物語』」と、小さく題の横に歌が掲げられていた。この歌について、新潮社版「日本文学全集」『里見弴・宇野浩二集』の巻末注解で、吉田精一氏が、この歌は「後撰和歌集」巻第九、恋歌一の「思川たえず流るゝ水の泡うたかた人にあはで消えめや」の作者「伊勢」と「伊勢物語」を混同した誤りであろうと指摘しておられる。発表誌の「人間」昭和二十三年八月、十月、十一月号では、「おもひ川たえずながるる水のあわもうたかたびとにあわできえめや」とあり、九月、十二月号では、単行本と同様「たえず」が削られ、「も」が「さへも」となっている。本歌をかえて、しかも「伊勢物語」とされているわけだが、このような作為は、はたして吉田氏の指摘される「伊勢」と「伊勢物語」の混同であるか、それとも、それを承知の上で「伊勢」物語と、本歌をかえて使われたのか、そこのところは今となっては謎である。(『宇野浩二伝(下)』中公文庫pp.365-66)
たしかにこれは謎だとしかいいようがないが、宇野の頭のなかには、以下の小唄の一節も谺していたのではないだろうか。
今でも私のおぼえている唄は、辻君のたえぬ流れの思い川というのだった。辻君のたえぬ流れの思い川、恋にはほそる柳かげ、しばし止めたき三日月の、櫛のむねさえ小夜風に、さらりと解けし洗い髪、むすんで清き水の音。
いい唄だね、と私が思わず感嘆していうと、いい唄だろう、と、しかし参三はそれを聞かれたのをちょっとはずかしがるような表情をして、
「この一ばんしまいの、むすんで清き水の音、というとこを名人がやると、聞いていると、真に水の音がきこえるというくらいだよ。」
(略)だが、そのたえぬ流れの思い川というのはなんの事だかわからないので、「君、木戸君、そのたえぬ流れの思い川というのはどういう事だい、」と聞くと、
「さあ、」といいながら、彼もきっとよくわからないのだとみえて、ちょっと返事がなくて、(略)「たえぬ流れの思い川はたえぬ流れの思い川だよ、」と参三はいって、「君、雀はいいね」というのである。(『苦の世界』〈その五〉岩波文庫pp.300-01)
――
宇野浩二は、ことし生誕百三十年、そして歿後六十年を迎えた。二月に出た頭木弘樹編『ひきこもり図書館―部屋から出られない人のための12の物語』(毎日新聞出版2021)には、宇野の「屋根裏の法学士」が採られている(pp.121-38)。
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*1:1927年に、「小説の鬼」の副題を有する「日曜日」を発表したことに由来するという。後述する宇野の『思い川』でも、「昭和二年のはじめごろ」牧新市(作者の分身)が『小説の鬼』という文章を書いたことになっていて、作中には次のようにある。「牧は、自分のもっとも愛している『文学』の生活(いとなみ)に、『小説の鬼』などと名づけて、不安におそわれながら、そのつぎに、もっとも愛している筈である、『恋愛』の生活、『家庭』の生活というようなものにも、やはり、何ともいえぬ、漠然とした、いわば『なになにの鬼』とでもいうような、不安を、その頃、やはり、ときどき、ふと、覚えるようなことがあった」(講談社文芸文庫版pp.108-09)。
*2:初刷は1951年だが、旧字旧かな。
*3:初刷は1952年、1972年第12刷改版。新字新かな。
*4:ついでに云うと、新潮文庫のこの巻には乱歩「二銭銅貨」も収められている。
*5:そもそも、私が中学生のころに「宇野浩二」の名を知ったのは、乱歩の随筆によってである。
*6:なお『思い川・枯木のある風景・蔵の中』(講談社文芸文庫)の柳沢孝子「作家案内」には、「昭和二年の発病は、直接的には性病からきた精神障害であったと言われるが、(村上)八重との関係のもつれも無視できない」(p.328)とある。
*7:広津と芥川龍之介とが宇野に付き添って斎藤茂吉のもとへ病状を診てもらいにいった、という挿話は、日本近代文学史上の「事件」としてよく知られるところである。後述『思い川』には、芥川をモデルとする「有川」が登場する。歿年、命日も事実と同じである。