「送り仮名」について

 明治二十四年(1891)に博文館から刊行された紅葉尾崎徳太郎『鬼桃太郎』は、紅葉の作品としては比較的マイナーであるかもしれないが、昭和五十年(1975)、ほるぷ出版から覆刻刊行されている。
 同作品については、唐沢俊一『カラサワ堂怪書目録』が、「アンチクライマックスもいいところで、紅葉も露骨に手を抜いたことがわかる」(「もうひとつの桃太郎の大冒険――『鬼桃太郎』尾崎紅葉」。光文社文庫版2003←1999:184)と酷評している。
 その後、東雅夫編『妖怪文藝〈巻之弐〉響き交わす鬼』(小学館文庫2005)がほるぷ出版の覆刻本を翻刻しており(pp.71-102)、編者の東氏は、「従来ともすると、失敗作、愚作の刻印に甘んじてきた本篇ではあるが、犬・猿・雉子に対して狼・狒々・毒竜を配するビザールな趣向の妙といい、鬼ヶ島を地球外(!?)に設定したとおぼしきSF的着想といい、ナンセンスの極みというべき唐突な幕切れといい、これはまさしく百年後に真の理解者を得る類の作品だったと申すべきか」(p.382)と再評価した。
 かつて、同作品の「送り仮名」について調べたことがある。そのうち送り方が統一されていない箇所を、まずはいくつか見てみよう(漢数字は丁数、( )内はルビ)。
(1)「桃實(もも)の裏(うち)より生(うま)れ出(い)でたる桃太郎(ももたらう)」(一ウ)
   「苦(にが)桃(もゝ)の裏(うち)より生(う)まれたればとて」(五オ)
(2)「我(われ)はと名乘(なのり)出(い)づるものあらざりけり」(二ウ)
   「苦(にが)桃(もゝ)太郎(たらう)と名乘(なの)らせぬ」(五オ)
(3)「火燄(くわえん)を吐(はき)て」(五オ)
   「火燄(ほのほ)を吐(は)きて」(六オ)
   「呼吸(いき)を吐(は)けば」(十二オ)
(4)「別(べつ)に取(と)らすべきものあり」(七オ)
   「取(とつ)て戴(いたゞ)き」(七ウ)
(5)「類(るゐ)は友(とも)を以(もつ)て聚(あつ)まるの喩(たとへ)」(十一オ)
   「眼前(がんぜん)に聚(あつま)りぬ」(十二オ)
(6)「行(ゆ)け行過(ゆきす)ぎ戻(もど)れ戻(もどり)過(す)ぎ行(ゆき)戻(もど)りつ、戻(もど)り行(ゆ)きつ」(十二ウ〜十三オ)

 その他、「行(おこ)なはせて」(十二ウ)「擊(うち)ければ」(十三ウ)「風(かぜ)の吹(ふく)ごとし」(十四オ)などの例からも明らかであるように、動詞の場合、紅葉は必ずしも「活用語尾」の部分を送ったわけではないようである。
 以下、その他の場合を個別に見てゆく(上に挙げたものも含む)。

【複合動詞】(□□○型…□は漢字、○は送りがな)
「攻來(せめきた)り」(一ウ)「勝矜(かちほこ)らせて」(一ウ)「名乘(なのり)出(い)づる」(二ウ)「打摧(うちくだ)かれ」(三オ)「亘(わたり)合(あ)はせ」(四オ)「摧(ひし)折(お)れたる」(四オ)「傳(つたへ)聞(き)く」(四オ)「立(たち)出(い)でゝ」(四ウ)「浮來(うききた)りぬ」(四ウ)「抱(いだき)還(かへ)れば」(四ウ)「待構(まちかま)へたる」(四ウ)「推(おし)渡(わた)り」(五ウ)「引抜(ひきぬ)き」(五ウ)「引攫(ひきさら)うて」(五ウ)「届(とゞけ)出(い)でず」(六オ)「削成(けずりな)して」(六オ)「投出(なげだ)し」(七ウ)「引(ひき)懸(か)け」(七ウ)「徂々て」(八オ)「吹(ふき)荒(すさ)み」(八ウ)「立留(たちとゞま)つて」(八ウ)「飛來(とびきた)る」(八ウ、十一ウ)「罷(まかり)在(あ)る」(九オ)「聞及(きゝおよ)び」(九ウ)「召寄(めしよ)す」(十オ、十一オ)「躍出(をどりい)でて」(十一ウ)「打(うち)懸(か)け」(十一ウ)「打乘(うちの)り」(十二オ)「戻過(もどりす)ぐる」(十二ウ、十三オ)「行過(ゆきす)ぎ」(十二ウ)「飛廻(とびまは)る」(十三オ)「踐外(ふみはづ)して」(十三オ)「落(おち)入(い)りて」(十三オ)「卷裹(まきくる)め」(十四オ)「吹消(ふきけ)す」(十四オ)「舞(まひ)下(さが)りて」(十五オ)

【複合動詞】(□○□○型)
「生(うま)れ出(い)でたる」(一ウ)「携(たづさ)へ還(かへ)らむ」(二オ)「勇(いさ)み立(た)てば」(五ウ)「薄(うす)れ行(ゆ)き」(十三オ)「泡(あは)立(だつ)海(うみ)」(十三オ)

【名詞】
「芝刈(しばかり)」(一ウ)「其力(そのちから)」(二オ)「攻入(せめいり)」(三オ)「其(その)身(み)」(三オ)「斜(なゝめ)ならず」(三オ)「此觸(このふれ)」(三ウ)「我(わが)片腕(かたうで)」(三ウ)「此(この)時(とき)」(三ウ)「不治(ふぢ)の疾(やまひ)」(四オ)「其(その)長(たけ)」(五オ)「其國(そのくに)」(五ウ)「此條(このでう)」(五ウ)「我儘(わがまゝ)に」(六オ)「之(これ)を」(八オ、十一ウ、十二オ、十三オ)「十三卷(まき)」(九オ)「此(この)遺恨(うらみ)」(九ウ)「此度(このたび)」(九ウ)「御許(おんゆるし)」(九ウ)「無二(むに)の交(まじはり)」(十オ)「立所(たちどころ)」(十オ)「恐多(おそれおほ)き」(十一オ)「引出物(ひきでもの)」(十二オ)「其(それ)は」(十二ウ)「限(かぎり)あれば」(十三オ)「怒(いかり)を爲(な)し」(十三オ)

※「盪揺(おしうご)かせば」(六オ)「退出(まかんで)けり」(八オ)「撃破(うちやぶ)らむ」(十一ウ)などは対象外とした(熟語の宛字である可能性があるため)。

 以上の例から、複合動詞のうち、前項の動詞の拍数が二である場合は、送りがなが全く附されていないことが分かる。ところが、三拍以上になるとゆれが生じている。
 また代名詞や名詞にはかなを送っておらず、これらに例外はない。
 『二人比丘尼色懺悔』でも、複合動詞の場合、「吹通(ふきとを)して」(一ペ)「取縋(とりすが)る」(二ペ)「立寄(たちよ)り」(四七ペ)「振(ふり)解(ほど)き」(八六ペ)などのようにかなを送るのが一般的であるが、これらを含めた一〇八例中、「もし聞(き)き入(い)れ申さゞるに於(おゐ)ては」(九ペ)「驀地(まつしぐら)に馳(か)け来(く)る武者(むしや)一騎(いつき)」(三三ペ)「守(もり)真(ざね)も思(おも)はず笑(ゑ)み返(かへ)す」(七九ペ)の三例が例外的なものである。

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 活用語を漢字仮名交じりで表記する場合、「活用語尾」の部分のみ送る、というのは、明治期にも見られる考え方である。
 山東功(2002)「明治期送り仮名法制定経緯について」(大阪女子大学人文学科『女子大文学 国文篇』第五十三号)によると、中根淑『日本小文典』(明治九年刊。早大図書館蔵本がウェブで見られる)が、すでに「活用語尾を送るということを明確に打ち出し」ている*1。現行の送り仮名法も、基本的にはこれに従っている。

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 現行の送り仮名法は、昭和四十八年(1973)内閣訓令・告示の「送り仮名の付け方」にもとづく。これは昭和三十四年(1959)の「送りがなのつけ方」の改訂版で、「改訂送り仮名法」とか「改訂版送り仮名の付け方」とか呼ばれることもある。
 この改訂版(以下、「付け方」という略称を用いる)の本文(リンク先参照)は、まず「1 単独の語」「2 複合の語」(分類を示すアラビア数字は便宜的につけたもの)に分けられていて、「1 単独の語」の内部は、「1-1 活用のある語」「1-2 活用のない語」に分けられている。1-1 には二つの「通則」が含まれ、「通則1」の本則は、「活用のある語は、活用語尾を送る」というもの。たとえば五段動詞だったら、「読む」「書く」「憤る」「承る」などとなるし、一段動詞であれば、「陥れる」「考える」「潔い」などとなる。動詞等の「活用語尾」を「接辞によって変化する部分」と考えてしまう向きもあるが、そうなると、一段動詞の場合、たとえば「考える」の「かんがえ」の部分までを語幹と見なすことになり、未然形や連用形の活用語尾が消えてしまう。したがって、「かんが」までを語幹と見なすのである。しかし、五段動詞以外の二音節の動詞は、語幹と活用語尾との区別がなくなってしまう。たとえば「見る」の未然形は「み(ない)」となるし、連用形は「み(ます)」となるが、この「み」を語幹に含めると活用語尾が消えてしまうし、活用語尾と見なせば語幹がなくなってしまう。こういう動詞に関しても、「付け方」はもちろん目配りしていて、1-1 の末尾に、「(注意)語幹と活用語尾との区別がつかない動詞は、例えば、「着る」、「寝る」、「来る」などのように送る」、とある。
 このような二音節の一段動詞やカ行変格活用動詞については、形態論の立場では、音素文字レヴェルで考えるので、共通の語幹が取り出せる。但しその場合、「活用」というものを認めないことになる。たとえば、五段動詞の「読む」「書く」に接辞をつけたのを音素文字(ラテン字)でそれぞれ示せば、「yomanai yomimasu yomu yomeba yomoR」(Rは長音)「kakanai kakimasu kaku kakeba kakoR」の如くなり、 yonde(撥音便)、kaite(イ音便)などいわゆる音便形を除外すると、共通形態素「yom」「kak」を取り出せる。これらは子音で終わっているから、「子音動詞」と定義する。一方、一段動詞の「考える」「見る」に接辞のついた「kangaenai kangaemasu kangaeru kangaereba kangaeyoR」「minai mimasu miru mireba miyoR」からは、共通形態素「kangae」「mi」を取り出せる。これらは母音で終わるから、「母音動詞」と定義するのである。こう考えると、「母音動詞」「子音動詞」に接辞がつくことによってそれぞれ特定の意味(「否定」「命令」等)を表すということになる。つまり、活用を考慮する必要がなくなる。しかも、これまで「上一段」とか「下一段」とか区別していたが、その必要もないわけである。「オッカムの剃刀(Ockham's razor)」という言葉があるとおり、分類上はこれでかなりスリムになって、説明もしやすくなる。
 しかしそれだけが優先されることで、単なる intellectual sport に陥ってしまうのはよくないから、十分注意しなければならない。もっとも上のような場合、形態素解析によって、いわゆる「ら抜きことば」を四段動詞(現在の五段動詞)の可能動詞化に並行する現象として解釈することが可能になる――というメリットも確かにある。これについては次回述べる。
 さて、いま述べているのは、「送り仮名」についてであった。つまり、音素文字ではなく、仮名という音節文字に従ったルールなのだから、先に述べたように、判断しにくいものは(注意)欄を設けて例外的に扱うほかないわけである。
 話を戻す。1-1 の〔通則1〕の末尾に(注意)欄があることは、いま見たとおりであるが、その直前に「許容」欄がある。これらは各項目に設けてある。その「許容」欄には、

次の語は、( )の中に示すように、活用語尾の前の音節から送ることができる。

とある。そして、「表す(表わす)」「行う(行なう)」などの例が(特に説明もなく)挙げられている。「表す」「行う」は、いずれも〔通則1〕の本則「活用語尾を送る」に従ったものである。しかし、「表わす」「行なう」が許容とされるのは、前者は「表(ひょう)す」と誤解される場合があるし、後者は促音便の場合、「行(い)った」とまぎらわしくなるせいであろう。もっとも、特に後者については、「遠足に行った」「式を行った」等のごとく、文脈で読み分けられることがふつうは可能なのであり、そこで、「行う」を基本として、「行なう」は「許容」と処理すれば問題ない、と判断されたのだろう。
 〔通則1〕には例外則もある。これは、

(1)語幹が「し」で終わる形容詞は、「し」から送る。
(2)活用語尾の前に「か」、「やか」、「らか」を含む形容動詞*2は、その音節から送る。
(3)次の語は、次に示すように送る。

のみっつである。このうち(3)に、「少ない」という例外語がみえる。なぜこう送るのかというと、本則にしたがってかりに「少い」とした場合、その否定形は「少くない」となり、これは「すくない」と読み誤られるおそれがあるからではなかろうか。「すくない」と「すくなくない」、これは全く反対の義になるから、誤読が致命的な誤解を招く場合もある。ゆえに「少ない」のみ認め、「少い」を許容しなかったのだろう。
 次に、1-1の〔通則2〕である。この本則は、

活用語尾以外の部分に他の語を含む語は、含まれている語の送り仮名の付け方によって送る(含まれている語を〔 〕の中に示す。)。

というもので、みっつに分かれている。すなわち、

(1)動詞の活用形又はそれに準ずるものを含むもの
(2)形容詞・形容動詞語幹を含むもの
(3)名詞を含むもの

である。(1)にはたとえば「晴れやかだ〔晴れる〕」がみえる。さきの〔通則1〕の例外則(2)に、「か」「やか」「らか」を含む形容動詞は、その音節から送る」というのがあったが、これに従うなら、「晴やかだ」となる。しかし、〔通則2〕(1)により、「はれやかだ」には、「はれる」という動詞が含まれていると考えるのである。そこで「はれる」は、〔通則1〕の本則に従って「晴れる」となるから、それにもとづき、「晴やかだ」ではなく、「晴れやかだ」となる。ただし、これも(許容)欄で、「晴やかだ」をみとめる。これは、「読み間違えるおそれのない場合」と見なされた結果であるが、動詞から転じて名詞となった「はれ」に関しても、「付け方」では「晴れ」を基本、「晴」を許容としていて、これも「読み間違えるおそれのない」ための許容、と見なされている(後述)。
 ちなみに、〔通則2〕(1)には、「当たる〔当てる〕」「集まる〔集める〕」「終わる〔終える〕」「変わる〔変える〕」「交わる〔交える〕」の如く、自動詞‐他動詞の対立が問題となるものが挙げられている。これらについて「許容」欄では、「当たる(当る)」「終わる(終る)」「変わる(変る)」の如く、自動詞のみ「る」だけ送る方式も認められる。特に促音便形のばあい、誤読される可能性が低いからだろう。つまり、「当って」「終った」等は、読み間違いのおそれがないということである。「付け方」は、活用形を明らかにすることと、読み誤りを避けることとを眼目に定められているが、暗黙(?)のルールとして、煩わしさを避ける、という点がある。すなわち、必要最小限の送り仮名をつけるということも、かなり重視されているのである。読み間違えがなさそうであれば、なるたけ少ない仮名を送る、ないしはそれを許容とする、という方式で一貫している。
 〔通則2〕にも(注意)欄があり、

次の語は、それぞれ〔 〕の中に示す語を含むものとは考えず、通則1によるものとする。

と書かれている。そのなかに、「恋しい〔恋う〕」という例が挙げられている。この場合、〔通則1〕の例外則(1)「語幹が「し」で終わる形容詞は、「し」から送る」が適用されるわけである。もっとも「恋う」は、現在では「恋い焦がれる」等のような複合動詞としてしか使われる機会がなく、「恋しい」のほうが使用頻度が高い、という事情もあるから、「恋う」のほうがむしろ例外的だと考えられたのかもしれない。しかも、連用名詞形(連用形転成名詞)「こい」は、「恋」と書いて送り仮名をつけないことにしているから、このように処理しておいたほうが混乱も招かずに済む。混乱をまねくのは、たとえば「話す」の場合で、その連用名詞形「話(はなし)」は送り仮名をつけないことになっているのだが、たとえば「おはなしする」の場合、その「はなし」の部分を動詞の連用形と解釈するので、「話し」というふうに「し」を送ることになる。
 先ほどから名詞の話をしているが、名詞は、「1-2 活用のない語」の〔通則3〕本則、

名詞(通則4を適用する語を除く。)は、送り仮名をつけない。

が基本となる。そこで〔通則4〕を見ると、本則に、

活用のある語から転じた名詞及び活用のある語に「さ」、「み」、「げ」などの接尾語が付いて名詞になったものは、もとの語の送り仮名の付け方によって送る。

とある。「動き」「晴れ」「大きさ」「憎しみ」などが当該例だ。しかし、先に触れた「恋」「話」は、「例外 次の語は、送り仮名を付けない。」の「次の語」に挙げられているのである。「謡」「虞」「光」「組」なども同様である。ただし、やはり(注意)欄が設けられていて、

 ここに掲げた「組」は、「花の組」、「赤の組」などのように使った場合の「くみ」であり、例えば、「活字の組みがゆるむ。」などとして使う場合の「くみ」を意味するものではない。
 「光」、「折」、「係」なども、同様に動詞の意識が残っているような使い方の場合は、この例外に該当しない。従って、本則を適用して送り仮名を付ける。

と述べている。要するに、「動詞の意識が残ってい」ないものが、「例外」に挙げられているわけであろうが、その判断はむつかしい。というのも、後につづく「許容」欄に、

読み間違えるおそれのない場合は、次の( )の中に示すように、送り仮名を省くことができる。

とあって、「曇り(曇)」「晴れ(晴)」「狩り(狩)」「群れ(群)」「答え(答)」「問い(問)」などの例を挙げるが、これらも、人によっては、あるいは場合によって、「動詞の意識が残ってい」ないものと解釈されるだろうからである。つまりここでは、「意識」を持ち出したことで、解釈に幅をもたせることになっている。
 最後に「2 複合の語」について、少しだけ述べておく。この本則は〔通則6〕に挙げられていて、まず、

その複合の語を書き表す漢字の、それぞれの音訓を用いた単独の語の送り仮名の付け方による。

とある。その下位区分「(1)活用のある語」に、「書き抜く」「申し込む」などが挙げられているが、このふたつは「許容」欄で、「読み間違えるおそれのない」ため「書抜く」「申込む」という送り方も認められている。「(2)活用のない語」の、たとえば「乗り換え」も同様で、「乗換え」「乗換」という送り方が許容されている。ところが、「行き帰り」「伸び縮み」「乗り降り」などは、「行帰り」「伸縮み」「乗降り」と送ることが許容されない。これらはいずれも並列表現となっているものばかりで、前項と後項との文字数を合わせる意味もあるのだろうし、「伸縮み」「乗降り」などの場合、「伸縮」「乗降」の部分が熟字になって読みにくくなってしまうので、それを避ける意図もあったのかもしれない。

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 以上の記事は、あるところで話した内容を文字に起こしたものです。

*1:但し中根著には、形容詞―同(おなじ)・久(ひさし)・楽(たのし)など―は送りがなを送らない、また「以(モチテ)」「雖(イヘドモ)」などは「動詞と後詞=助詞」とで一語となっているから送らない、など独自の見解もあったようである。

*2:「形容動詞」は、現代語では動詞とまったく異なる活用の型を示すので、あえて「動詞」という用語を用いずに「ナ形容詞」と呼んで、「形容詞」=「イ形容詞」と区別する場合もある。