福永武彦の「深夜の散歩」

 福永武彦中村真一郎丸谷才一『深夜の散歩―ミステリの愉しみ―』(講談社文庫1981)を篋底に見出して、約十三年ぶりに読み返している。この間に、丸谷氏も故人となってしまった。
 同書は、福永「深夜の散歩」、中村「バック・シート」、丸谷「マイ・スィン」の三部から成る。解説は小泉喜美子が書いている。後にハヤカワ文庫にも入った(が、同文庫版は未見である)。
 昨年から今年にかけて、福永武彦加田伶太郎作品集』(小学館P+DBOOKS)、福永武彦『完全犯罪 加田伶太郎全集』(創元推理文庫)、と立て続けに福永(加田伶太郎名義)の推理小説集が新装復刊され、なつかしく読み返していたところだったので、とりわけ福永のパートを重点的に読んでいる。因みに、今年は福永の生誕百年に当る。
 この講談社文庫版は、日本版「EQMM」連載記事のほか、たとえば福永のパートだと、「毎日新聞」「東京新聞」に掲載された記事も収めるなど、少なからぬ増補がある。
 「東京新聞」掲載(1956.5.9-10付夕刊)の方は、「探偵小説の愉しみ」と題されており、これは『完全犯罪 加田伶太郎全集』の法月綸太郎「解説」で、次のように引用・言及されている。

 第一作「完全犯罪」を発表した直後、福永名義で「東京新聞」に寄稿した「探偵小説の愉しみ」には、「イギリスには、フィルポッツやメイスンや、ミルンのように、専門は文学で趣味は探偵小説作家というのが多い。アメリカのヴァン・ダインや、エラリイ・クイーンのように匿名で書いた連中は、きっと書きながらぞくぞくするほど嬉しかったろうと思う」という一節がある。これはまさに加田伶太郎の犯行自白だ。そしらぬ顔で楽屋落ちめいた文章を書きながら、福永自身、ぞくぞくするほど嬉しかったにちがいない。(pp.441-42)

 その「探偵小説の愉しみ」の引用部の直前の文章を、『深夜の散歩』であらためて読んでみると、「これは冗談で、僕は長篇探偵小説を書くだけの勇気はないが、もし探偵小説がひとりだけの、秘密の愉しみだとしたなら、作者たることがその愉しみの絶頂だろう」(p.94)となっている。裏を返せば、「短篇探偵小説を書く勇気ならある」わけで、法月氏の言葉をかりるなら、これもやはり「犯行自白」だということになろう。
 ところで『深夜の散歩』には、福永武彦「『深夜の散歩』の頃」(初出:「ミステリ・マガジン」1976.8)も収めてあって、そこで福永は、

 私の記憶が間違っていなければ、初めのうち「EQMM」は完全な翻訳物ばかりで、オリジナルなものは殆ど載っていなかったようである。そこへ都筑君が日本人の手によるコラムの欄をつくり、私は一度、「探偵小説と批評」という文章を書いたことがある(これも講談社版『深夜の散歩』に収めてある―引用者)が、その後暫くして連載のエッセイを頼まれることになった。私はちょうどその頃、加田伶太郎ペンネームで探偵小説をぼつぼつと書いていて、この名前の蔭にいる本名の方は絶対にばれないようにしていたから、都筑道夫がそれを見破って、私をからかうつもりで連載を依頼したのかどうかは確かでない。(p.105)

と書いている。しかし、当の都筑の回想によれば、「からかうつもり」は毛頭なかったようだ。
 都筑道夫『推理作家の出来るまで 下巻』(フリースタイル2000)には、

 私の仕事場は、あいかわらず、ごった返していて、資料をさがしだすことが出来ない。だから、間違っているかも知れないが、まだ福永さんはそのとき、加田伶太郎の匿名で、推理小説を書いては、いなかったと思う。(福永のように日本版「EQMM」の編集方針を―引用者)ちゃんと見てくれるひとがある、という印象がさきにあって、加田伶太郎は福永さんだ、という知識が、あとにつづいたように、記憶している。
 とにかく、いつか福永さんに、エッセーを書いてもらいたい、と思っていた。(p.267)

とある。「まだ福永さんはそのとき、加田伶太郎の匿名で、推理小説を書いては、いなかった」というのは、都筑の記憶違いで、少くともデビュー作の「完全犯罪」は「週刊新潮」誌上ですでに発表されていたし、第二作の「幽霊事件」も「小説新潮」誌上に出ていたのだが、都筑が「いつか福永さんに、エッセーを書いてもらいたい」と思った理由は、福永が「EQMM」(特に第三号以降)の編集方針を褒めてくれたから*1、ということにあるようだ。

    • -

 創元推理文庫の『完全犯罪 加田伶太郎全集』と小学館のペイパーバック版『加田伶太郎作品集』とは互いに補い合うような関係にある。
 まず前者には、都筑道夫福永武彦結城昌治「『加田伶太郎全集』を語る」(「新刊ニュース」1970.3.1号)という鼎談が収めてある。これは確か、先行する新潮文庫版や扶桑社文庫版にも収められていなかったと記憶する。この鼎談で都筑が、「(福永が船田学名義で書いた―引用者)『地球を遠く離れて』、あれは続編を読みたいですね」(p.432)と語っていて、このSF*2創元推理文庫版では読めないが、桃源社版『加田伶太郎全集』(1970刊)を底本とした小学館版では読める*3
 「地球を遠く離れて」については、福永が「推理小説とSF」(初出:「毎日新聞」1962.10.18付夕刊)で、

 ここで少し脱線すれば、実は私は、五年ばかり前に、SFを一つだけペンネームで書いたことがある。私のSFは、恒星プロクシマ(ママ)を探検に行く宇宙船の話だった。一人称で書くことにしたので、なぜ主人公が日本語を用いるのかという点に、大いにこだわった。その結果、こういう手を用いた。その頃(幾世紀か後の話である)地球人はすっかり混血して国家意識はなく、新しい世界語を用いているが、彼らの間に最も流行している趣味は、すたれてしまった過去の言語の研究である。中でも一番むずかしいと言われる日本語を、主人公が勉強中なのだから、それを用いて日記をつけたとしても不思議ではない、という設定である。(『深夜の散歩』講談社文庫p.103)

と書き*4、「船田学」が自分であることを早々に明かしている。
 一方で、「加田伶太郎」であることは自分では明かさず「ひた隠しに隠して」いたが、いつの間にか、「ジャーナリズムでは周知のこととなった」。それについて福永は、「存外わが友中村真一郎などがその元兇であるのかもしれない」(以上、「『深夜の散歩』の頃」p.107)と書いている。
 また福永は、「『EQMM』という雑誌は、読んでいると自分もやりたくなるような奇妙な魅力を持っていたらし」い(p.106)とも書いており、日本版「EQMM」の編集長だった都筑、その次の編集長の小泉太郎、そして結城昌治を引き合いに出している。彼らはこの雑誌の影響もあって実作に転じたようだ。
 小泉太郎は小泉喜美子の元夫で、筆名だと生島治郎、むしろ後者の方で知られるが、その名づけ親は結城である。福永が「誰(たれ)だろーか」(taredaro:ka)のアナグラムで「加田伶太郎」を名乗り、作中のアームチェア・ディテクティヴを「名探偵」(meitantei)のアナグラムで「伊丹英典」と名づけたように、「生島治郎」も一種の言葉遊びで生まれたものだと思う。
 即ち「小泉太郎(コイズミタロウ)」の「コイ(来い)」に対して「イク(行く)=生」、「ズ(ス)ミ」の母音を替えて「シマ=島」、「太郎」といえば「次郎」、ちょっとひねって「治郎」と、そういう発想だったのではないか。「別冊文藝春秋」(1968.6)に見える生島の「ペンネーム由来記」には書いてあるだろうか。

    • -

 偶ま先日、古書市でフレイドン・ホヴェイダ/福永武彦訳『推理小説の歴史』(東京創元社1960)500円を拾った。原著では英語の題名が仏語に置き換えられるなどしていたようで、「訳者のあとがき」(福永)は、「薄いけれどなかなか苦労をした本である」(p.146)と結んでいる。
 後に別の訳者による新版(1981刊)が出たことは知らなかったが、この本に関しては、福永が「深夜の散歩」の追記部分で次のように書いている。

 ホヴェイダの本は『推理小説の歴史』という題名で、僕が創元社から頼まれて翻訳を出した。ところが高尚すぎて、さっぱり売れなかった。いくら推理小説がはやっても、学問とは縁遠いものなのだから、「歴史」まで覗いてみようなどと奇特な考えを起す読者が、そうそういる筈もない。とんだ誤算だった。(「封をした結末の方へ」p.60)

加田伶太郎 作品集 (P+D BOOKS)

加田伶太郎 作品集 (P+D BOOKS)

推理作家の出来るまで (下巻)

推理作家の出来るまで (下巻)

推理小説の歴史 (1960年)

推理小説の歴史 (1960年)

*1:福永が、中村真一郎との対談で「EQMM」(第三号以降)の編集方針を褒めたというエピソードをさす。これは都筑前掲書に再三紹介されるから、よほど嬉しかったのだろう。

*2:福永は当時、「あの続篇がちゃんと頭の中にある」(p.432)と話しているが、その後それが書かれることはなかった。

*3:小学館版にはリドル・ストーリーの「女か西瓜か」なども収めてある。

*4:ここでは言及されていないが、「地球を遠く離れて」の主人公は「日本人」という設定である。

円城塔『文字渦』

 中島敦の名篇「文字禍」を一字だけ変えた、円城塔『文字渦』(新潮社)が出た。表題作は第43回川端康成文学賞を受賞しており、この作品集はそれ以外に、「緑字」「闘字」「梅枝」「新字」「微字」「種字」「誤字」「天書」「金字」「幻字」「かな」の十一篇を収める。それら計十二篇すべてがことごとく文字に関するものであるから、出版元は「文字小説」といい、作者自身は「文字ファンタジー」と表現する(2018.8.1付「朝日新聞 夕刊」)。文字好きとしては見逃せないではないか。
 最後まで読み通してみて、この作品集に一貫するのは、「文字で『世界』を記述できるか」という問いかけに対する回答であり、そのひとつの試みだろうと思った。またそれは、日本語の複雑な表記体系を最大限に活用したいわゆる実験小説でもあり、やや大仰にいえば、「文字言語」復権の試みでもあるように感じた。
 「言語」というものは、音声が文字に先立つわけだから、我々はふだん「文字は音(おん)を表すもの」と思っている*1。しかしこの本を読んでいると、その前提さえ疑わしく思えてくる。現に『文字渦』は、常用漢字表外の漢字を多数用いていながら、単に「音」を表示するものとしてのルビは極力抑えており、「どう読むか」を読者に委ねる、というか、むしろ音声を完全に無視しているところが多々ある。
 以前わたしは横山悠太『吾輩ハ猫ニナル』(講談社2014)を読み、その自在なルビの使い方を新鮮に感じて、バイリンガル、あるいはトリリンガルとしてのルビの可能性ということに思いを致したことがあるが*2、円城氏の「誤字」「金字」におけるルビ(これらをルビと捉えるとすればの話だが)、特にその前者は*3HAL9000よろしく制御不能となったルビがルビそれ自体について自己言及的に語り始め、遂には本文を侵蝕してゆくというおそるべき作品である。気の利いた表現ではないけれど、「ルビの叛逆」「ルビの叛乱」とでもいうべきか。
 ところで、ルビに関して述べたものといえば、印象に残っているものとして柳瀬尚紀『日本語は天才である』(新潮文庫2009←新潮社2007)の「第五章 かん字のよこにはひらがなを!」(pp.133-56)があり、個別的には、幸田露伴のエセー『論語』を材にとった長田弘露伴のルビのこと」(『本に語らせよ』幻戯書房2015所収←『自分の時間へ』講談社1996)があるし、小杉天外『紫系図』の独特な(戯作由来のもありそうだが)ルビについて語った出久根達郎小杉天外の見どころ」(『本と暮らせば』草思社文庫2018←草思社2014*4)などがある。さらに高島俊男「わたしのフリカナ論」(『寝言も本のはなし』大和書房1999)は、主として実用的なルビの振り方や自身の好悪を述べた文章だが、本居宣長『玉勝間』から「すべてもじといふは、文字の字の音にて、御国言にはあらざれども」云々*5という文章を引き、当該文の「文字」にフリカナをつけるのは不可能である、と言っているのが面白い。「ここの『文字』は、『この文字という支那字』ということで、字をさしている」からだ(p.212)。さきに述べたように、『文字渦』にも、「どう読むか」を読者に委ねたところ、つまり予めルビを拒絶しているところがあるし、「微字」「天書」*6などは、漢字の「形」に遊戯性を見出した作品であるから、そもそも「読み」自体を問題としていないのだ。
 そしてルビといえば、先日も触れた由良君美「《ルビ》の美学」(『言語文化のフロンティア』講談社学術文庫1986)がある。由良は、「(ルビは)原理なら簡単だが、運用は無限に複雑」であり、「ルビの修辞的究明こそ、恐らく日本語の秘密に深くかかわる」はずだ(pp.107-08)という。そして、「ルビの面白さは、漢文脈と和文*7との間に平行して作りだされる緊張関係にあるから、音訓の当て方の妙をめぐる即妙さと意表を衝く意外なズレとの最大限の開発が中心になってくる」(p.111)とも述べる。さらに、「日本語のシンタクス自体が〈ルビ的〉に出来てしまっている事情を変更することはできない」「日本文の理解に際しては、ルビの付けられていない場合にも、なお眼にみえないルビを頭のなかでふり付けながら読解されねばならない」(p.120)とも記している。由良がもし存命で、「誤字」を目にすることがあったなら、きっと面白がっただろうなと思う。
 「誤字」にはまた、CJK(V)統合漢字の問題点に言及しつつ、いわゆる「漢字の正しさ」を相対化するくだり*8もある。

 原則的には、楷書は可読性を、草書は毛筆での書きやすさを優先する。可読性のためには書きやすさが損なわれても構わないし、書きやすさのためには可読性が落ちてもよい。楷書と草書では書き順が異なることも珍しくなく、止めやハネも同様である。記録を書き込むための文字と、記録を読みだすための文字はそれぞれ別のもののままでもよかったのだが、これが性急に統合された。(p.183)

 筆順や筆画の長短の「正しさ」という問題に関して、かつてわたしは「『筆順のはなし』」「「天」の字形/(承前)「必」の筆順」で書いたことがあるが、手書き字の衰退が、俗字や異体字を駆逐したばかりでなく、漢字に本来備わっていたはずの「いいかげんさ」を見失わせてしまったように思う。そのくせ、固有名では微妙な筆画の差異にすぎない「字形」差がやかましくいわれるようになった。かてて加えて、「書体」の違いによる「デザイン」差に対する誤解も生じたため、ますます錯綜してしまっている。
 このあたりについては、小林龍生『ユニコード戦記―文字符号の国際標準化バトル』(電機大出版局2011)の「人名漢字のアポリア」(pp.206-19)などを参照されたい。そう云えば「誤字」は、「『骨』字のモノアイの向き」(p.184)に触れていて、これはCJK(V)統合漢字の話柄でしばしば例に挙がる、中国の字形が日台韓越のそれと異なる問題*9を指しているのだが、前掲小林著にもこの話が見える(pp.36-37,pp.39-40)。
 そのほか、上下反転字・左右反転字がごろごろ出て来る「幻字」も面白い。『犬神家の一族』の「見立て殺人」にオマージュを捧げた(?)「大量殺字事件」が起こるこの作品(金田一を意識したらしい名前も登場する)には、「予」を上下反転させた字が現れる。「曉に死す」の「常識を打ち破るさかさ漢字」にもあるように、これは「幻」の異体字*10異体字字典の記述も参照のこと。この字は確か、柳瀬尚紀氏が『フィネガンズ・ウェイク』の訳文中に用いていて、『辞書はジョイスフル』(新潮文庫1996)でそのことに触れていたと思う。
 当該字に関して、「幻字」には「まずたいていの人は、逆立ちした『予』を思い浮かべるはずだと思う」(p.264)とあるが、それで思い出したのが次の話である。

□八月十七日(金)*11、竜龕手鑑(八巻)の朝鮮古版以上はさる事ながら、慶長活字版とうたはるゝ古版本も、伝本罕なるよし世の人はもてはやすめれど、折々に見いでたるを数ふれば、はや十二本にも及べり。図書寮(二本)・神宮文庫・帝国図書館(二本、一は白河文庫旧蔵、一は鵜飼徹定旧蔵)・東洋文庫・久原文庫・高木文庫・大谷大学内藤湖南博士の諸蔵本*12の他、新たに安田文庫に入れる一本あり、さき頃、秋葉義之旧蔵本も下谷の書肆に見つ。この本、慶長版と言へど、実は元和頃の刊行と推定せらる。異体字殊に多きが中に、尋常の活字を倒植せるものあるは興あり。原装を伝ふる神宮文庫蔵本に拠るに、巻八の九十六葉表二段目「予」を倒に植字して傍に本文の注と同じ活字を以て印刷添附せる張紙を附し、「此非誤以逆字為正」と注意せり。古活字版には誤植多ければ、かく張紙するもことはり*13なり。
川瀬一馬『讀書觀籍日録―日本書誌学大系21』青裳堂書店1982:41)

 古人も「たいていの人」と殆ど変わらなかった、ということだ。

    • -

 十二篇のうちとりわけ面白く読んだものといえば、「新字」だろうか。実在の人物を、史実と虚構とを巧みに織り交ぜながら、奇想で結びつけてみせる。武則天のいわゆる「則天文字」の誕生秘話(!)ともなっている*14この作品は、さながら山田風太郎の明治もののようでもある。中島敦「文字禍」と関係が深いといえそうなのもこの短篇で、「アシュル・バニ・アパル大王の治世」下のニネヴェの図書館や「ナブ・アヘ・エリバ」のことが作中の会話に登場するし、ゲシュタルト崩壊に触れていることも両者で共通している。
 タイトルの「新字」(しんじorにひな)は、『日本書紀』巻第二十九にみえる、境部石積(さかいべのいわつみ/いわづみ)の手になる「新字一部卌四巻」のこと。しかし同書はすでに散佚しており、内容が不明である。作中には新井白石『同文通考』が引いてあり、白石説が「新字」を「万葉仮名、変体仮名の出現以前に、漢字ならざる、しかし俗字とも異なる、日本語記述用の文字を定めた」もの(p.121)としたことを紹介しているが、次のような形で当該説を否定している。

 石積が白石のいうとおり、新たな文字を日本語の表記のために定めたとして、問題となるのはやはり白石自身が指摘した、四十四巻という長さとなるのではないか。白石いうところの、八万を以て数えるべき文字たちが、日本語らしい日本語表記のために本当に必要だったのかとなるとよくわからないところが残り、千と数百年前の現在にいる境部としてもそんな無茶な体系を一から案出しようという気は今のところないのである。(p.122)

 「新字」の内容をめぐる見解としては、他にも「梵字様説」「古語辞典説」等、さまざまな説があるが、当否は措くとしても、それらを検討して「訓釈制定説」「修史のための文字整理説」が「最も穏当なところ」、すなわち「わが国最初の漢和字典だったと言ってよい」と結論したのが、嵐義人「最古の漢和字典「新字」をめぐって」(『余蘊孤抄―碩学の日本史余話』アーツアンドクラフツ2018:166-72所収*15)であった。

    • -

 山本貴光『投壜通信』(本の雑誌社2018)に書下しとして、「『文字渦』歴史的注解付批判校訂版 「梅枝」篇断章より」(pp.299-314)が加えられた。そこで山本氏は、『文字渦』を「目下の円城塔作品のなかでも最高傑作である」(p.304)と評し、その面白さを、「読者にプログラムのデモンストレーションを見せているような状態」にしていること、つまり「そこに生じる出来事はもちろんのことながら、そこでは明記されない出来事をも感知・想像」させる(p.305)ことにあると見ている。(9.4記ス)

文字渦

文字渦

  • 作者:円城塔
  • 発売日: 2018/07/31
  • メディア: 単行本
吾輩ハ猫ニナル

吾輩ハ猫ニナル

日本語は天才である (新潮文庫)

日本語は天才である (新潮文庫)

本に語らせよ

本に語らせよ

  • 作者:長田 弘
  • 発売日: 2015/07/24
  • メディア: 単行本
寝言も本のはなし

寝言も本のはなし

ユニコード戦記 ─文字符号の国際標準化バトル

ユニコード戦記 ─文字符号の国際標準化バトル

  • 作者:小林龍生
  • 発売日: 2011/06/10
  • メディア: 単行本
余蘊孤抄―碩学の日本史余話

余蘊孤抄―碩学の日本史余話

  • 作者:義人, 嵐
  • 発売日: 2018/03/01
  • メディア: 単行本
投壜通信

投壜通信

  • 作者:山本 貴光
  • 発売日: 2018/09/04
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

*1:この前提はあくまで一般論である。実際には、文字は呼気や吸気の流れを強引に区分して示すものなので、「わたり音」などはあらかじめ捨象している。

*2:実例はここに挙げないので、作品に就いていただきたい。温又柔氏の作品などにも、同様のルビの多用がみられる。

*3:後者は経文解釈の補助手段としてのルビなので、特に「変な」ルビの使い方とはいえない。宛て読み風の注文のようなものである。

*4:初出は「日本古書通信」2010年10月号。

*5:一の巻「言をもじといふ事」。岩波文庫版だと上巻p.43。

*6:「天書」p.218の“インベーダーゲーム”は可笑しかった。

*7:由良は後に「和文脈」を「邦文脈」と言い換えているが(p.112,116など)、名づけ方としては、現代語も包含しうる「邦文脈」のほうが誤解を与えずにすむだろう。

*8:以下に引用した記述は、前掲夕刊に載った円城氏の発言とも重なる。すなわち;「学校教育でとめろ、はねろ、気にしなくていいと言ってきましたが、そもそも草書と行書では書き順から違う」。

*9:「闘字」p.77に、中国のこの字形が用いられている。

*10:「幻字」には、このサイトで紹介されている「チョウ」や「ホツ」も登場する。

*11:昭和九年(1934)。

*12:アルイハ「儲蔵本」ノ誤植カ。

*13:原文ママ

*14:則天文字は「闘字」p.69に30字が掲げられている(その総数についても様々な説が有る)。

*15:初出は「日本古代史「記紀風土記」総覧」(新人物往来社1998)。

ライクロフトと「夏の読書」

 著者と本と本棚との半世紀以上に亙る濃密な付き合いを描いた北脇洋子『八十五歳の読居録』(展望社2018)に、次のような印象的な一齣がある。

 わたしは開高(健―引用者)さんの一年下であるが、同じ法学部なのに、あまり口をきいたことがない。(略)
 しかし、わたしは開高さんに自分から進んで教えを受けたことがある。
 それは外書講読の時間に、予習をしていないわたしは、何となく今日は「当たる」という予感がした。
 それで誰かに、わからない箇所をきこうとキョロキョロしていると、開高さんが教室の前の廊下に立っているのを見つけた。
 開高さんが堂島の英語学校で教えているという噂をきいていたので、早速英語のプリントを持って、傍に馳せ寄ってたのんだ。
「開高さん、ここ教えて」
 開高さんは、しばらくじっとプリントを眺めていたが
「この略語の意味は何?」ときく。
「はじめは覚えていたんですけど忘れました」
「へえ。これがわからないで、よく読めるね」
「だから訳してほしいわけです」
 開高さんは苦笑いしながら、センテンスごとに一頁を五、六分で訳してくれたが、
「わからない単語があるから要約だよ」
 といった。
 わたしはお礼をいった後に尋ねた。
「どうしたら英文、スラスラ読めるようになるのですか?」
「そんなに、すぐ読めるものじゃないけど、翻訳家にでもなるの」
 わたしは凄い皮肉だ、と思いながらも神妙に否定した。
「君の好きな作家は誰?」
 わたしは咄嗟に高校の英語の時間にならったギッシングを思い出した。
「ギッシングです」
 痩せた開高さんの眼鏡の底が光ったような気がした。
「へぇ、渋いな。兎も角自分の好きな作家の本を辞書をひきながら、毎日少しづつ読むことや」
「やってみます」といってわたしは教室に入った。(pp.20-22)

 北脇氏が「高校の英語の時間にならったギッシング」と書いているのは、『ヘンリ・ライクロフトの私記』のことだと考えて、まず間違いあるまい。
 たとえば、北脇氏よりも少し(一、二歳)年下の阿部昭(1934-89)は、『エッセーの楽しみ』(岩波書店1987)で、「せいぜい私ぐらいの世代までの日本人には愛読された本で、昔はそこからよく英語の試験問題が出たジョージ・ギッシングの『ヘンリー・ライクロフトの手記』」(「草の上で」p.58*1)と書いており、また別のところで以下の如く述べている。

 往時の日本の読書界はさすがにこの本を見逃さなかった。翻訳の経緯は知らないが、大正十年(一九二一年)には市河三喜の注釈本が、同十三年には藤野滋の名訳と言われるものが出て、以来さまざまな版で親しまれてきた。『ヘンリー・ライクロフトの手記』が本国で出版されたのは一九〇三年(明治三十六年)で*2、ちょうど夏目漱石が留学から帰った年である。私は漱石がこれを読んで何か言っていないかと調べてみたが、ギッシングについては彼の小説に触れているだけである。面白さは別種だが、漱石の『永日小品』や『硝子戸の中』とも一脈通い合うものがある。(略)
 『ヘンリー・ライクロフトの手記』は、単に近代の古典であるという以上に、いつの世にもいる純粋な読書家、愛書家たちに向かって、何か彼らにしか通じない秘密の暗号を発信している本なのであろう。世間にはこの本をこっそり愛読書の一つに祀(まつ)っていながら、あまりそれを打ち明けたがらない読者も多いのではないかという気もする。
 参考までに、私とほぼ同世代で相当な「本の虫」である女性、英国で暮らした経験もありブロンテ姉妹の愛読者でもある女性にきくと、彼女は高校三年の時以来、毎年元旦にはこれを原文で読む、正月でなくてもゆっくりした時にはついこの本に手がのびる、そしていつも慰められる、と答えた。薄倖だったらしい著者の幸福な一冊である。(「『ヘンリー・ライクロフトの手記』を読む」pp.105-07*3

 このように、ある世代以上の人々にとっては、ギッシングといえば即ち『ヘンリ・ライクロフト』だったようなのだ。
 もう少し下の世代だが、たとえば奥本大三郎氏(1944-)は『本を枕に』(集英社文庫1998←集英社1985)で、「戦前、あるいは戦中、『ヘンリ・ライクロフトの私記』は学校でよく読まれたよう」だ(p.87)と述べ、自身の経験として次のように記している。

 私が平井正穂氏の訳註がついた、開文社版の対訳叢書で、『ヘンリ・ライクロフト』を買ったのは、たしか大学の二年か三年の頃だったと思う。高校の教科書に一部が掲載されていて、気に入ったので、いずれ全文を読もうと思って買ったらしい。しかし英文の方はあまり読まずに、同氏による岩波文庫版の訳本をもっぱらひろい読みしていた。とくに気に入った箇所の原文を朗読してみたりする。(「孤独な放浪者の夢想」p.94)

 さらに、『ヘンリ・ライクロフト』のたぶん最も新しい訳書、池央耿訳『ヘンリー・ライクロフトの私記』(光文社古典新訳文庫2013)の「解説」(松本朗氏)は、

 日本でも、一九〇九年という早い時期に英文学者の戸川秋骨(一八七一年〜一九三九年)によって「春」の第八章が「田園生活」と題されて「趣味」誌に訳出されて以降、『ヘンリー・ライクロフトの私記』は、二十以上の翻訳が出版されるほどの人気を誇っている(略)。たとえば、大正から昭和初期にかけてエリートを養成する場であった旧制高等学校の多くの英語教科書に『ヘンリー・ライクロフトの私記』は収録されていたらしい。この事実は、教養主義と呼ばれるものが二十世紀前半の日本で一定の影響力を揮っていたことを物語っているし、その後教養主義が過去の遺物のような扱いを受けるようになったときも、教養という言葉が、多少なりともなにか私たちを引きつけ、魅惑したり不安にさせたりする力を持ち続けていることを示しているように思われる。(p.317)

と、『ヘンリ・ライクロフト』の盛行を、いわゆる教養主義に結びつけて論じている。

    • -

 奥本氏は、「いま持っている『ヘンリ・ライクロフトの私記』のテキストにも訳本にも共感を示すアンダーライン、傍線がいっぱいに引かれている」(前掲p.77)と書いているが、わたしが特に共感を覚えるのは、書物に関する一連の記述である。なかで次のくだりは心に残っている。

 今日庭で本をよんでいると、かすかな夏の薫が漂よってきて、――読んでいたものとなにか妙にからみあっていたのだが、――といってそれがなんであったか分からないのだが――ふっと小学校の頃の休みを私は思い出した。勉強から長い間解放されて、海岸へゆくときの、あのはずむような気分を、自分でもおかしいくらいまざまざと思いだしたのだが、ああいう気分こそ少年時代でなければ味わえないものだと思う。(平井正穂訳『ヘンリ・ライクロフトの私記』岩波文庫1961:「夏」一、p.84)

 庭で本を読んでいるところへ爽やかな風が夏の匂いを吹き寄せて、子供の頃の夏休みの記憶を呼び覚ました。読みさしの本のどこかに記憶につながる何かが隠されていたのだと思うが、それが何だったかははっきりしない。ただ、課業から解放されて海辺で過ごす長い休みの晴れやかな気分は不思議なほどありありと胸裡に蘇った。(「夏」1、池央耿訳p.92)

 また、次のようなくだり。

 私はこの本(クセノフォン『アナバシス』―引用者)を開き、これを読んだ少年時代の思い出が亡霊のように私の心にうごめくのを感じながら、読みつづけた。そして章から章へとすすみ、数日後には全部を読みあげることができた。
 これが夏のことだったのは幸いなことだと思う。子供の頃の思い出をこの頃の生活と結びつけるのが、どうも私のくせになってしまっている。それには教科書のくせに私の愛読書であったこのような本に帰ってゆくことほど適当な方法はほかにはなかったであろう。
 記憶のなにかのいたずらで、私はいつも学校時代の古典の勉強を、暖い、快晴の季節の感じと結びつけて思いだすのである。雨や陰気な天気やうそ寒い雰囲気の方が実際にははるかに多かったにちがいないのだが、そんなことは忘れてしまったのである。(「夏」九、平井正穂訳pp.102-03)

(クセノフォン『アナバシス』の)ページを開くと少年時代を思い出して心が疼き、章から章と息つく閑もなく数日で一巻を読み終えた。
 夏のことで幸いだった。少年時代と長じて後の接点を探るには教科書に立ち返るのが何よりだろう。どんなものでも学校で読まされるとつまらなくなるのは世の常だが、この本は実に楽しかった。
 ちょっとした記憶のいたずらで、子供の頃に読んだ古典はきっとからりと晴れた夏の日の連想を誘う。雨の日や陰気で薄ら寒い日の方がよほど多かったに違いないが、そんなことは思い出さない。(「夏」9、池央耿訳p.113)

 「子供の頃」に限らず、わたしの個人的な至福の読書体験は、なぜか夏の陽光とともに思い出すことが多く、これを読んだときに、まさに我が意を得たり、という気がしたものである。
 あれは中学生の時分、茹だるような暑さのなか、部屋でこっそり読んだ乱歩の『化人幻戯』や「屋根裏の散歩者」、マンの『魔の山』を感銘しつつ読了したのはたしか真冬で炬燵の中だったはずだが、なぜかよく思い出すのは主人公のハンス・カストルプが雪山を彷徨するくだりや、セテムブリーニとナフタとの息詰まる「対決」の場面で、それらもやはり夏の記憶と結び付いているし*4、近くは(といっても十四、五年前)真夏のからりと晴れた或る日、籐椅子の上で一語一語を噛み締めるように読んだ保坂和志カンバセイション・ピース*5、晩夏の午下り、縁側に腰掛けて読んだ谷沢永一『紙つぶて(全)』……。
 それどころか、夏に読んだはずではない本を夏の記憶とともに思い出したりするのだから、我ながら不思議である。そもそも年がら年中本を読んでいるので、夏以外に読んだ本が大多数なのに、これは一体どうしたことか。
 「夏の読書」は、わたしにとって、格別な意味をもつようである。
 マラマッド/阿部公彦訳「ある夏の読書」(『魔法の樽 他十二篇』岩波文庫2013所収)*6は、そんなわたしが、タイトルに惹かれて読んだ短篇である。しかしこれは、(ネタばらしにはならないと思うのであえて書くが)主人公が「秋になって読書をはじめる話」なので、初めはかなり肩透かしを食った気もした。しかし実は、そこへと至る過程が面白く、読めば読むほど味わいのある作品だと思うようになった。

    • -

 『ヘンリ・ライクロフト』には、次のような描写も見える。これには大方の本好きが共感してくれるものと思う。

 犠牲――といっても、それはけっしてお座なりな意味での犠牲ではない。私のもっている数十冊の書物は、本来ならいわゆる生活の必需品を買うべきお金であがなわれたものなのだ。私は本の陳列台の前や本屋のショー・ウィンドーの前にたち、知的欲望と生理的欲求の板ばさみに幾度苦しんだことであろう。胃袋は食物を求めてうなっていようという食事時間に、ある一冊の本の姿に私の足はクギ付けにされたこともあったのだ。その本は長いこと探し求めていたもので、また実に手頃な値段がついていた。どんなことがあっても見のがしておくわけにはゆかなかった。しかし、それを買えばみすみす飢えに苦しむことは見えすいていた。私のハイネ校訂本ティブルルス*7はこういうときに手に入れたのである。グッヂ・ストリートの古本屋の店頭にあったものだが、この店頭には時折山のようながらくたの本の中に素晴らしい掘り出し物がでていたものであった。六ペンスの値段だった。実に六ペンス! 当時私はオックスフォド・ストリートの、ほとんど今日では姿を消してしまった本ものの古びたコーヒー店で昼飯を(もちろんこれが私の正餐というわけだが)とっていた。六ペンスという金額が私の全財産だった。そうだ、天にも地にもかけがえのない全財産だったのだ。それだけあれば、一皿の肉と野菜が食べられるはずであった。しかしティブルルスが、小銭の入る見込みのある翌日までそのままずっと待っていてくれるとは、なんぼなんでも期待することはできなかった。ポケットの銅貨を指先で数えながら、店頭を見つめながら、私の内部に争う二つの欲望に苦しみつつ鋪道の上をうろうろ歩いた。結局その本は手に入れた。そして家にもって帰った。バタつきのパンでどうにか正餐のかっこうをつけながら、私はむさぼるようにページをめくった。(「春」一二、平井正穂訳pp.47-48)

八十五歳の読居録

八十五歳の読居録

エッセーの楽しみ

エッセーの楽しみ

本を枕に (集英社文庫)

本を枕に (集英社文庫)

ヘンリー・ライクロフトの私記 (光文社古典新訳文庫)

ヘンリー・ライクロフトの私記 (光文社古典新訳文庫)

ヘンリ・ライクロフトの私記 (岩波文庫)

ヘンリ・ライクロフトの私記 (岩波文庫)

魔法の樽 他十二篇 (岩波文庫)

魔法の樽 他十二篇 (岩波文庫)

*1:初出は1986.6.14付「東京新聞(夕刊)」。

*2:これは単行本の刊行年であって、ギッシングは前年の1902年5月、「隔週評論」誌上に作品の一部を発表しているという。

*3:初出は1986.4.20付「朝日新聞」。

*4:魔の山』を読み了えるのに一年近くかかったのだ。

*5:「まるで小津映画のような」、という評言に惹かれて購ったと記憶する。

*6:原題は“A Summer’s Reading”、加島祥造訳『マラマッド短編集』(新潮文庫1971)所収の訳文では「夏の読書」。

*7:3拍めの「ル」は小書き。

再び「けいずかい」、あるいは掏摸集団の隠語について

 かつて(約6年前)、「『けいずかい』」という記事を書いたことがある。
 「けいずかい」は「故買」の義で、松本清張『神々の乱心』に「系図買い=けいずかい」なる語原説が紹介されていることもそちらで紹介した。もっとも『日本国語大辞典』(第二版)などは、それを通俗語原と見做している。
 最近、結城昌治の『白昼堂々』を再読したのだが、作中に「系図買い=けいずかい」説を否定する記述があるのを見つけた*1。ただし同作品には、「けいずかい」もしくは「けいずや」という表現ではなくて、そこは「隠語」らしく、もっぱら「ズヤ」の形で出て来る。
 因みに渡辺友左『隠語の世界―集団語へのいざない』(南雲堂1981)には「ズヤ」の項がみえ、

《ズヤ(図屋)》非行少年たちが盗んできた品物を盗品だと知りながら、買いとる商人を隠語でこういう。いわゆる故買(こばい)である。この故買をする商人のことを一般には系図屋という。ズヤ(図屋)は、この系図屋の上略語である。(「反社会集団の隠語」p.44)

とある。
 米川明彦『俗語はおもしろい! 俗語入門』(朝倉書店2017)によれば、このような「上略」は、

 上の部分を省略すると元の語がわからなくなるため、隠語になりやすく犯罪者集団に多い。(p.35)

という。
 さて以下、表記やページ数は、講談社大衆文学館版『白昼堂々』(1996.3.20第1刷)に拠った。
 まずは、「ズヤ」の作中での初出を示す。

 子分がスり取ってきた品をズヤ(故買商)に売り捌いて上前をハネるのである。(p.31)

 「系図買い=けいずかい」説を否定するくだりを次に掲げる。

 盗品を売り捌く場合、親分というのは仲介業の一種、あるいはズヤ(故買商)の片割れにすぎない。
 ズヤの語源は系図屋(けいずや)の上部二音を略した泥棒用の隠語だが、この系図屋とか系図買いというのは発音を混同した当字で、窩主屋(けいずや)、窩主買いと書くのが正しい。窩は穴ぐらの意味とともに泥棒をかくまったり盗品を隠しておく場所を意味し、窩主(かしゅ)、窩家(かか)、窩贓(かぞう)などと用いられる。(p.76)

 しかしこれでは、「窩」を「ケイ」と読むことの理由がわからない。「窩」は影母歌韻字であるから、字音としては「ワ」が相応しく思われ、「クヮ=カ」も諧声符読みとして認めることができるだろう。だが「ケイ」の由来が分らない。訛音か、似字の混同か、はたまた、そもそも別語に由来するものなのか。引き続き今後の課題としたい。
 『白昼堂々』には、このほかにも俗語・隠語の類が頻出する。初出ではそのつど簡単に意味が示されるなどしてあり興味深いので、その全てを紹介しておく(あるいは一、二の見落しがあるやも知れない)。

 むかしは一流の箱師(列車内のスリ)として名を売った男だ。(p.15)

「なんや、モサ(掏摸)を廃業したら、今度はモサを逮捕(パク)る側か」(p.19)

大阪ではスリのことをチボという。(p.23)

 スリの専門用語で、ズボンの尻ポケットをケッパー、同じく横ポケットをテッポーという。上着の内ポケットが内パーで、外ポケットなら外パーである。そしてスり取ることを買うと称し、初心者は平場(ヒラバ、交通機関以外の雑踏する場所)でこの技術をおぼえ、やがて練達して箱師となる。(p.28)

 ドジをふんで捕まっても、前科がなければたいていデキモサ(出来心によるスリ)ということで釈放される。(p.29)

「あんたみたいな人がどうしてボタかぶったん」
「ボタかぶった?」
「警察にパクられることや」(p.38)

 ベタ買いとは万引の一種である。単独で行う場合と共犯の扶けをかりる場合とがあるが、単独の場合は赤ん坊を背負って、ネンネコの袖下から盗んだ品をさしこみ、赤ん坊をあやすふりをしながら自分の背中と赤ん坊の間に品を隠して売場を離れる。(pp.42-43)

 スリ(モサ)の眼くばりを称して刑事はモサ眼(ガン)と呼ぶ。獲物に眼をつけながら獲物を直視せず、周囲を警戒しながら犯行に移ろうとする寸前の、スリとしては最も気合の充実した一分の隙もない眼だ。(p.51)

 万引用語で盗むことをノムという。彼らがノミに行く先は、決して酒場ではない。(p.71)

 店(てん)びきというのは、万引を行う真打ちから店員の注意をそらす役である。(p.72)

 吸取りとはこれもスリ用語だが、真打ちから盗んだ品をリレー式に預かり、真打ちが訊問された場合の安全を守る役である。(p.74)

 スリ用語で、捜査員のウラをかくことを『ヌケをつかう』という。(p.174)

 このうち「モサ」というのは、わりとよく知られた隠語(というのは形容矛盾か)だろう。これは上でみたように、「デキモサ」や「モサ眼」などの複合語もつくるようだ。
 ここで楳垣実編『隠語辞典』(東京堂出版1956*2)を引いてみると、「もさ」を収めており、

もさ1(1)腹。(2)懐中物。(3)食事。(4)度胸。(5)懐中物。(6)すり。(盗・香具・など)(明)
もさ2(1)たもと。(2)衣類。(すり・盗)(明)

とある*3
 「もさ」についてはほかにも、例えば現代流行語研究会編『隠語小辞典―付 新語の知識』(三一書房1966)の「警察犯罪隠語」の章に「もさ スリのこと。」(p.54)とあるし、最近の下村忠利『刑事弁護人のための隠語・俗語・実務用語辞典』(現代人文社2016)の「犯罪の種類関係の用語」の章にも「モサ スリのことをいう。」(p.49)とある。
 楳垣編『隠語辞典』の項目末尾の「(明)」というのは明治時代から使われていることを示すものだから、「もさ」は長い間使われているらしいことが知られる。ただ語原は定かでないのか、渡部善彦『語源解説 俗語と隱語』(桑文社1938)には、「モサ 掏摸(すり)犯人の隱語。如何なる理由か詳かならず。」(p.173)とある。

    • -

 結城昌治には『仕立屋銀次隠し台帳』(中公文庫1983)という連作小説集もあるように、明治期の掏摸師・仕立屋銀次*4こと富田銀蔵に対する関心がかなりあったらしい。そもそも、『白昼堂々』の主要登場人物・富田銀三の名はここから採られているのだ。
 仕立屋銀次といえば、本田一郎『仕立屋銀次』(中公文庫1994←塩川書房1930)というノンフィクションもあって、こちらは巻末に「隠語いろいろ」(pp.142-76)という語彙集を収めるばかりでなく、本篇中にも俗語や隠語が多く出て来る。『白昼堂々』の記述と比較する上でも意義があることと思われるので、その一部を紹介してみよう。

「勝ッ、てめえは、きょうは、新橋から汽車(はこ)に乗れ」(p.12)

 後の方には、「箱師(はこし)は汽車、汽船、電車を専門に掏摸を働く群である」(p.93)ともある。
 上で見たように、『白昼堂々』にも「箱師」は出て来る。『仕立屋銀次』巻末の「隠語いろいろ」には、「 電車」「箱師 電車、乗合馬車等の掏摸」(p.166)とある。
 「棚師(たなし)」というグループもあったらしく、こちらは「汽車、電車等の中で網棚の上に乗せてある乗客の荷物を掏る一派」なのだそうだが、「東京では箱師の一部に入れ、掏摸というよりも掻払いだというものもある」(p.95)。
 このほかにも、掏摸の方法は色々とあったらしく、中公文庫版「解説」(佐藤健)には、「抜取り」「カバン師」「立ち切り(カミソリなどでカバンを切って、そこから金品を取る)」「ブランコ(帽子掛けにかけてある背広からサイフを抜き取る)」「モズク(車中の仮眠者から金品を取る)」「むなばらし(職人の腹掛けからサイフなどを抜き取る)」「おかるかい(女性の簪を抜き取る)」などが紹介されている(pp.181-82)。

 その頃、深川に花魁(おいらん)の定(さだ)という掏摸師がいた。定は勝と同じ店に働いていた鼈甲職人だが、博奕と女が好きで仕事も碌にせず、縁日やお祭りの人混みを利用して、人の袂を掠(かす)める、ぼたはたきになった。(p.66)

 「隠語いろいろ」には、「ぼた 袂」「ぼたはたき 袂を探って金や品物を掠める」(p.170)とある。「ぼたはたき」については、本篇ではこの後にも「ぼたはたきは、俗に平場(ひらば)といって、公園、縁日、祭礼、みせ物なんかの人混みの場所に出没し、袂を探って金や品物を掠(かす)める」(p.92)と出て来る。

 これが縁となって、定はその後もちょいちょい品物を持って来ては金を借りる。定の仲間でびっこの治三が、定から勝の話を聞き、素人に品の処分をさせて、どじを踏まれちゃ困ると一日(いちじつ)、勝の家を訪ね、実はこれまで定が借金の抵当に持って来た品物はありゃあ、みんな掏摸を働いた品だ。あの品物を一手に引受けて、うまく捌(さば)いてくれりゃあボロイ儲(もう)けになる。警察に尻尾をつかまれねえように、品物を捌くにゃこうするんだ。と、まア、いろいろ秘策を授けてやった。
 もともと慾に眼のない勝のこと、その頃は世間が物騒で鼈甲屋のような贅沢品商売は、思うような商売(あきない)もないので、治三のいうままに品物の取引をすることを承知した。掏摸仲間では、これを通屋(つや)という。
 鼈甲屋の職人じゃ、朝から晩まで一日、汗水流して働いても、高々二両か二両二分の稼ぎにしかならないのに、この通屋をやれば、一日に十五両、二十両の大金が遊んでいて儲かるとばかり、勝は本職の鼈甲屋の店をたたんで通屋になった。(pp.66-67)

 この「通屋(つや)」は上でみた「ズヤ」と同義のようだが、宛字であろうか。「隠語いろいろ」にはなぜか「つや」の項がなく、「ずや 贓物(ぞうぶつ)の故買屋」(p.156)、「づや 故買屋」(p.160)、「 故買者」(p.169)、「ろう 故買者」(p.175)がある(ついでながら、「けいずかい」「けいずや」はなし)。

 チボといえば大阪千日前(せんにちまえ)を聯想する。
 大阪は東京よりも一と足先きに掏摸が眼をつけて横行闊歩(おうこうかっぽ)したところである。大阪のちぼは東京の掏摸より腕が達者だというが、仲間の者にいわせると、執拗(しつよう)で、大胆なのだという。(p.77)

 上の通り、これも『白昼堂々』に出て来た。「隠語いろいろ」にはなし。

 相手はすっかり油断している。掏摸眼(すりがん)で見ると全身隙だらけだ。(p.80)

 『白昼堂々』には「モサ眼」というのが出て来て、これは捕まえる側から見た掏摸の目つきをいうのだったが、「掏摸眼」は、文字どおり掏摸の目、ということだろう。

 同じ懐中物といっても、外のポケットを掏るのは内ポケットより楽なことはいうまでもない。仲間ではポケットをモサという。だから内ポケットは内モサ、外は外モサである。帯の間の時計を掏る時でも、時計だけ掏って、鎖はそのまま返しておくのが、作法になっっている。(略)
 洋服の内モサは仲間の一番掏り易いところとされている。
 ここで、すこし、仲間の符牒を話して見る。
 紙入れがパー、掏ることを「買う」、金時計は「金マン」又は「テラ鶯(うぐいす)」、銀時計は「銀マン」又は「饅頭(まんじゅう)」、異人さんが「人唐(じんとう)
 だから「きょうは神田橋から上野の間で、じんとうの金マンを一つ買ったよ」といえば、神田、上野間で異人の金時計一個を掏ったということだ。(pp.93-94)

 『白昼堂々』にはポケットを「パー」という、とあったが、こちらは「モサ」といっている。
 しかるに「隠語いろいろ」の方をみると、「内ぱあ・内もさ 内側にある衣囊(ポケット)」(p.146)、「けつぱあ ズボンの後にある衣囊(ポケット)」(p.151)、「外ぱあ・外もさ 外側にある衣囊(ポケット)」(p.157)と、「ぱあ(パー)」「もさ」を併記した項もみえる。
 単独だと、「ぱあ 衣囊(ポケット)の総称。紙入、名刺入」(p.165)、「もさ 衣囊(ポケット)の総称」(p.173)と語釈を施している。
 なおこれも上でみた通りだが、楳垣編『隠語辞典』の「もさ」項には「たもと」「衣類」の義はあったけれども、「ポケット」の義はなかった。派生義なのか。

    • -

 野村芳太郎『白昼堂々』(1968松竹)の感想をここで記したことがある。角川文庫版の原作を入手したのはこの22日後のことで、そのさらに約3日後から読み始めている。

隠語の世界―集団語へのいざない (叢書・ことばの世界)

隠語の世界―集団語へのいざない (叢書・ことばの世界)

俗語入門: 俗語はおもしろい!

俗語入門: 俗語はおもしろい!

隠語辞典

隠語辞典

隠語小辞典 (1966年) (三一新書)

隠語小辞典 (1966年) (三一新書)

刑事弁護人のための隠語・俗語・実務用語辞典

刑事弁護人のための隠語・俗語・実務用語辞典

仕立屋銀次 (中公文庫)

仕立屋銀次 (中公文庫)

あの頃映画 「白昼堂々」 [DVD]

あの頃映画 「白昼堂々」 [DVD]

*1:初読はかれこれ十年以上前、角川文庫版によってだったが、そのことはなぜか全く記憶になかった。集中して読んでいなかったのか知ら。

*2:手許にあるのは1969.4.10発行の18版。

*3:凡例には「発音が同じであって、意味や用法のちがう語の場合に、見出し語の下に(略)番号を付けた」とあるが、なぜ「もさ」をわざわざ2項に分けているのか分らない。あるいは、「もさ2」は掏摸用語として限定される用法、ということか。

*4:関川夏央作・谷口ジロー画『「坊っちゃん」の時代』(双葉文庫など、全五冊)にもその活躍が描かれていたと記憶する。

イーヴリン・ウォー『ラブド・ワン』のことなど

 池永陽一『学術の森の巨人たち―私の編集日記』(熊本日日新聞社2015)は、講談社学術文庫の編集者(出版部長)だった池永氏の回想録であるが、そこに由良君美『言語文化のフロンティア』(講談社学術文庫1986)を編んだ切っ掛けについて語ったくだりがみえる。

 この『言語文化のフロンティア』は、言語や日本語について私がこれまでに抱いていた概念や知識を根本から問い直すきっかけを与えてくれた忘れられない本である。
 じつは、国文学の別冊特集号『知についての100冊』に目を通していた時、その一冊として紹介されていたのが由良君美先生の『言語文化のフロンティア』であった。魅力的な異色のタイトルに引かれ、早速どんな本だろうかと、創元社刊の原本を手に入れ読んでみた。そこには私が今まで知らなかった言葉や言語文化についての興味深い論考がいくつも収められていた。(略)
 本書の中でも私が特に啓発されたのは、第2章の日本語の再発見に収められた「〈ルビ〉の美学」である。ルビ(ふり仮名)については、これまであまり関心もなく、単に漢字の読みを助けるための補助的なものと思っていたのだが、どうしてどうして、ルビは文章を、日本語を左右するほどの大きな働きをしていることを初めて教えられたのだ。(pp.97-98)

 これに触発され、久々に「《ルビ》の美学」を再読するため学術文庫版の『言語文化のフロンティア』を手に取って、冒頭からじっくり読み直していたところ、次のような記述があることに気が付いた。

 方言は、言うならば、地域コンミュニティーという個がもつ言語的多義性の一種と言ってよいだろう。おなじ地域コンミュニティーのなかの、おなじ階層に属していても、個々人の言語学的特徴の差異には驚くべきものがある。
 ちょうど顔のようなものだ、といったらよいだろうか。アメリカ人には日本人・韓国人・中国人の区別はできにくいらしいが、われわれ同士にはできる。イーヴリン・ウォーのある小説に、主人公のイギリス青年がアメリカに来て、アメリカ娘が誰も彼も、まるで規格品のように、おなじ姿態と顔付きをしているのに困り、「中国人の母親は、自分の娘たちを――西欧人には皆おなじにみえるのに――ちゃんと見分けるという話だが、アメリカの母親も見分けられるんだろうな」と考え込んでしまうシーンがあった。冗談ではない。自分の子供たちはおろか、手広く国内を歩いている人なら、顔とおなじだ、方言の微妙な差異は、頭のなかに地図のように描きあげられているにちがいない。(pp.15-16)

 この「イーヴリン・ウォーのある小説」というのは、たぶん“The Loved One”だよな、と微かな記憶を頼りに、イーヴリン・ウォー小林章夫訳『ご遺体』(光文社古典新訳文庫2013、以下「小林訳」)を索ってみると、やはりそうで*1

 彼女が部屋を出て行くと、デニスはすぐにこの女性のことをすべて忘れてしまった。どこにでもいるタイプだった。アメリカの母親は、離れていても娘の見分けがつくのだろうとデニスは考えた。中国人は見かけは同じように見える人種だが、微妙な違いでお互いを区別できるという。それと同じだ。(p.70)

とあった。由良の文章には「中国人の母親は」云々とあり、若干ニュアンスが異なるのだが、そもそもこの小説自体、『ハムレット』(p.69)、A.E.ハウスマンの詩(p.135)、アーネスト・ダウソンの『詩集』序文(p.181)等から、故意に不正確な引用をしている節がある。だからといって、由良も意図的にそうしたのかも知れない……などと考えるのは、おそらく穿ちすぎなのだろう。
 さて小林訳が出たのと同年同月(!)に、“The Loved One”のもう一つの邦訳書として、イーヴリン・ウォー/中村健二・出淵博訳『愛されたもの』(岩波文庫2013、以下「中村・出淵訳」)というのが出ている。これは、1969年に金星堂から出た旧訳に中村氏が手を加えたものらしい。
 ちなみにその訳書では、当該箇所が、

 彼女は部屋を出て行き、デニスはじきに彼女のことをすっかり忘れてしまった。彼は今までに彼女と至る所で会っていた。ちょうど中国人たちがどれも見た目にはひとしなみの姿かたちをしていながら、お互い同士、微妙な区別がつくと言われているように、アメリカの母親たちは自分の娘たちを別々に見ても見分けがつくのだろうと、デニスは思った。(p.71)

となっている。
 “The Loved One”という原題は、たぶん、ラスト直前のデニスの次の言葉――「要するにわれわれがやらなければならないのは、“ご遺体”を、こう言わせてもらうが、ここへ連れてくることだ」(小林訳p.201)、「今僕たちがしなければならないのは僕たちの『愛するもの』――こんな呼び方をしていいならの話だが――を収容して、ここに持って来ることだ」(中村・出淵訳p.204)という箇所に由来するものだろうが、この「ご遺体」「愛するもの」が具体的に何を指すのか明かしてしまうと、いささか興をそぐことにもなりかねないので、ここでは触れずにおく。
 また作中、デニスが観光案内映画の音声に耳を傾ける場面で、小林訳は「(神に)愛されし人」に「ラブド・ワン」とルビを振っているところがある(p.99)*2。これこそまさに、由良の「《ルビ》の美学」いうところの、「日本語の〈黙読二国語性〉を修辞力の増強に転用」(p121)した例のひとつといえよう。由良は当該文で、黄表紙本や洒落本におけるルビを例にとって、そこに「まず漢訳し、つぎに邦訳する一種の〈ひとり重訳〉とでもいうべき二重手続き」(同)という手法を見出しているのだが、「愛されし人(ラブド・ワン)」の例は、文語訳した表現に原音に基づくカナ表記を施すという「二重手続き」を行っているのであり、いわゆる現代「口語文」内におけるルビの振り方としては、もっとも「超前衛的」(こちらも由良の表現)だと言いうるだろう。
 ところで“The Loved One”には、他にも邦訳があるらしく、吉田誠一訳(早川書房1970)は『囁きの霊園』というタイトルで*3、また出口保夫訳(主婦の友社1978)は『華麗なる死者』というタイトルで出ていて、同一作品なのにバラバラでややこしい。しかしそこは、この作品が暗喩に満ちており、多様な解釈を許すため結果的にそうなったのだとも受け取れる。
 “The Loved One”は映画化もされている。邦題は『ラブド・ワン』であり、これはわかりやすい。しかし高崎俊夫氏によると、ウォーの“Decline and Fall”(小説名としての邦題は『衰亡記』『大転落』など)が1970年代半ばに、『おとぼけハレハレ学園』という「実にふざけた題名」となって深夜のテレビ映画で放送されたことがある(劇場未公開)のだそうだ(「イーヴリン・ウォー原作の幻の未公開映画」*4『祝祭の日々―私の映画アトランダム』国書刊行会2018)。高崎氏はこの作品を「抱腹絶倒の傑作」と評したうえで、

 とにかく、めまぐるしいばかりのテンポのよい語り口、主人公以外、全員気が狂っているような、『不思議の国のアリス』を思わせるナンセンスで馬鹿馬鹿しいギャグが次々に飛び出し、ラスト、悪夢のような遍歴を経て、平原の彼方へ走り去ってゆく主人公に、思わず、『幕末太陽傳』(57)の居残り佐平次を連想したものである。(p.11)

と述べている*5

学術の森の巨人たち -私の編集日記

学術の森の巨人たち -私の編集日記

言語文化のフロンティア (講談社学術文庫)

言語文化のフロンティア (講談社学術文庫)

ご遺体 (光文社古典新訳文庫)

ご遺体 (光文社古典新訳文庫)

愛されたもの (岩波文庫)

愛されたもの (岩波文庫)

*1:そもそもウォーの作品自体、そんなにたくさん読んだことがないので、当然といえば当然の話なのだが。

*2:中村・出淵訳は単に「死者」と訳している(p.100)。

*3:これは作中に登場する霊園の名称をそのままタイトルに用いたものだが、中村・出淵訳は「囁きの森」と訳している。

*4:この文章は2011年8月にネット上で発表されたものだが、本では補注の形で『愛されたもの』『ご遺体』が刊行されたことがフォローされている(p.13)。

*5:同書は、世にあまり知られていない映画や文章を多く紹介していて、とりわけわたしは、エリザベス・ボウエン『日ざかり』を原作とする英国映画が『デス・ヒート/スパイを愛した女』という邦題でVHS化されていることや、秦早穗子氏が映画誌に厖大な量のエッセイを書いていることなどが気になった。他にも刺戟されたところや記憶が喚起された記述が多々あったのだが、それらについて書くのはまたの機会にしたい。

ヒッチコックの『泥棒成金』

 ヒッチコック作品は、高校*1、大学生の時分にある程度まとめて観て、その後――山田宏一和田誠両氏による対談本『ヒッチコックに進路を取れ』が刊行された2009年(一昨年に文庫化された)、同書に触発されて、『見知らぬ乗客』を皮切りに、それまで観たことがなかった作品も含めて集中的に観ており、以降もBSやCSでヒッチコック映画や「ヒッチコック劇場*2が放送されるたびに観てきた。
 どちらかというと洋画よりも邦画を好むわたしにとって、また、洋画になると必ずしも「作家主義*3を標榜し(たく)なくなるわたしにとって、ヒッチコックチャップリンウディ・アレンフランク・キャプラビリー・ワイルダーバスター・キートンウィリアム・ワイラー、そしてルネ・クレールジャック・ドゥミフランソワ・オゾンあたりは、その監督作品だというだけで、ついつい観てしまうのである。
 最近はこちらで映画のことを書かずにいたが(映画音楽についてはここ野村芳太郎八つ墓村』について書き、作品自体についてはここ伊藤大輔『弁天小僧』を観たときの感興を記して以来、ということになる)、なんとか時間を捻出して、たとえ細切れでもできるだけ観るようにはしており、この3月は12本、4月には11本観ている*4
 5月は多忙につき(?)なかなか観られなかったが、ようやく1本目を観ることがかなった。
 それが、アルフレッド・ヒッチコック泥棒成金』(1955米、"To Catch a Thief")なのである。もうずいぶん前に一度観たはずだが、細部はすっかり忘れていたので、初めての鑑賞といっていい。
 この作品が歴史的に重要なのは、ヒッチコックの長篇作品としてはこれ以前に『裏窓』(ジェームズ・スチュアート主演)、『ダイヤルMを廻せ!』(ロバート・カミングス主演)の2本に出演したヒロイン、グレース・ケリーの「最後の出演作」になったからで、ヒッチコックはそれ以降、自分の作品に同じような(ブロンドの)ヒロイン像を求めて試行錯誤を繰り返すことになる。
 このことに関しては、山田宏一氏が『映画術 ヒッチコックトリュフォー』を翻訳するにあたって、疑問点をフランソワ・トリュフォーに書翰で、ないしは直接会って問い質しており、その当時のインタヴューでも言及されている。トリュフォーの言を引く。

 ヒッチコックの最大の不幸は、言うまでもなく、彼の永遠のヒロインともいうべきグレース・ケリーを失ったことでしたが、彼女がモナコのレーニエ三世と結婚して引退したことをヒッチコックは惜しみつつも恨んではいませんでした。南仏で『泥棒成金』を撮影中にヒッチコックグレース・ケリーとともにレーニエ三世に食事やパーティーに招かれ、それがきっかけで彼のヒロインとモナコ大公との恋がはじまったことをヒッチコックはよく知っていたし、レーニエ三世とも仲がよかったからです。(略)しかし、グレース・ケリーの引退にはただ愛惜の念を示していただけでした。それだけに、じつは絶望も深かったのでしょう。『泥棒成金』以後のヒッチコック映画のヒロインを演じた女優たちは、ティッピ・ヘドレンもキム・ノヴァクエヴァ・マリー・セイントもヴェラ・マイルズも、すべてグレース・ケリーの代用品だったと言ってもいいくらいです。『めまい』はグレース・ケリーのために企画された映画でしたが、彼女がいなくなったために、もうひとりのグレース・ケリーをつくりだそうとするヒッチコック自身の悲痛な物語とみなすこともできます。(山田宏一ヒッチコック映画読本』平凡社2016:68)

 さて映画は、クレジットタイトルが終ってその冒頭、高齢の女性のクロース・アップで幕をあける。朝に目が覚めて、自分の宝石が何者かに盗まれたことを知った彼女は、顔を歪めて悲鳴をあげるのだが、これは後年の『サイコ』のジャネット・リーの絶叫シークェンスの先取りとも見える。
 プロットとしては、ヒッチコックお得意の「巻き込まれ型サスペンス」で、海外を舞台にしているところは『知りすぎていた男』(英国時代の『暗殺者の家』のリメイク)や後年の『引き裂かれたカーテン』などと同工、『泥棒成金』のニースの花市場での追いつ追われつの緊迫感は、『知りすぎていた男』のマラケシュの市場でのシーンを想起させる。
 また、『バルカン超特急』や『裏窓』、『ダイヤルMを廻せ!』、『サイコ』などでみられた男女一組のいわゆる“素人探偵”の筋書きはここでは姿を消しており、主人公たるケーリー・グラントは有名な元「宝石泥棒」*5にして「対独抵抗運動(レジスタンス)」の闘士、という設定で、あろうことかグレース・ケリーからも疑いの目を向けられることとなり、彼はその疑いを晴らすために孤独な戦いを強いられる*6。しかし最後の最後には、自分の誤解を認めたグレース・ケリーも彼の側について、大団円を迎えることになる。
 この作品では、ケーリー・グラントが警察の任意聴取からのがれるために屋根の上へと逃げるところが、最初のサスペンスフルな展開となるのだが、「屋根の上」のシーククェンスは、ラスト間際のクライマックスで今度は“大捕物”の場面として反復される。そこでふとおもい出したのが、伊藤大輔『弁天小僧』(1958大映の凄絶なラストであり、またブライアン・デ・パルマアンタッチャブル』(1987米、"The Untouchables")ケビン・コスナーとビリー・ドラゴとが「対決」するシーン*7だったのだが、そういえばデ・パルマには、殺しのドレス』(1980米、"Dressed to Kill")というヒッチコック作品のオマージュ(山田宏一氏などは「イミテーション?」とも評する)があるのだった*8! それはともかく、警察をまいたケーリー・グラントは悠々乗合自動車に乗り込んでひと息吐くが、そこで向かって右の席に何食わぬ顔をして坐っているのがヒッチコック本人、なのだった。監督本人の「カメオ出演」のシーンをさがすのも、ヒッチコック映画の愉しみのひとつだ。
 それにしても、この作品のグレース・ケリーの「亭主狩り(マン・ハント)」ぶり(山田宏一)はものすごい。
 これについては、山田宏一『映画的なあまりに映画的な 美女と犯罪』(ハヤカワ文庫1989)の劈頭を飾る「グレース・ケリーヒッチコック映画の女たち」(pp.9-21)が詳述している。
 これはまだ、グレース・ケリーケーリー・グラントを疑い始めるよりも前の場面に関する記述なのだが――(つまり、以下のやり取りで彼女は「本気で疑っている」わけではない)、

 『泥棒成金』のグレース・ケリーも、男(ケーリー・グラント)をホテルの寝室のベッドには誘わないが(彼女は、ただ、寝室の入口で、その晩はじめて会った男に燃えるようなくちづけをするのだが)、翌日、早速、車には誘う。もちろん、運転するのは彼女だ。なにしろ彼女は「タクシーのなかで生まれた」というぐらいだから、車のなかは揺籃同然、我が家同然といったところ。男を車のなかに誘いこんだら、もうお手のものである。『泥棒成金』の原題《To Catch a Thief》そのままに、彼女はねらった男(ケーリー・グラントはかつては〈ネコ〉と呼ばれた名高い宝石泥棒である)をつかまえたのだ。(略)
 グレース・ケリーケーリー・グラントをドライブに誘い、モンテカルロの町と海が一望に見渡せる場所に車をとめる。(略)
 グレース・ケリーケーリー・グラントに「胸がほしい? それとも、脚?」などときくので、ケーリー・グラントがギョッとすると、それはピクニックのために用意してきた昼食のフライドチキンのことだったというようなおふざけがあって、グレース・ケリーはなおも逃げ腰のケーリー・グラントに迫る。かつて〈ネコ〉の異名で世間を騒がせたこの素敵な中年の紳士泥棒をもうすぐ罠にかけられるという思いにワクワクしているのがわかる。
「〈ネコ〉におてんばの子ネコができたのよ」
「冗談はよせ」(とケーリー・グラントはぐっとグレース・ケリーの腕をつかむ)
「あたしの手首に指紋がついてよ」
「ぼくは〈ネコ〉じゃない」
「あなたって握る力が強いのね。泥棒はそうでなくっちゃ」
「このために来たんだろう?」(とケーリー・グラントグレース・ケリーをひきよせてキスをする)
「今夜、八時にカクテル、八時半にお食事――あたしの部屋でね」
「行けない。カジノへ行って花火を見物するんだ」
「あたしの部屋からのほうがよく見えるわ」
「約束があるんだ」
「来てくれなきゃ、あなたの行った先に“〈ネコ〉のジョン・ロビーさまァ”って呼びだしをかけるから。では、八時にね、遅れてはだめよ」
「時計がない」
「盗みなさい」
 ふたりはそのまま抱きあうのだが、じつに見事な、そして魅惑的なヒッチコック的美女の〈亭主狩り(マン・ハント)〉の一と幕であった。デイヴィッド・ドッジの原作にはこんなすばらしくばかげたシーンがあるかどうかは知らないけれども、このしゃれたせりふを書いたのは、『裏窓』から『泥棒成金』をへて『ハリーの災難』『知りすぎていた男』に至るヒッチコック映画の最もウィットに富んだ台詞を書いている(そもそもはラジオ作家だという)ジョン・マイケル・ヘイズである。グレース・ケリーは「盗みなさい」と言うところで、まるで「あたしをつかまえなさい」といわんばかりのいたずらっぽい目つきをする。(pp.13-19)*9

 「ピクニックのチキン」のくだりについては、これ以前にも山田宏一氏が、『シネ・ブラボー 小さな映画誌』(ケイブンシャ文庫1984)というチャーミングな本(カバー、本文イラストともども和田誠氏が担当している)のなかで言及している*10

 『泥棒成金』のピクニックのシーンで、グレース・ケリーが「胸? 腿? どっちがほしい?」と言うので、ケイリー・グラントが一瞬ドキンとすると、それはバスケットからとりだした昼食用のチキンだったというようなせりふのユーモラスな、しかしエロチックなニュアンス。(「ヒッチコックのフェイク」p.201)

 なおつけ加えておくと、グレース・ケリーがハンドルを握るシーンでは、車は切り立った崖がちらちら視界に入る山道を猛スピードで走り抜けるのだが――後年のグレース・ケリーの最期に思いを致すとき、複雑な気持ちになるけれど――、そしてこれは映画冒頭ちかくに見られる、南仏の海や街を背景にして行われる幾分のんびりした印象の空撮でのカーチェイスよりもはるかに迫力があるのだが(時々主観ショットが挟まれるので当然なのだろうが)、隣に坐るケーリー・グラントが、恐怖心から膝がガクガクするのをどうしても抑えられず、思わず手で押さえてしまうというショットが2、3度挿入されている。
 少なくとも美女の前では余裕をみせていたさしものケーリー・グラントも、このときばかりは目も泳いでいて全く余裕がなく、完全にグレース・ケリー支配下にあり、おもわず笑わされてしまうのだが、笑ってばかりもいられないのは、それが、グレース・ケリーというかフランセス・スティーヴンス(役名)による、一世一代の真剣な「亭主狩り」の一環であるからなのだろう。
 さきに引いたインタヴューで、トリュフォーケーリー・グラントについて次のように語っている。

 なぜヒッチコックが『北北西に進路を取れ』の主人公の役にゲーリー・クーパーではなくケーリー・グラントを起用したのか。その交替の理由は、たぶん、これはわたしの想像にしかすぎませんが、あえてその理由をさぐれば、当時ゲーリー・クーパーは病気がちで、すっかり老けこんでいたからだと思います。おそらくすでにガンに冒されていたのかもしれません。ケーリー・グラントは、ゲーリー・クーパーとほとんど同年齢だったけれども、ずっと若々しく、老いのイメージがまったくなかったので、ヒッチコックは彼を起用したにちがいないのです。(略)ヒッチコックの映画はすべてラヴ・ストーリーなので、『北北西に進路を取れ』のときもヒッチコックはそれにふさわしい若さのあるスターを考えたのだと思います。ケーリー・グラントは年齢的にはジェームズ・スチュアートよりも若くはなかったけれども、ヒッチコックの『泥棒成金』(一九五五)でカムバックして身も心も若返っていた。その後、ケーリー・グラントが第二の青春ともいうべき二枚目スターとしての新しいキャリアをつづけていくことはごぞんじのとおりです。(山田宏一ヒッチコック映画読本』平凡社2016:66-67)

 確かにケーリー・グラントは、例えば(6歳年長だった)アイリーン・ダンと共演したレオ・マッケリー『新婚道中記』(1937米、"The Awful Truth")*11と比較して見るとき、当時からさほど変わっているようには見えず、それどころか、ますます脂が乗りきっているという印象を受ける。
 山田宏一氏も、彼について次のように記している。

 (ケーリー・グラントは)老いることを知らない「永遠の青年」ともいわれた。ゲーリー・クーパークラーク・ゲーブルとわずか三歳違いにもかかわらず、まるで一世代も若々しい感じで、しかも年齢とともに男らしい色気というか、セクシーな風格と品位を増したスターであった。一九五五年に五十一歳で出演した『泥棒成金』と五九年に五十五歳で出演した『北北西に進路を取れ』という二本のスリルとサスペンスにみちたロマンティックなヒッチコック映画では、「ただ突っ立っているだけ」でなく、スタントまがいのダイナミックなアクションを披露し、そのはつらつとした若さで美しいヒロインのグレース・ケリーエヴァ・マリー・セイントを魅了した。(略)
 いつまでも子供っぽい、やんちゃなムードを失わなかったケーリー・グラントの、あの愛すべき笑顔に魅せられて、『シャレード』のオードリー・ヘップバーンが言うように、「欠点のないことが欠点」というところがケーリー・グラントの魅惑の美徳だったのかもしれない。(山田宏一「ミスター・ソフィスティケーション」『何が映画を走らせるのか?』草思社2005:330-32)

泥棒成金 スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]

泥棒成金 スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]

ヒッチコック映画読本

ヒッチコック映画読本

弁天小僧 [DVD]

弁天小僧 [DVD]

アンタッチャブル(通常版) [DVD]

アンタッチャブル(通常版) [DVD]

何が映画を走らせるのか?

何が映画を走らせるのか?

*1:初めに観たのが、(中学時代の友人O君が怖くて直視できなかったという)ダフネ・デュ・モーリア原作の『鳥』だったことをおもい出す。その映像感覚、ストーリーテリングぶりに驚倒し、続けて『知りすぎていた男』を観たのだったか。

*2:冒頭にヒッチコック本人が現れて人を喰った「解説」を行う(「世にも奇妙な物語」のタモリはこれを意識したものなのだろうか?)のが、その風丰と相俟っておかしい。グノーの「マリオネットの葬送行進曲」でお馴染みだ。この音楽は、のちに日本のCMなどでも使われた。

*3:作家主義については、山田宏一『何が映画を走らせるのか?』(草思社2005)の「『作家主義』の功罪」(pp.46-57)がたいへん参考になる。

*4:あえて月ごとにベストワンを挙げるとすれば、3月はルチオ・フルチ『真昼の用心棒』(1966伊)、4月は川島雄三『風船』(1956日活)になろうか。後者は再鑑賞。

*5:劇中では、「十五年間盗みははたらいていない」と言っている。

*6:もっとも、ジョン・ウィリアムズジェシー・ロイス・ランディスという全篇を通じての理解者がいることはいるのだが、ケーリー・グラントは彼/彼女と一緒に冒険を繰り広げるわけではない。ちなみに、後者のジェシー・ロイス・ランディスについて、山田宏一氏は「ヒッチコック映画の母親」と称し、「ざっくばらんで、剽軽で、ひと目でケイリー・グラントの母親になる。(略)『泥棒成金』でも『北北西に進路を取れ』でも、彼女はあざやかに(というか、ケロリとして)警察の目をごまかしたりしてケイリー・グアントの危機を救う」(「ヒッチコック・フェスティバル」『シネ・ブラボー 小さな映画誌』ケイブンシャ文庫1984:214-26)と述べている。この記述は、山田宏一ヒッチコック映画読本』(平凡社2016)p.240にそのまま利用されている。

*7:この場面で流れるエンニオ・モリコーネの"on the rooftops"は、ひところ「警察24時」といった類の番組のBGMで頻用されていた。

*8:これを「下品」と評する向きもあるが、わたしはこの作品を、探偵役(のひとり)を演じたナンシー・アレンとともに「偏愛」している。またナンシー・アレンというと、『ミッドナイト・スキャンダル』(1993)での猛烈な演技が忘れられない。

*9:この引用の一部は、山田宏一ヒッチコック読本』(平凡社2016)pp.99-100にも使われている。

*10:のちに山田宏一ヒッチコック映画読本』(平凡社2016)でも言及されている(p.275)。

*11:『新婚道中記』は、ギャグはさすがに古めかしいが、スミスという名の犬の使い方や、壊れた扉などの小道具の使い方が非常に巧い。ケーリー・グラントは以降もアイリーン・ダンと2作品で共演することになる。

早川孝太郎の『花祭』『猪・鹿・狸』

 早川孝太郎(1889-1956)、という民俗学者がいた。
 わたしはその名を、たしか岡茂雄の『本屋風情』で初めて知り、深く記憶に刻みつけたはずである。なにしろ同書の書名の由来に関わってくる人物なのだから。
 少し長くなるが、そのくだりを「まえがき」から引いておこう。

 本書の表題を『本屋風情』としたが、私はけっして卑下して用いたのではない。これには次のような動機があったのである。
 柳田国男先生がある事情からじれて関連者たちがほとほと困ったことがある。その事情や困った話のかずかずは、いずれ筆を改めて書こうと思っている。事は昭和三、四年の頃であったと思う。渋沢敬三さんも困った揚句、「柳田さんを呼んでいっしょに飯を食おうではないか」と提案され、私も賛成したが、「その時は君も主人側としてくるんだよ」といわれたので、「それは困る。荒れ(私たちは柳田先生のじれて当たり散らされるのを、荒れといっていた)の相手の一人である私は、はずしたほうがよい」といったのだが、「それはいかんよ、そんなことをいえばぼくだってその一人ではないか、それなら早川(孝太郎)君にも――これだってその一人といえないことはないんだが、主人側としてきてもらうから我慢して出たまえ、そのほうが却って、こだわりが薄れると思うからだよ」といわれ、不承不承加わることにした。「客としても柳田さん一人では、やはり具合が悪かろうから、石黒(忠篤)にもきてもらおう」ということになった。
 これらの人の間柄が、どのようなものであったかを、簡単に記しておこう。
(略)
 早川孝太郎氏についてはあまり広く知られていないようであるが、川端龍子門下の画人であり、後には柳田先生の末弟松岡映丘画伯のひきいる「新興大和絵会」の客員でもあったが、一面早くから柳田先生の学問に馴染んで師事することになっていた。氏は民俗採訪の優れた才能をそなえていたところから、渋沢さんの絶えざる支援を得て、時には石黒さんと連れ立ったりして、全国を採集して回り、あるいはまた石黒さんの推挙で、九大の小出満二博士のもとで、農村民俗調査等の仕事をしたりしたが、晩年は、これもまた石黒さんの世話で、鰐淵学園で教鞭をとってもいた。『花祭』の大著をはじめ、『猪 鹿 狸』『大蔵永常』、そして柳田先生との共著『女性と民間伝承』等の著作がある。
 さてこの催しは、数日後に実現し、渋沢邸(今の第一公邸)にひげてんを出張させ、座敷てんぷらで会食をした。表面はとにかく歓談という格好で、二、三時間を過ごした。終わって、主賓の柳田先生は渋沢家の車で送られ、石黒さんと早川氏と私は、当時の市電で帰途についた。三人とももちろんこの催しの意味は承知の上であったので、電車の中で、まずまず平穏無事でめでたしめでたしだったと語り合った。ところが、その二、三日後早川氏がきて、「きのう砧村(柳田邸所在)へ行ったが、だいぶ御不興だったよ」という。「ぼくがいたからでしょう」というと、早川氏は「そうなんだ。なぜ本屋風情を同席させたというんですよ」といい、私も「そんなことだろうと思っていたんだ」といって、二人で笑ったことであった。
 本屋風情とは、いかにも柳田先生持ち前の姿勢そのままの表現であり、いうまでもなく蔑辞として口走られたのではあるが、私にとってはまことに相応わしいものと思い、爾来――出版業を離れて久しいが、この「本屋風情」の四字に愛着をさえもつようになっていたのである。(「まえがき」『本屋風情』中公文庫1983、pp.10-13)

 ちなみに、上記で早川が「川端龍子門下の画人」だったことになっているのはどうも誤りらしい。須藤功『早川孝太郎―民間に存在するすべての精神的所産』(ミネルヴァ書房2016)には、次の如くある。

 早川は兵役を終えると上野の美術学校近くの家に書生として入り、絵画の勉強を続けた。洋画から日本画に転じ、大正二年(一九一二)に川端玉章が主宰する川端画学校に入学したようである。川端龍子の門下になったという説もあるが、龍子は昭和二年(一九二七)に青龍社を結成するまで弟子を取っていないとされる。(pp.66-67)

 昨秋、早川の著作のうち二冊――『花祭』『猪・鹿・狸』が、角川ソフィア文庫に入った。
 『花祭』はまず1930年、前・後篇計千七百ページ超の大部の書物として岡書院から限定三百部で刊行されたが、早川の歿後(1958年)に、その“抄縮版”が岩崎美術社の「民俗民藝双書」に入った(第12冊)。抄縮版は、原著の約五分の一の分量で、このほど出たソフィア文庫版はこれをもとにしている。『花祭』はかつて講談社学術文庫にも入ったことがあり、まだ現物を確かめていないが、こちらも抄縮版に基づくと思しい。
 「花祭」というのは奥三河の山里数箇所に伝わる霜月の祭りだが、早川の著作によって全国区のものになったとされる。
 ソフィア文庫版にも収録された澁澤敬三の「早川さんを偲ぶ」によると、

 昭和五年この出版慶祝として、小宅改築を機に最も因縁の深かった中在家の花祭を東京に招致し、柳田・折口(信夫)・石黒(忠篤)諸先輩を初め、多くの知友に見て頂き現地へ出難き方々にも真似事乍ら花祭を味って頂いたのであった。出席者の御一人泉鏡花老はその後小説に花祭の光景を扱われた。(pp.8-9)

といい、文人にも何らかの刺戟を与えたようだ。その招待客のなかには、金田一京助新村出小林古径らもいたという(須藤功『早川孝太郎』p.30)。
 一方『猪・鹿・狸』は1926年、郷土研究社から「炉辺叢書」につづく“第二叢書”の一冊として刊行された。約三十年後、これに「雞の話其他」(1925年、「民族」第一巻第一号に発表された)を再構成した「鳥の話」の章が附録として加えられ、角川文庫に入った(1955年)。その後講談社学術文庫に入ったようだが、筆者は未見である。今回のソフィア文庫版は、奥付をみると角川文庫版の「改版」という扱いになっており、角川文庫版の鈴木棠三「解説」のほか、新たに常光徹氏の「解説―新装にあたって」を附している。
 ついでに述べておくと、『猪・鹿・狸』の「凡例、その他」には、

 本の標題であるが、これがこの本に続いて「鷹、猿、山犬」および「鳥の話」を刊行し、二部作あるいは三部作としたい気持ちもあって撰んだものであった。実は書名について、当時健在であられた芥川龍之介さんから、自分は近く「梅、馬、鶯」という本を出す予定であるので、あなたの本を見て、その偶然に驚いたという意味を申し送られたものであった。(pp.9-10)

とあり、この件は鈴木の「解説」も触れている。

 『猪・鹿・狸』は、当時炉辺叢書というシリーズを出版しておられた故岡村千秋さんの郷土研究社の第二叢書ということで刊行された。折から『梅・馬・鶯』という、名詞三つを並べた題名の随筆集を公にしようとしていた芥川龍之介氏が、先を越された偶合に驚き賞讃した早川さん宛の書簡は、全集にも入っている。都会人の郷愁とのみ言い切れぬものと思う。
 このついでに言うと、(早川の―引用者)『三州横山話』が出た時、島崎藤村氏が書を寄せて、自分もかねがね郷土の民話を書いてみたいと思っていた、と賞揚されたことがあったという。(pp.239-40)

 実は、芥川もかつて『三州横山話』を随筆で取りあげたことがある。

 なお次手に広告すれば、早川氏の「三州横山話」は柳田国男氏の「遠野物語」以来、最も興味のある伝説集であろう。(略)但し僕は早川氏も知らず、勿論広告も頼まれた訳ではない。(「家」『澄江堂雑記』、石割透編『芥川竜之介随筆集』岩波文庫2014所収:195)

 また鈴木は、さきに引いた「解説」で続けて次のように書いている。

 中国の文人周作人氏が、日本の書物の中で最も愛読した本として、この『猪・鹿・狸』を挙げて、非常に叮嚀な紹介をされたことは、最高の知己の言であったとせねばならぬであろう。このような具眼者によって、渝(かわ)らぬ支持が、本書の初刊以来ほとんど三十年にわたってなされてきたことは、それだけの高い評価に値するものが本書に具わっていたことの証左というべきである。(pp.240-41)

 周作人が『猪・鹿・狸』を愛読書の一つとして挙げたことは、前述の須藤功『早川孝太郎』も触れており(p.6)、須藤氏によれば、後年早川は周作人に北京で面会したといい*1、またその際、中国人学生向けに「日本民俗学の現状」と題する講義も行ったという(p.234)。
 周の『猪・鹿・狸』評が日本で知られるようになったのは、松枝茂夫訳の『周作人文藝随筆抄』*2によってであろうが、当該の文章は最近、新訳で中島長文訳注『周作人読書雑記2』(平凡社東洋文庫2018)に収められた(pp.37-42)。周はそこで、「最初出た時に一冊買い、後で北平の店頭で一冊見たのでそれも買った。もともと友人にやるつもりだったのだが、今もって送っていない。それもケチなためではなく、人にこんな好みがなかったらと恐れたからだ」(p.37)と述べ、「全部で五十九篇、その中で猪と狸に関するものが最も面白く、鹿の部分はやや劣る」(p.38)と評している。さらに、その文章の末尾では『三州横山話』も引いている。

    • -

 さて『花祭』は、ソフィア文庫版の帯に「柳田国男折口信夫も衝撃を受けた日本民俗学不朽の名著」とあるように、民俗学や人類学の方面ではよく知られた書物であり、現在に至るまでしばしば参照されている。
 例えば山口昌男は、日本の祭りのなかで「狂気」が定型化された例として、「故早川孝太郎氏によって精細に記述されて、あまりにもよく知られている三河花祭り」を挙げたうえで、早川の『花祭』から「せいと」についての文章を引用している。
 「せいと」は「せいと衆」ともいい、「大部分がいわゆるよそもので、祭りにもなんら交渉のないただの見物」客で、かつ「なんの節制も統一もない群衆」のことだが、「舞子に対してはもちろん、その他神座の客や楽の座に対して、あるかぎりの悪態をあびせる」(『花祭』角川ソフィア文庫、pp.391-92)*3。「どんな悪態、悪口」とは言い條、そこには「一定の型」が認められたようで、これを山口は「祭りそのものの構文法」と見なし、「定型を媒介として、狂躁が成立している」ことに着目すべきだと説いた(「文化と狂気」、今福龍太編『山口昌男コレクション』ちくま学芸文庫2013所収、pp.123-25*4)。
 また、戦中の早川や柳田の動向ひいては「日本民俗学」を断罪する論者、例えば村井紀氏でさえ、“早川の方法論を評価する従来のやり方ではなく、その著作が日本の植民地主義の作物だった側面に注目すべきだ”――という考えのもと、「『花祭』も、“黒島調査”も、その「俗」なる部分を見なければならない」(「日本民俗学と農村―早川孝太郎について」『新版南島イデオロギーの発生―柳田国男植民地主義岩波文庫2004所収p.256*5)と述べ、やはり『花祭』を例に挙げている。
 早川の様々の貌に触れ得るという意味で、今回のソフィア文庫での復刊が、『花祭』だけにとどまらず、『猪・鹿・狸』との併せての刊行であったことを、まずは寿ぎたい。

本屋風情 (中公文庫 M 212)

本屋風情 (中公文庫 M 212)

花祭 (角川ソフィア文庫)

花祭 (角川ソフィア文庫)

芥川竜之介随筆集 (岩波文庫)

芥川竜之介随筆集 (岩波文庫)

周作人読書雑記2 (東洋文庫)

周作人読書雑記2 (東洋文庫)

山口昌男コレクション (ちくま学芸文庫)

山口昌男コレクション (ちくま学芸文庫)

南島イデオロギーの発生―柳田国男と植民地主義 (岩波現代文庫)

南島イデオロギーの発生―柳田国男と植民地主義 (岩波現代文庫)

*1:この当時、周作人は北京大学の教授となっていた。1942年2月11日、周らによって早川の招待会が開かれたという。その後、同年3月14日に早川が帰国の途につくまで何度か会っていたかも知れない。

*2:須藤著巻末の「早川孝太郎年譜」によると、1940年6月5日刊。

*3:須藤著によると、「花祭の別名は「悪態祭」で、舞をまう祭場の舞戸ではどんな悪態、悪口も自由に言ってよかった」。そして、これを見物した澁澤敬三にも遠慮会釈なく悪口が浴びせられた。「着ている外套(オーバー)を指して、「その外套どこで盗んできたか」などと言った。渋澤はそんな悪態をニコニコしながら聞いて、「花」を楽しんだ。早川のことを、「また座敷乞食が来ている」と言ったという」(p.11)。

*4:初出は「中央公論」1969年1月号、のち『人類学的思考』せりか書房1971に収む。

*5:初出は「日本文学」1993年3月。