梅園竜子という女優

『乙女ごゝろ三人姉妹』(1935,P.C.L映畫製作所)

演出・脚本:成瀬巳喜男、撮影:鈴木博、主題歌(作詞):佐藤惣之助サトウハチロー、音樂:P.C.L管絃樂團、原作:川端康成『淺草の姉妹』、主な配役:細川ちか子(おれん)、堤眞佐子(お染)、梅園竜子(千枝子)、林千歳(母親)、松本千里(お春)、三條正子(お島)、松本萬里代(お絹)、大川平八郎(逭山)、滝澤脩(小杉)、伊藤薫(腕白小僧)、岸井明(客)、藤原釜足(醉つぱらひ)。
成瀬巳喜男のP.C.L(現・東宝)移籍後*1第一作にして、トーキー第一作。「姉妹」は『宗方姉妹』のように、「きょうだい」とよむべきなのか。それとも「しまい」でよいのか。判りません。
二度めの鑑賞です。『噂の娘』(1935)や本作品は、はじめに観たとき、終り方が唐突で中途半端だなあ…と感じたのですが、全然そんなことはない(笑)。思いこみというものはおそろしい。本作品は、ほぼ完璧な構成をもっています。原作は、川端康成の『浅草の姉妹』。残念ながら未読。
浅草の三姉妹が主人公です。長女・おれん(細川ちか子)は、小杉(滝沢修)という男とすでに出奔しています。残された次女・お染(堤真佐子)は、薄倖な門づけの女。鼻であしらわれることはしょっちゅうで、酔客さえ相手にする毎日をおくっています。末妹の千枝子(梅園竜子)は、レヴューで踊り子をやっていて、料亭の御曹司・青山(大川平八郎)と付合っています。
とにかく、対比表現が実に見事。冒頭からして上手い。浅草六区の活況と、みすぼらしいなりの女(お染)が対比的に捉えられます。そして、随所に挟まれるネオン街のシークェンスと、門づけの女から見た浅草。あるいは、お染の目にうつる浅草と千枝子の視点から見る浅草のちがい。新旧せめぎあう浅草の姿がここにある。ときどきコマ落ちするのが非常に残念なのですが、かなりの傑作です。
二度めということもあって、ディテールにも目がとまりました。そして梅園竜子も、今回はじっくり見られた。とくべつに好きな女優、というわけではないのですが、出演していると妙に気になるのです。
この作品は彼女の映画デビュー作品で、のちの『噂の娘』(1935)と同じように、無邪気でちょっぴりお転婆な「モガ」を演じています。いずれも、姉と対蹠的な存在として描かれています。本作品から、印象的な梅園竜子の出演シーンをひとつ挙げるとすれば、子供たちを追っ払うシーンでしょうか。
それは、お絹(松本萬里代)が藝を仕込まれているところからはじまります。「ここは串本 向かいは大島 仲をとりもつ巡航船〜♪」でお馴染みの『串本節』を練習しているのですが、なかなか上手くいかず、師匠(林千歳)に怒られてばかりいます。それを近所の子供たちがはやし立てる。その子供たちを、水を浴びせかけたり竹箒を振り回したりして追っ払うのが千枝子です。逃げる子供らに向かって赤目(あかんべえ)をする。その梅園の演技が、初々しくて可愛らしい。
梅園竜子は、もともと「カジノ・フォーリー*2の踊り子でした。
ところで、「カジノ・フォーリー」とはなにか。

パンツが見える。―羞恥心の現代史 (朝日選書)
カジノ・フォーリーは、戦前の浅草にあったレビュー団の名称である。パリにあったカジノ・ド・パリと、フォリー・ベルジェールをあわせ、そう名づけられた。いわゆる浅草レビューを代表する劇団である。
旗あげは、一九二九(昭和四)年七月に、水族館の余興場でおこなわれた。だが、人気はあつまらず、翌八月一日をもって休演するにいたっている。
再起をはかって、二度目の興行へうってでたのは、同年一〇月である。そして、この第二次カジノ・フォーリーは、爆発的な観客動員を記録した。レビュー・ガールのセックス・アピールを強調した演出が、大むこうにうけたからである。
井上章一『パンツが見える。』朝日選書,2002.p.174-175)

そして、川端康成新聞小説『浅草紅団』(1929〜1930)の連載をきっかけとして、ますますカジノ・フォーリーの人気は高まりました。一九三〇年にはいってからは、「金曜日には踊り子がズロースをおとす」(井上前掲書,p.175)という風説さえも、まことしやかに流布されるようになりました。この噂話もカジノ・フォーリーの集客力を高めたことは、いうまでもありません。
また、このカジノ・フォーリーについては、次のような意外なこぼれ話もあります。

権威を笑いのめし、お色気たっぷりなレビューは爆発的な評判を呼び、庶民はもとより、学生やインテリ層によって「カジノを見る会」が結成されたほど。ファンは川端のほかにも文士・武田麟太郎小林秀雄青野季吉、画家・藤田嗣治*3という具合である。(『日録 20世紀』第1巻第43号,講談社より)

川端康成は昭和四〜五年ころ、浅草通いをしきりにしていたらしく、「浅草もの」とでもいうべき一連の作品群を書いています。たとえば、『浅草紅団』、『浅草日記』(続篇は『浅草の女』)、『浅草心中』といった類。『日本地理体系』(改造社,1930)所収の「浅草」も、川端康成が執筆を担当したのだそうです*4。そんな川端が格別に目をかけていたのが、梅園竜子だったようです。川端の作品にも、彼女が登場しています。

「あの小さいほうは、なかなか踊れるじゃないか」
「踊れるはずだわ。お祖母さんとかが、踊のお師匠さんですって」
「龍ちゃん」とか、
「花島あ*5」とか見物のかけ声が盛んだ。
「えらい人気だ。龍ちゃんてどれだい」
梅園龍子って小さいほうよ。だけど、たった十五と聞いたら、がっかりするでしょう」と、弓子はふと白綸子に頬を落すと、深くうなだれてしまった。
川端康成『浅草紅団』「水族館」十一*6より)

さて、梅園竜子は1935(昭和十)年、映画界に進出し、P.C.L専属の女優となりました。それから五年間、いくつかの映画に出演したのですが、いずれも印象にのこる重要な役回りばかりです。そのために、数年間の活躍とはいえ、鮮烈な印象をのこしました。現在でも彼女のファンは少なくありません*7
梅園竜子(龍子)については、が参考になるとおもうので、ぜひご覧ください。貴重な写真も見られます。

*1:これ以前は、松竹キネマ蒲田撮影所で無声映画を撮っていました。

*2:ついでに云うと、「カジノ・フォーリー」には、エノケン二村定一も所属していました。

*3:「パリイ帰りの藤田嗣治画伯が、パリジェンヌのユキ子夫人を連れて、その(カジノ・フォーリーの―引用者)レヴュウを見物に来るのだ」(川端康成『浅草紅団』「水族館」十より)。

*4:『日本文学全集39 川端康成集(一)』(集英社,1966)による。

*5:花島喜世子(希世子)。エノケン夫人です。

*6:後掲の『梅園竜子記念館』にも、その一部が引かれています。

*7:江戸川乱歩の『悪魔の紋章』(1937〜1938年、「日の出」に連載)に出てくる「北園竜子」の名は、梅園竜子を意識したものであろうと私は考えています。