東雅夫氏は、これまで学研M文庫やちくま文庫、創元推理文庫等で、作家別のあるいはテーマ別のアンソロジーを多数編んでいる。
今夏は、東氏編の「怪異小品集」という作家別のシリーズ(2012年刊行開始)に、第7冊として『変身綺譚集成―谷崎潤一郎怪異小品集』(平凡社ライブラリー)なるアンソロジーが加わった。
鏡花をめぐる随筆や、中絶した「アッシャア家の覆滅」などが一冊で読めるのも嬉しいが、わけても随筆「春寒」が手軽な形で読めるようになったのは喜ばしいことである。
まずタイトルの「春寒」を何と読むか。例えば『日本国語大辞典【第二版】』には「はる‐さむ【春寒】立春後の寒さ。春になってぶり返す寒さ。「春寒し」のようにも用いる。しゅんかん」、『広辞苑【第七版】』には「はる‐さむ【春寒】立春の後の寒さ」と立項されており、小谷野敦『このミステリーがひどい!』(飛鳥新社2015)でも「はるさむ」と訓まれていたから、「はるさむ」で間違いなかろうと思われる。但し、後に述べる小林信彦氏の作中のルビは、「はるざむ」と連濁形になっている。
この随筆の初出は「新青年」(昭和五〈1930〉年四月号)で、もともと探偵小説論として書かれる予定だったが、後半は、不慮の事故で急逝した「新青年」の編集者・渡辺温*1への回想・追悼文になっている。すなわち谷崎は、これを書き継いでいたまさにそのとき、渡辺の訃に接したのである。
渡辺の遭難は、森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』などで比較的よく知られていることかもしれないが、『アンドロギュノスの裔(ちすじ)―渡辺温全集』(創元推理文庫2011)所載の「渡辺温年譜」に拠ると、次のようである。
一九三〇年(昭和五年) 二月 九日、原稿依頼のため、後に推理翻訳の分野で華々しい業績を残した長谷川修二とともに谷崎潤一郎宅に赴く。その帰路、西宮市外夙川踏切で二人の乗ったタクシーが貨物列車に衝突。重傷を負った温は西宮回生病院で逝去した。通夜は横溝正史宅、告別式は森下雨村宅にて営まれた。享年二十七。(p.630)
文中の長谷川修二は、ワーナー・ブラザーズにいた楢原茂二のペンネーム。清水俊二『映画字幕(スーパー)五十年』(ハヤカワ文庫NF1987)に、「楢原宣伝部長が長谷川修二のペンネームで「新青年」グループの作家であることを記者たちは知っていて、そのことがつき合う態度にも現れていた」(p.51)とある。
さらに清水著は、事故当時のことについて以下のように記している。
私がワーナー・ブラザーズの宣伝部に入社した翌年、昭和五年二月十日のことである。
私が神戸滝道の会社に出社すると、谷崎潤一郎先生から私のところに電話があって、西宮の回生病院にすぐ来てくれという伝言があったという。(略)
私はさっそく、回生病院に電話をかけた。しばらく待っていると、谷崎先生が電話に出た。
「先生ですか。何かあったのですか」
「楢原君がけがをして、ここに入院している。渡辺君は死んだ」
「渡辺さんが?」
「『新青年』の渡辺君だ。僕一人なので困ってる。すぐ来てくれませんか」
「新青年」の渡辺温が谷崎先生の原稿をとりに東京から来ているということは聞いていた。どんな事故があったのだろうか。
私は阪神電車で芦屋まで行き、芦屋川にそって海岸まで歩いて行った。西宮の親類の家の関西学院に行っている息子が看護婦の一人と仲がよかったので、私は回生病院をよく知っていた。
どんよりと曇った日だった。
前日の二月九日は日曜で、午後おそく谷崎邸を辞した渡辺温と楢原茂二は神戸に出て飲み歩き、午前一時ごろ、タクシーを拾って夙川荘に向かった。国道を西宮市の手前で左に折れ、阪急電鉄の夙川に出るところに国鉄の踏切がある。ここで上りの貨物列車にぶつけられたのだ。最初の一撃で運転手が跳ねとばされ、次に助手が跳ねとばされ、客席にいた渡辺は意識を失い、病院に運ばれて死亡、傷を負った楢原が谷崎先生に電報を打ったのだった。
私が谷崎先生が待っているという空室の病室に入って行くと、先生はがらんとした病室のすみにうずくまっていた。火のない箱火鉢の前でタバコを吸っていた。和服の上に黒いトンビを羽織っていた。
「先生、どうも申しわけありません」
「いや、君が来てくれて助かった。あとを頼みます」
私は病院の玄関まで、谷崎先生を送って行った。玄関から一直線につづいている砂利道を背中をまるくしてゆっくり歩いて行く谷崎潤一郎の姿をいまでも目に浮かべることができる。(pp.53-54)
渡辺と楢原とがその日遅くまで呑んでいたという話は、「春寒」も触れている。
…思うに九日は日曜でもあり、僕の家から真っ直ぐ帰らずに、あれからあの足で神戸へ廻り、二人とも行ける口であるから何処かで飲んだ戻り道で、恐らく酔っていたのであろう。(あとで聞くと、楢原君は十時迄に帰ろうと云ったのを、渡辺君が、いつもそんなことに剛情を張る人ではないのに、あの晩は妙に執拗に、是非もう少し附き合えと云って肯(き)かないので、「今夜は渡辺君は変だなあ」と思ったそうである。)(「春寒」『変身綺譚集成』p.216)
楢原君の経験では、踏み切りへかかったことも、衝突したことも、何も覚えがない。病院へ来て始めて事態を悟ったくらいで、全く恐怖を知らずに済んだ。それほどぐっすり寝込んでいたのだそうである。だから勿論渡辺君も寝ながら汽車に横腹を打たれて、夢中で死んで行ったであろう。その光景の凄惨さに比べて、案外苦しまなかったであろう。そう思うことがせめてもの慰めである。(同前p.222)
のちに清水俊二は谷崎と再会し、当時のことを振り返っている。
私は戦時中、思いがけぬ用件で、来宮の谷崎邸に招かれたとき、渡辺温の話をすると、
「そうだったね。君に来てもらったね。あの時は寒かった」
といわれた。あの日のことを谷崎先生はよく覚えていた。
楢原茂二はそれから三週間ほど入院していた。交通事故でかつぎこまれた患者なので、最初待遇がよくなかった。前にしるしたように、私が下宿していた親類の息子が看護婦の一人と親しかったので、その看護婦に頼み、やっと病室を変えてもらった。世の中のことはどんなところでどんなことが役に立つかわからない。(『映画字幕五十年』p.56)
ところで小林信彦氏は、「隅の老人」*2(初出:「海」1977.11月号)で、狩野道平という「宝石社」嘱託の老人と主人公・今野との交流を描いており、狩野の話のなかに渡辺温のことが出て来る。
「隅の老人」は小林信彦『袋小路の休日』(講談社文芸文庫2004など)に入っていたが、小林信彦『四重奏 カルテット』(幻戯書房2012)に再録されている。この『四重奏 カルテット』の劈頭を飾るのが「夙川事件―谷崎潤一郎余聞―」(初出:「文學界」2009.7月号)で、作中で狩野道平は真野律太だと明かされている(小林氏によれば、「(「隅の老人」では―引用者)名前は仮のものにしたのだが、色川武大氏に見抜かれてしまった」〈p.17〉、「この小説だけは登場人物がすべて実名である」〈「あとがき」p.261〉という)。
真野は、「大正の終りから昭和にかけて、当時の大出版社、博文館で鳴らした編集者」(「夙川事件」p.18)だったが、語り手の「私」と知り合った頃は、「朱墨を含ませた筆で原稿を校正してい」て、「擦り切れたコールテンの上着と膝の抜けそうなズボン」姿で、「昼間から酒を飲んで出社する小柄の(略)むすっとした老人」(以上p.17)であった。
その真野が、「私」とのやり取りのなかで、渡辺について次のように述べていたのが心に残っている。
「まあ、世間では『新青年』のカラーを作ったのは、二代目の横溝正史(よこせい)ってことになっているが、私たちは助手だった温(おん)ちゃん――本名・渡辺温(あつし)の力が大きかったと見ている。ショートショートの元祖、渡辺啓助さんの弟だ。変った男だったが、大変な才人だったと思うよ。博文館としても、温ちゃんはホープだったんだ。あんたがやろうとしているのは、温ちゃんの線だと私は見ているよ」
「いや……」
老人の目から見ると、そういうことになるか、と思った。
「温ちゃんを知らないかね」
「お名前を耳にしたことはあります。事故で亡くなった方でしょう」
「そう。谷崎潤一郎の原稿をとりに行く途中でね(ママ)」
「電車にぶつかったとか……」
「原稿はとれていなかったんだ。しつこく依頼に通ってね。たしか夙川(しゅくがわ)といったと思うが、そこの踏切で阪神電車にぶつかった」(「夙川事件」pp.20-21)
なお「隅の老人」は以下のようになっていて、若干やり取りが異なっている。
「始めた以上は、これで押し通すよりねえな。オンちゃんと同じ遣り方だが」
オンちゃんのンにアクセントがあった。
「オンちゃんて、だれですか?」
「渡辺温(あつし)のこった」
老人は今野の眼を見た。
「知らないかね」
「名前は知ってます。『新青年』の編集者で、谷崎潤一郎の原稿をとりに行く途中、自動車事故で亡くなった方でしょう」
「まだ、とれていなかったんだ。依頼に通っているときに、夙川(しゅくがわ)の踏切で阪神電車にぶつかった」老人は早口になった。「だから、谷崎さんは『新青年』に『武州公秘話』を書かざるをえなくなったんだ」(p.146)
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