太陽を盗んだ男

太陽を盗んだ男』(1979,東宝

太陽を盗んだ男 ULTIMATE PREMIUM EDITION [DVD]
監督は、長谷川和彦。通称ゴジ。原案は、レナード・シュナイダー。長谷川氏は、この映画のほかには『青春の殺人者』(1976,ATG)しか撮っていない、いわば寡作の監督です。いつか連合赤軍事件の映画をつくりたい、と言っているそうですが、まだ映画化のめどは立っていないようです。
この映画を観たのは、これで三回目。大傑作です。デパートのモブ・シーン、派手なカースタントなど、「邦画」の規格をはるかに超えてしまっています。
本作品で、まず注目すべきなのは、フーセンガム―グレープフルーツ―赤い風船(このあたり、チャップリンの『独裁者』を意識したとしかおもえません)―ヘリウム風船―原爆…という、シンボリズムなのではないかとおもいます。すなわち「球体幻想」。なんだか、ロード・オーシュ卿の『眼球譚』みたいですが。
しがない理科教師・城戸誠(沢田研二)は、生徒から「フーセンガム」という綽名で呼ばれ、バカにされています。ですからこの映画は、彼の主体獲得の物語として観ることもできましょう(それが証拠に、「お前は何がしたいんだ?」と自問自答するシーンがあります)。
彼は、王貞治ウルトラマンレオ菅原文太(山下満州男警部)に、嫉妬や憧憬を抱いています。彼らは主体を獲得したヒーローである、と。そこで城戸は、原子爆弾というかりそめの主体を所有することを思いつきます。
そして、彼は東海村からプルトニウムを盗み(容疑者として全国に指名手配されるのが過激派です。時代だなァ)、原爆を所有することになるのですが、国家にたいする要求を思いつかず、個人的にシンパシーを抱いていた池上季実子(沢井零子。綽名はゼロ。どうです、暗示的ではありませんか)を喪ってしまいます。さらに、自分が原爆症に罹ってしまったことに気づいたうえに、ライバル山下をも喪ってしまいます。
そうなると、城戸のとるべき道は決まってしまいます。
またこの映画は、原爆*1製造シーンとか、山崎留吉(伊藤雄之助)がバスジャックして皇居に突っ込むシーンとか、タブーすれすれのシーンも描かれています。ですから、製作年から四半世紀を経た今日においても、新鮮さを失うことがありません。
なお、出色の「太陽を盗んだ男」論が、樋口尚文『『砂の器』と『日本沈没』 70年代日本の超大作映画』(筑摩書房)に採録されています。
そこで樋口氏は、

『砂の器』と『日本沈没』 70年代日本の超大作映画
太陽を盗んだ男』は、その肺活量の大きい演出によって、まさに興行価値のある見せ場のつるべ打ちでありながら、それが同時に個性的な作家性あふれる表現に結びついていて、大作と言えばイクォール作家性で御せないものという常識を粉砕するものだった。(p.251)

と、驚きをもって書いておられます。詳しくは、同書をご覧ください。

*1:ちなみに、この時限爆弾型原子爆弾の導線を警察側が切断するというシーンがあって、赤の導線を切るか黒の導線を切るか、すなわち「赤か黒か」決断を迫られるという緊迫した展開になっています。古畑任三郎の「赤か青か」(古畑対キムタク)は、あるいはこれが元ネタになっているのかもしれません。