おせん泣かすな、馬こやせ

 衣笠貞之助の弟子・稲垣浩のエセー集『ひげとちょんまげ―生きている映画史』(中公文庫1981)をこないだ読んでいたら、「一筆啓上、火の用心」というタイトルの文章があり(pp.85-88)、そこに「本多作左衛門の『一筆啓上、火の用心』という有名な手紙がある」(p.88)と書いてあった。これは以下、「おせん(仙)泣かすな、馬肥やせ」とつづくかの有名な書翰(国立国語研究所こちらなど参照)だけれども、実はこの典拠には不明な部分が多いという。
 新井益太郎『江戸語に学ぶ』(三樹書房2005)によれば、新井氏が山崎美成の『提醒紀談』(嘉永三年刊)を読んでいたところ、作左衛門が妻女に「一筆申火の用心、おせん泣すな馬こやせ」と書き送った話が『古老物語』にあると出ていたので、西尾市岩瀬文庫に問い合わせをして入手した。しかし、「何と『古老物語』に該当する話は載っていなかった。つまりこれは山崎美成氏の思い違いであった。だから私の宿題はまだ解けていない」(p.90)。
 また新井氏によると、元和年間(1615-24)に作られたとされる咄本『戯言養気集』に、「摂津有岡の城をとりまきし在番衆のかたより、国本への文に、態一筆火之用心、お松やさすな、馬こやせ、かしく」とあるそうで、これは『未刊随筆百種』第四巻や『噺本大系』第一巻にも入っているというから(同前pp.89-96)、今度確かめておきたい。なお、「レファレンス協同データベース」の回答を参照すると、同書は『日本小咄集成』上巻にも収録されているとのよし。
 さて岩瀬文庫蔵書の画像一覧を探れば、『古老物語』ならぬ『古老雑話』という書が見当り、もしやとおもって見てみると、はたしてそれはあったのである。「本多作左衛門〔の〕事」という項に―美成の引用とは少し異なるが―、「或とき作左衛門留守の妻へ出状ニ一筆申入火の用心おせん泣すな馬こやせと書て送りしと也」、とちゃんとあった(「西尾市岩瀬文庫 画像一覧」の「100066799 古老雑話 」の120コマ目冒頭。新井氏は別の本を見られたのだろうか。
 それにしても、居ながらにしてデジタル画像を見られるとは、つくづく、便利な時代になったものである(と、ファミコン世代のわたしでさえそうおもう)。

江戸語に学ぶ

江戸語に学ぶ