ライクロフトと「夏の読書」

 著者と本と本棚との半世紀以上に亙る濃密な付き合いを描いた北脇洋子『八十五歳の読居録』(展望社2018)に、次のような印象的な一齣がある。

 わたしは開高(健―引用者)さんの一年下であるが、同じ法学部なのに、あまり口をきいたことがない。(略)
 しかし、わたしは開高さんに自分から進んで教えを受けたことがある。
 それは外書講読の時間に、予習をしていないわたしは、何となく今日は「当たる」という予感がした。
 それで誰かに、わからない箇所をきこうとキョロキョロしていると、開高さんが教室の前の廊下に立っているのを見つけた。
 開高さんが堂島の英語学校で教えているという噂をきいていたので、早速英語のプリントを持って、傍に馳せ寄ってたのんだ。
「開高さん、ここ教えて」
 開高さんは、しばらくじっとプリントを眺めていたが
「この略語の意味は何?」ときく。
「はじめは覚えていたんですけど忘れました」
「へえ。これがわからないで、よく読めるね」
「だから訳してほしいわけです」
 開高さんは苦笑いしながら、センテンスごとに一頁を五、六分で訳してくれたが、
「わからない単語があるから要約だよ」
 といった。
 わたしはお礼をいった後に尋ねた。
「どうしたら英文、スラスラ読めるようになるのですか?」
「そんなに、すぐ読めるものじゃないけど、翻訳家にでもなるの」
 わたしは凄い皮肉だ、と思いながらも神妙に否定した。
「君の好きな作家は誰?」
 わたしは咄嗟に高校の英語の時間にならったギッシングを思い出した。
「ギッシングです」
 痩せた開高さんの眼鏡の底が光ったような気がした。
「へぇ、渋いな。兎も角自分の好きな作家の本を辞書をひきながら、毎日少しづつ読むことや」
「やってみます」といってわたしは教室に入った。(pp.20-22)

 北脇氏が「高校の英語の時間にならったギッシング」と書いているのは、『ヘンリ・ライクロフトの私記』のことだと考えて、まず間違いあるまい。
 たとえば、北脇氏よりも少し(一、二歳)年下の阿部昭(1934-89)は、『エッセーの楽しみ』(岩波書店1987)で、「せいぜい私ぐらいの世代までの日本人には愛読された本で、昔はそこからよく英語の試験問題が出たジョージ・ギッシングの『ヘンリー・ライクロフトの手記』」(「草の上で」p.58*1)と書いており、また別のところで以下の如く述べている。

 往時の日本の読書界はさすがにこの本を見逃さなかった。翻訳の経緯は知らないが、大正十年(一九二一年)には市河三喜の注釈本が、同十三年には藤野滋の名訳と言われるものが出て、以来さまざまな版で親しまれてきた。『ヘンリー・ライクロフトの手記』が本国で出版されたのは一九〇三年(明治三十六年)で*2、ちょうど夏目漱石が留学から帰った年である。私は漱石がこれを読んで何か言っていないかと調べてみたが、ギッシングについては彼の小説に触れているだけである。面白さは別種だが、漱石の『永日小品』や『硝子戸の中』とも一脈通い合うものがある。(略)
 『ヘンリー・ライクロフトの手記』は、単に近代の古典であるという以上に、いつの世にもいる純粋な読書家、愛書家たちに向かって、何か彼らにしか通じない秘密の暗号を発信している本なのであろう。世間にはこの本をこっそり愛読書の一つに祀(まつ)っていながら、あまりそれを打ち明けたがらない読者も多いのではないかという気もする。
 参考までに、私とほぼ同世代で相当な「本の虫」である女性、英国で暮らした経験もありブロンテ姉妹の愛読者でもある女性にきくと、彼女は高校三年の時以来、毎年元旦にはこれを原文で読む、正月でなくてもゆっくりした時にはついこの本に手がのびる、そしていつも慰められる、と答えた。薄倖だったらしい著者の幸福な一冊である。(「『ヘンリー・ライクロフトの手記』を読む」pp.105-07*3

 このように、ある世代以上の人々にとっては、ギッシングといえば即ち『ヘンリ・ライクロフト』だったようなのだ。
 もう少し下の世代だが、たとえば奥本大三郎氏(1944-)は『本を枕に』(集英社文庫1998←集英社1985)で、「戦前、あるいは戦中、『ヘンリ・ライクロフトの私記』は学校でよく読まれたよう」だ(p.87)と述べ、自身の経験として次のように記している。

 私が平井正穂氏の訳註がついた、開文社版の対訳叢書で、『ヘンリ・ライクロフト』を買ったのは、たしか大学の二年か三年の頃だったと思う。高校の教科書に一部が掲載されていて、気に入ったので、いずれ全文を読もうと思って買ったらしい。しかし英文の方はあまり読まずに、同氏による岩波文庫版の訳本をもっぱらひろい読みしていた。とくに気に入った箇所の原文を朗読してみたりする。(「孤独な放浪者の夢想」p.94)

 さらに、『ヘンリ・ライクロフト』のたぶん最も新しい訳書、池央耿訳『ヘンリー・ライクロフトの私記』(光文社古典新訳文庫2013)の「解説」(松本朗氏)は、

 日本でも、一九〇九年という早い時期に英文学者の戸川秋骨(一八七一年〜一九三九年)によって「春」の第八章が「田園生活」と題されて「趣味」誌に訳出されて以降、『ヘンリー・ライクロフトの私記』は、二十以上の翻訳が出版されるほどの人気を誇っている(略)。たとえば、大正から昭和初期にかけてエリートを養成する場であった旧制高等学校の多くの英語教科書に『ヘンリー・ライクロフトの私記』は収録されていたらしい。この事実は、教養主義と呼ばれるものが二十世紀前半の日本で一定の影響力を揮っていたことを物語っているし、その後教養主義が過去の遺物のような扱いを受けるようになったときも、教養という言葉が、多少なりともなにか私たちを引きつけ、魅惑したり不安にさせたりする力を持ち続けていることを示しているように思われる。(p.317)

と、『ヘンリ・ライクロフト』の盛行を、いわゆる教養主義に結びつけて論じている。

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 奥本氏は、「いま持っている『ヘンリ・ライクロフトの私記』のテキストにも訳本にも共感を示すアンダーライン、傍線がいっぱいに引かれている」(前掲p.77)と書いているが、わたしが特に共感を覚えるのは、書物に関する一連の記述である。なかで次のくだりは心に残っている。

 今日庭で本をよんでいると、かすかな夏の薫が漂よってきて、――読んでいたものとなにか妙にからみあっていたのだが、――といってそれがなんであったか分からないのだが――ふっと小学校の頃の休みを私は思い出した。勉強から長い間解放されて、海岸へゆくときの、あのはずむような気分を、自分でもおかしいくらいまざまざと思いだしたのだが、ああいう気分こそ少年時代でなければ味わえないものだと思う。(平井正穂訳『ヘンリ・ライクロフトの私記』岩波文庫1961:「夏」一、p.84)

 庭で本を読んでいるところへ爽やかな風が夏の匂いを吹き寄せて、子供の頃の夏休みの記憶を呼び覚ました。読みさしの本のどこかに記憶につながる何かが隠されていたのだと思うが、それが何だったかははっきりしない。ただ、課業から解放されて海辺で過ごす長い休みの晴れやかな気分は不思議なほどありありと胸裡に蘇った。(「夏」1、池央耿訳p.92)

 また、次のようなくだり。

 私はこの本(クセノフォン『アナバシス』―引用者)を開き、これを読んだ少年時代の思い出が亡霊のように私の心にうごめくのを感じながら、読みつづけた。そして章から章へとすすみ、数日後には全部を読みあげることができた。
 これが夏のことだったのは幸いなことだと思う。子供の頃の思い出をこの頃の生活と結びつけるのが、どうも私のくせになってしまっている。それには教科書のくせに私の愛読書であったこのような本に帰ってゆくことほど適当な方法はほかにはなかったであろう。
 記憶のなにかのいたずらで、私はいつも学校時代の古典の勉強を、暖い、快晴の季節の感じと結びつけて思いだすのである。雨や陰気な天気やうそ寒い雰囲気の方が実際にははるかに多かったにちがいないのだが、そんなことは忘れてしまったのである。(「夏」九、平井正穂訳pp.102-03)

(クセノフォン『アナバシス』の)ページを開くと少年時代を思い出して心が疼き、章から章と息つく閑もなく数日で一巻を読み終えた。
 夏のことで幸いだった。少年時代と長じて後の接点を探るには教科書に立ち返るのが何よりだろう。どんなものでも学校で読まされるとつまらなくなるのは世の常だが、この本は実に楽しかった。
 ちょっとした記憶のいたずらで、子供の頃に読んだ古典はきっとからりと晴れた夏の日の連想を誘う。雨の日や陰気で薄ら寒い日の方がよほど多かったに違いないが、そんなことは思い出さない。(「夏」9、池央耿訳p.113)

 「子供の頃」に限らず、わたしの個人的な至福の読書体験は、なぜか夏の陽光とともに思い出すことが多く、これを読んだときに、まさに我が意を得たり、という気がしたものである。
 あれは中学生の時分、茹だるような暑さのなか、部屋でこっそり読んだ乱歩の『化人幻戯』や「屋根裏の散歩者」、マンの『魔の山』を感銘しつつ読了したのはたしか真冬で炬燵の中だったはずだが、なぜかよく思い出すのは主人公のハンス・カストルプが雪山を彷徨するくだりや、セテムブリーニとナフタとの息詰まる「対決」の場面で、それらもやはり夏の記憶と結び付いているし*4、近くは(といっても十四、五年前)真夏のからりと晴れた或る日、籐椅子の上で一語一語を噛み締めるように読んだ保坂和志カンバセイション・ピース*5、晩夏の午下り、縁側に腰掛けて読んだ谷沢永一『紙つぶて(全)』……。
 それどころか、夏に読んだはずではない本を夏の記憶とともに思い出したりするのだから、我ながら不思議である。そもそも年がら年中本を読んでいるので、夏以外に読んだ本が大多数なのに、これは一体どうしたことか。
 「夏の読書」は、わたしにとって、格別な意味をもつようである。
 マラマッド/阿部公彦訳「ある夏の読書」(『魔法の樽 他十二篇』岩波文庫2013所収)*6は、そんなわたしが、タイトルに惹かれて読んだ短篇である。しかしこれは、(ネタばらしにはならないと思うのであえて書くが)主人公が「秋になって読書をはじめる話」なので、初めはかなり肩透かしを食った気もした。しかし実は、そこへと至る過程が面白く、読めば読むほど味わいのある作品だと思うようになった。

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 『ヘンリ・ライクロフト』には、次のような描写も見える。これには大方の本好きが共感してくれるものと思う。

 犠牲――といっても、それはけっしてお座なりな意味での犠牲ではない。私のもっている数十冊の書物は、本来ならいわゆる生活の必需品を買うべきお金であがなわれたものなのだ。私は本の陳列台の前や本屋のショー・ウィンドーの前にたち、知的欲望と生理的欲求の板ばさみに幾度苦しんだことであろう。胃袋は食物を求めてうなっていようという食事時間に、ある一冊の本の姿に私の足はクギ付けにされたこともあったのだ。その本は長いこと探し求めていたもので、また実に手頃な値段がついていた。どんなことがあっても見のがしておくわけにはゆかなかった。しかし、それを買えばみすみす飢えに苦しむことは見えすいていた。私のハイネ校訂本ティブルルス*7はこういうときに手に入れたのである。グッヂ・ストリートの古本屋の店頭にあったものだが、この店頭には時折山のようながらくたの本の中に素晴らしい掘り出し物がでていたものであった。六ペンスの値段だった。実に六ペンス! 当時私はオックスフォド・ストリートの、ほとんど今日では姿を消してしまった本ものの古びたコーヒー店で昼飯を(もちろんこれが私の正餐というわけだが)とっていた。六ペンスという金額が私の全財産だった。そうだ、天にも地にもかけがえのない全財産だったのだ。それだけあれば、一皿の肉と野菜が食べられるはずであった。しかしティブルルスが、小銭の入る見込みのある翌日までそのままずっと待っていてくれるとは、なんぼなんでも期待することはできなかった。ポケットの銅貨を指先で数えながら、店頭を見つめながら、私の内部に争う二つの欲望に苦しみつつ鋪道の上をうろうろ歩いた。結局その本は手に入れた。そして家にもって帰った。バタつきのパンでどうにか正餐のかっこうをつけながら、私はむさぼるようにページをめくった。(「春」一二、平井正穂訳pp.47-48)

八十五歳の読居録

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エッセーの楽しみ

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本を枕に (集英社文庫)

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ヘンリー・ライクロフトの私記 (光文社古典新訳文庫)

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ヘンリ・ライクロフトの私記 (岩波文庫)

ヘンリ・ライクロフトの私記 (岩波文庫)

魔法の樽 他十二篇 (岩波文庫)

魔法の樽 他十二篇 (岩波文庫)

*1:初出は1986.6.14付「東京新聞(夕刊)」。

*2:これは単行本の刊行年であって、ギッシングは前年の1902年5月、「隔週評論」誌上に作品の一部を発表しているという。

*3:初出は1986.4.20付「朝日新聞」。

*4:魔の山』を読み了えるのに一年近くかかったのだ。

*5:「まるで小津映画のような」、という評言に惹かれて購ったと記憶する。

*6:原題は“A Summer’s Reading”、加島祥造訳『マラマッド短編集』(新潮文庫1971)所収の訳文では「夏の読書」。

*7:3拍めの「ル」は小書き。