福永武彦・中村真一郎・丸谷才一『深夜の散歩―ミステリの愉しみ―』(講談社文庫1981)を篋底に見出して、約十三年ぶりに読み返している。この間に、丸谷氏も故人となってしまった。
同書は、福永「深夜の散歩」、中村「バック・シート」、丸谷「マイ・スィン」の三部から成る。解説は小泉喜美子が書いている。後にハヤカワ文庫にも入った(が、同文庫版は未見である)。
昨年から今年にかけて、福永武彦『加田伶太郎作品集』(小学館P+DBOOKS)、福永武彦『完全犯罪 加田伶太郎全集』(創元推理文庫)、と立て続けに福永(加田伶太郎名義)の推理小説集が新装復刊され、なつかしく読み返していたところだったので、とりわけ福永のパートを重点的に読んでいる。因みに、今年は福永の生誕百年に当る。
この講談社文庫版は、日本版「EQMM」連載記事のほか、たとえば福永のパートだと、「毎日新聞」「東京新聞」に掲載された記事も収めるなど、少なからぬ増補がある。
「東京新聞」掲載(1956.5.9-10付夕刊)の方は、「探偵小説の愉しみ」と題されており、これは『完全犯罪 加田伶太郎全集』の法月綸太郎「解説」で、次のように引用・言及されている。
第一作「完全犯罪」を発表した直後、福永名義で「東京新聞」に寄稿した「探偵小説の愉しみ」には、「イギリスには、フィルポッツやメイスンや、ミルンのように、専門は文学で趣味は探偵小説作家というのが多い。アメリカのヴァン・ダインや、エラリイ・クイーンのように匿名で書いた連中は、きっと書きながらぞくぞくするほど嬉しかったろうと思う」という一節がある。これはまさに加田伶太郎の犯行自白だ。そしらぬ顔で楽屋落ちめいた文章を書きながら、福永自身、ぞくぞくするほど嬉しかったにちがいない。(pp.441-42)
その「探偵小説の愉しみ」の引用部の直前の文章を、『深夜の散歩』であらためて読んでみると、「これは冗談で、僕は長篇探偵小説を書くだけの勇気はないが、もし探偵小説がひとりだけの、秘密の愉しみだとしたなら、作者たることがその愉しみの絶頂だろう」(p.94)となっている。裏を返せば、「短篇探偵小説を書く勇気ならある」わけで、法月氏の言葉をかりるなら、これもやはり「犯行自白」だということになろう。
ところで『深夜の散歩』には、福永武彦「『深夜の散歩』の頃」(初出:「ミステリ・マガジン」1976.8)も収めてあって、そこで福永は、
私の記憶が間違っていなければ、初めのうち「EQMM」は完全な翻訳物ばかりで、オリジナルなものは殆ど載っていなかったようである。そこへ都筑君が日本人の手によるコラムの欄をつくり、私は一度、「探偵小説と批評」という文章を書いたことがある(これも講談社版『深夜の散歩』に収めてある―引用者)が、その後暫くして連載のエッセイを頼まれることになった。私はちょうどその頃、加田伶太郎のペンネームで探偵小説をぼつぼつと書いていて、この名前の蔭にいる本名の方は絶対にばれないようにしていたから、都筑道夫がそれを見破って、私をからかうつもりで連載を依頼したのかどうかは確かでない。(p.105)
と書いている。しかし、当の都筑の回想によれば、「からかうつもり」は毛頭なかったようだ。
都筑道夫『推理作家の出来るまで 下巻』(フリースタイル2000)には、
私の仕事場は、あいかわらず、ごった返していて、資料をさがしだすことが出来ない。だから、間違っているかも知れないが、まだ福永さんはそのとき、加田伶太郎の匿名で、推理小説を書いては、いなかったと思う。(福永のように日本版「EQMM」の編集方針を―引用者)ちゃんと見てくれるひとがある、という印象がさきにあって、加田伶太郎は福永さんだ、という知識が、あとにつづいたように、記憶している。
とにかく、いつか福永さんに、エッセーを書いてもらいたい、と思っていた。(p.267)
とある。「まだ福永さんはそのとき、加田伶太郎の匿名で、推理小説を書いては、いなかった」というのは、都筑の記憶違いで、少くともデビュー作の「完全犯罪」は「週刊新潮」誌上ですでに発表されていたし、第二作の「幽霊事件」も「小説新潮」誌上に出ていたのだが、都筑が「いつか福永さんに、エッセーを書いてもらいたい」と思った理由は、福永が「EQMM」(特に第三号以降)の編集方針を褒めてくれたから*1、ということにあるようだ。
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創元推理文庫の『完全犯罪 加田伶太郎全集』と小学館のペイパーバック版『加田伶太郎作品集』とは互いに補い合うような関係にある。
まず前者には、都筑道夫・福永武彦・結城昌治「『加田伶太郎全集』を語る」(「新刊ニュース」1970.3.1号)という鼎談が収めてある。これは確か、先行する新潮文庫版や扶桑社文庫版にも収められていなかったと記憶する。この鼎談で都筑が、「(福永が船田学名義で書いた―引用者)『地球を遠く離れて』、あれは続編を読みたいですね」(p.432)と語っていて、このSF*2は創元推理文庫版では読めないが、桃源社版『加田伶太郎全集』(1970刊)を底本とした小学館版では読める*3。
「地球を遠く離れて」については、福永が「推理小説とSF」(初出:「毎日新聞」1962.10.18付夕刊)で、
ここで少し脱線すれば、実は私は、五年ばかり前に、SFを一つだけペンネームで書いたことがある。私のSFは、恒星プロクシマ(ママ)を探検に行く宇宙船の話だった。一人称で書くことにしたので、なぜ主人公が日本語を用いるのかという点に、大いにこだわった。その結果、こういう手を用いた。その頃(幾世紀か後の話である)地球人はすっかり混血して国家意識はなく、新しい世界語を用いているが、彼らの間に最も流行している趣味は、すたれてしまった過去の言語の研究である。中でも一番むずかしいと言われる日本語を、主人公が勉強中なのだから、それを用いて日記をつけたとしても不思議ではない、という設定である。(『深夜の散歩』講談社文庫p.103)
と書き*4、「船田学」が自分であることを早々に明かしている。
一方で、「加田伶太郎」であることは自分では明かさず「ひた隠しに隠して」いたが、いつの間にか、「ジャーナリズムでは周知のこととなった」。それについて福永は、「存外わが友中村真一郎などがその元兇であるのかもしれない」(以上、「『深夜の散歩』の頃」p.107)と書いている。
また福永は、「『EQMM』という雑誌は、読んでいると自分もやりたくなるような奇妙な魅力を持っていたらし」い(p.106)とも書いており、日本版「EQMM」の編集長だった都筑、その次の編集長の小泉太郎、そして結城昌治を引き合いに出している。彼らはこの雑誌の影響もあって実作に転じたようだ。
小泉太郎は小泉喜美子の元夫で、筆名だと生島治郎、むしろ後者の方で知られるが、その名づけ親は結城である。福永が「誰(たれ)だろーか」(taredaro:ka)のアナグラムで「加田伶太郎」を名乗り、作中のアームチェア・ディテクティヴを「名探偵」(meitantei)のアナグラムで「伊丹英典」と名づけたように、「生島治郎」も一種の言葉遊びで生まれたものだと思う。
即ち「小泉太郎(コイズミタロウ)」の「コイ(来い)」に対して「イク(行く)=生」、「ズ(ス)ミ」の母音を替えて「シマ=島」、「太郎」といえば「次郎」、ちょっとひねって「治郎」と、そういう発想だったのではないか。「別冊文藝春秋」(1968.6)に見える生島の「ペンネーム由来記」には書いてあるだろうか。
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偶ま先日、古書市でフレイドン・ホヴェイダ/福永武彦訳『推理小説の歴史』(東京創元社1960)500円を拾った。原著では英語の題名が仏語に置き換えられるなどしていたようで、「訳者のあとがき」(福永)は、「薄いけれどなかなか苦労をした本である」(p.146)と結んでいる。
後に別の訳者による新版(1981刊)が出たことは知らなかったが、この本に関しては、福永が「深夜の散歩」の追記部分で次のように書いている。
ホヴェイダの本は『推理小説の歴史』という題名で、僕が創元社から頼まれて翻訳を出した。ところが高尚すぎて、さっぱり売れなかった。いくら推理小説がはやっても、学問とは縁遠いものなのだから、「歴史」まで覗いてみようなどと奇特な考えを起す読者が、そうそういる筈もない。とんだ誤算だった。(「封をした結末の方へ」p.60)
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