『有りがたうさん』

晴れ。
今日は外に出ず。
朝、清水宏の『有りがたうさん』(1936,松竹大船)を観る。
助監督(監督補助)には、あの佐々木康さんの名もみえます。
セットではなくロケを重視した清水監督ならではの作品。この作品は、『按摩と女』(1938)や『簪』(1941)とともに、日本映画の秀作として取上げられることが多いので、ご存じの方も多いのではないかとおもいます。
たとえば、双葉十三郎さんは、『有りがたうさん』について以下のように書いています。

伊豆の路線バスの運転手(上原謙)は道を譲ってくれる馬車や人に「有りがとう」とお礼を云う。その心遣いの優しさから“有りがたうさん”とよばれるようになったのだが、そんな彼のバスが乗客たちのさまざまなエピソードを乗せて南伊豆をのんびり走る。清水宏監督は風景を描くことが好きで巧みだった。この作品もオール・ロケで、スクリーン・プロセスさえも使わなかった。ちょっと皮肉な人間模様が、長屋や都会生活ではなく、自然のなかで展開されるという手法が斬新で、のびのびしたムードに人情味が溶け込み、いかにも清水宏の世界が広がっていた。五所平之助監督の『伊豆の踊子』('33)を意識しながら、それとは別の伊豆を描いてみせた。乗合バスのちょっとした“小型グランド・ホテル映画”でもありましたね。原作は川端康成の短篇。
(『日本映画 ぼくの300本』文春新書,p.23)

また小林信彦さんは、こう書いています。

「小津さんだけが世界中で評価されて、清水さんはどうなんだ?」と笠智衆に言わしめた*1、その清水宏監督のロードムーヴィーの秀作。伊豆を走るバスの運転手が上原謙だが、道路工事に動員された朝鮮人労働者の群れを描くシーンに胸をつかれる。(『ぼくが選んだ洋画・邦画ベスト200』文春文庫,p.63)

朝鮮人労働者」たち*2を撮影するということは、当時は珍しかったようです。

『有りがたうさん』(一九三六)は軽快なロードムーヴィであり、戦前の日本映画では例外的に、植民地朝鮮からの移民労働者たちを即興的にカメラに収めている。(四方田犬彦『日本映画史100年』集英社新書,p.88)

移民のほかに、カメラは行商人たちをとらえ、子供たちをとらえ、どさ回りの旅役者や旅藝人たちをとらえ、軍人をとらえる。そのなかには、「即興的にカメラに収め」られた人たちも多いのではないか*3とおもいます。
もちろん、バスの乗客たちも丁寧に描かれており、たとえば石山隆嗣(髭の紳士)や築地まゆみ(賣られゆく女)は印象に残ります。わけても、準主役級のはたらきをするのが桑野通子(黒襟の女)。
「有りがたうさん」の運転するボンネットバスは、そんな様々の境遇にある人を乗せ、あるいはすれ違い*4、野を越え山越え谷をも越えて東京へ。ひとり、またひとりと降ろしてゆく。道行く人に声をかけられると、気さくに話しかけ、ことづけや買物まで頼まれる有りがたうさん。そういう運転手が本当にいたのかどうかは知りませんが、当時はバスが都会と地方とを結ぶ重要な交通手段であったことが分ります。
だからこそ、都会と地方のいわゆる「情報格差」も浮彫りにされます。たとえば旅役者の女性は都会の「流行歌」を知らないし、桑野通子(黒襟の女)はターキーを知らない*5
そして、忘れてはならないのが、この映画は当時の世相もうつしだしているということ。バスは失業者の群れ(都会から村に帰ってくる人々)とすれ違い*6、車内では「柿と子供だけは豊作だ」という皮肉が飛び出します。原作の川端康成『有難う』が発表されたのは、一九二五(大正十四)年。そして『有りがたうさん』が公開されるまでには、金融恐慌(1927)や昭和恐慌(1930)の影響もあって、実質GNPの成長率(年率)がしばらくは一パーセント弱に止まっていたそうです。その後、一九三〇年代の後半には確かにGNPの驚くべき成長がみられましたが、それは農業と消費とを犠牲にしたものであったようです。このことは、五割以上の日本人が経済的苦境に陥っていたことを意味するといいます(原田泰『世相でたどる日本経済』日経ビジネス人文庫参照)。
そんな「経済不振」の時代に製作されたのが、『有りがたうさん』。けれどもそういう「暗さ」は、いくつかのディテールに反映されているだけなので、全体をとおしてみた内容は、むしろ明るいくらいです。
ちなみに私は、原作の『有難う』を、宮本輝編『魂がふるえるとき 心に残る物語―日本文学秀作選』(文春文庫)で読みました。しかし、映画とはまったく異なっています。原作の主な登場人物は三人しかいませんし、結末も違います。別の作品として愉しむべきでしょう。

*1:笠智衆のおなじセリフが、さらに正確に引用されているのが、小林信彦『コラムは誘う』(新潮文庫)の「ひそかな話題作『簪』をめぐって」(p.138-41)。ここで小林さんは、「ジム・ジャームッシュの作品から、急に、〈ロード・ムーヴィー〉ということがいわれ始めたが、清水宏の作品(たとえば『有りがたうさん』)こそ、そのはしりではないか」(p.139,「はしり」に傍点)と書かれています。また、『簪』を「ひそかな話題作」と表現しているのは、同時期に書かれた中野翠さんの記事を意識しているためではないか、とおもわれます(文春文庫の『無茶な人びと』で読めます)。

*2:上原謙と会話を交わす朝鮮移民に扮しているのは、久原良子。「あたし、お父さんを置いていくの。だから、あそこを通るときは、ときどきお墓に水をまいて、お花をさしてやってね」、と言い残してバスを見送るシーンは哀しい。

*3:清水宏が即興性のつよい映画をつくるようになるのは、一九三〇年代に入ってからのことだそうです。

*4:有りがたうさんのバスは「売られゆく女」(築地まゆみ)とその母(二葉かほる)を乗せているのに、それとすれ違うもう一方のバスは東京帰りの娘(忍節子)とその父(河村黎吉!)を乗せている。後者の娘は、「あたし、水の江ターキー見てきたわよ。すごいわよお。それから発声映画、トーキーも。はっきり物を言うわよ」と東京見物の興奮を語ります。築地まゆみはそれを聞いて、ますますふさぎ込みます。このシークエンスは、後の『生きる』(1952)の階段シーンに似ているな、とおもいました。つまり、階段ですれ違う二人の一方はこれから誕生日を迎える者で、もう一方は死にゆく者(志村喬)、という見事な対比構造。

*5:黒襟の女が有りがたうさんに、「ターキーターキーっていうけど、何のことだい?」と問いかけると、「女が男の真似をすることさ。だから男が女のように喋るのを、トーキーって言うんだろうよ」という答えが返ってきます。笑いました。

*6:そういえば小津安二郎の『大学は出たけれど』が公開されたのは、一九二九(昭和四)年のこと。