「デュ・モーリア」というと、ミステリ好きや映画好きは、おそらくダフネ・デュ・モーリアを思い浮かべることだろう。わたしもそのくちで、ヒッチコック作品を経由して彼女を知り、文庫版でいくつかその作品を読んだ。
しかしその祖父、“ジョージ”・デュ・モーリアが挿絵画家にして作家であったことを知る人は、果してどれくらいいらっしゃるだろうか。ダフネ・デュ・モーリアの文庫版解説、たとえば務台夏子訳の『鳥―デュ・モーリア傑作集』(創元推理文庫2000)でも、ジョージについては次のような一行で済まされるだけだ――すなわち、
ダフネ・デュ・モーリアは、一九〇七年五月一三日にロンドンに生まれた。祖父、ジョージ・デュ・モーリアは高名な小説家・画家、父ジェラルドはこれまた名の知られた舞台俳優兼演出家、母ミュリエルは舞台女優――という芸術家一族(ちなみに、姓から推測される通り祖先はフランスの亡命貴族〈エミグレ〉である)に生まれた彼女は、正規の学校教育を受けることなく、二人の姉妹とともに家庭教師から教育を授かった。(千街晶之「解説」p.540)
ジョージ・デュ・モーリアを知ったのは、岩田宏『渡り歩き』(草思社2001)所収の「夢の領域」(pp.141-53)によってである。岩田氏は、1940〜50年代のアメリカのミステリに「ピーター・イベットスン」が周知の人物としてたびたび登場することに興味をひかれ、その正体を探るうち、ジョージへと辿り着くこととなる。
ジョージ・デュモーリアは、長年「パンチ」誌で漫画を描き、他にたくさんの本の挿絵を描きつづけて、「挿絵や漫画のキャプション以外には文章らしきものは書いたこともなかったのに」、五十七歳の年に突如、長篇小説『ピーター・イベットスン』(一八九一)を、三年後には長篇『トリルビー』を出して、どちらも大評判になる。(略)生涯の最後の最後に文筆の才能を思いもかけず開花させて、この特異な挿絵画家が亡くなったのは一八九六年。翌九七年には三冊めの小説『The Martian』が出る。
『ピーター・イベットスン』と『トリルビー』の初版本には、作者自身の描いた挿絵が数えきれないほどたくさん入っていた。挿絵画家、漫画家としてのデッサン力や人間観察の妙が遺憾なく発揮された美しいペン画だ。一九三〇年代の初めに『ピーター・イベットスン』は「モダン・ライブラリー」に、『トリルビー』は「エヴリマンズ・ライブラリー」に改めて収められ、どちらの版でも挿絵はそのまま残っている。これ抜きでは価値が半減するとでもいうように。つまり、これらの作品では、画家の余技にすぎない文章が、挿絵の支えでようやく成立している? とんでもない! 二つの小説の文章はいずれも、入り組んだ構文、ちょっと気取った語彙、品のよい諧謔など、いかにも十九世紀末の産物らしい特徴を備えた、当時の達意の「名文」なのだ。デュモーリアはヘンリ・ジェイムズの友人だったそうだから、たぶん「パンチ」誌の漫画を描きながらも絶えず文学を愛好しつづけ、「文学老年」となって初めて年来の思いを遂げたということなのだろう。このような名文と、お手のものの美しい挿絵が組み合された結果、もたらされたのは一種の飽和状態、もはや抜き差しならぬ美的構造、どこを切っても滲み出てくる華やかさだ。フランス語の単語や文が頻出することも、この華やかさに独特の香りを添えている。(pp.144-45)
それから岩田氏は、(デュ)モーリア家の系譜をたどり、『ピーター・イベットスン』『トリルビー』の内容を紹介するのだが、ジョージの孫娘ダフネが「『レベッカ』よりも前に『デュモーリア家の人々』(一九三七)という実録本を出している」(p.153)ことも、岩田氏のこの文章で初めて知った。
上で一例を挙げたように、『渡り歩き』は、忘れ去られた作家や知られざる傑作に光を当てていて、巻措く能わざる面白みが有る。
まずはそのタイトルが良い。これは、次のような一節に由来する。
全く、本など手元になくても何ら不都合が生まれないことは、私たちの常識だ。同胞の過半数あるいは圧倒的多数が本なんか読みゃしないという事実を、もし忘れかけていたのなら、もういちど頭に叩きこんでおこう。叩きこんだ上で、なおかつ私は本を読む。本から本へと渡り歩く。これは一体どういうことなのか。
説明は、理由は、徐々にかたちづくられるだろう。焦ることはない。(「幻灯機」p.7)
「本から本へと渡り歩く」。なんとまあ、絶妙な表現ではないか。
この表現、そして『渡り歩き』に触発されてエッセイを書いたのが、津野海太郎氏である。
「岩田宏=小笠原豊樹」という事実は、何を隠そう、その津野氏の『百歳までの読書術』(本の雑誌社2015)で知り*1、驚いたのだった。この本に収められた「本から本へ渡り歩く」「老人にしかできない読書」「ロマンチック・トライアングル」の三篇に、岩田宏=小笠原豊樹氏が登場する。
岩田宏は『独裁』や『いやな唄』などの詩人としてのペンネームで、エッセイや小説を書くときもこの名をつかう。
その一方で、かれは東京外国語大学のロシア語学科をでて、英語やフランス語にもつうじていたから、マヤコフスキー詩集やジャック・プレヴェール詩集にはじまり、レイ・ブラッドベリの『火星年代記』やロス・マクドナルドの『ウィチャリー家の女』にいたる、たくさんの翻訳本をだしている。翻訳のさいはペンネームではなく本名の小笠原豊樹を名のった。(「本から本へ渡り歩く」p.164)
「ロマンチック・トライアングル」の末尾では、「追記」として、岩田=小笠原氏が二〇一四年十一月に亡くなったことが記されている。
わたしは当時の新聞記事で、岩田=小笠原氏が亡くなったことを知ってショックを受け、土曜社から刊行中だったペーパーバック版の小笠原訳「マヤコフスキー叢書」(全十五冊)はどうなるのだろう、と思っていたが、一部は旧訳のまま全巻完結したようだ。
このように小笠原訳の小説や詩集は、歿後も形を変えて刊行されつづけている。
今夏には、小笠原訳の『プレヴェール詩集』が岩波文庫に入った。
この文庫版は、ユリイカ(のち河出書房、マガジンハウス)で出た同名詩集所収の全詩篇をベースに、『唄のくさぐさ』(昭森社1958)所収の七篇、シャンソン「枯葉」、そしてマガジンハウス版の小笠原氏による解説と、谷川俊太郎氏の「ほれた弱味―プレヴェールと僕」(初出:「ユリイカ」1959.8)とを加えた決定版である。この元版を愛惜するのは谷川氏だけでなく、たとえば高崎俊夫氏などもそうで、「岩田宏、あるいは小笠原豊樹をめぐる断想」では、「何度、読み返したかしれない」と書いている(当該エッセイの存在はつい最近知ったばかり)。その結びには「私は、今、岩田宏=小笠原豊樹の映画エッセイ集を編んでみたい、というささやかな夢想にふけっている」とあるが、清流出版のあのしゃれた単行本(ここでその一冊、『目的をもたない意志』に触れたことが有る)で、いつの日か、出してくれるのだろうか。
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ところで岩田氏は、「本番の舞台でも、レジアニはこのしぐさがどうしてもうまくいかず、妙にぎごちない動きになってしまう」(「最終便」『渡り歩き』p.189)と書いているように、「ぎごちない」の使用者である。
わたしは言葉の「用例拾い」をひそかな(?)趣味としており(「日本語の用例拾い」御参看)、書き手が「ぎごちない/ぎこちない」のどちらを使うのか、少しばかり気になる。「ぎこちない」派ならメモはしないが、「ぎごちない」派ならばメモをとる。
最近では、神永曉『さらに悩ましい国語辞典』(時事通信社2017)がこの問題について書いていた。
一般的な意識としては、「ぎこちない」を使うという人の方が多いのではないだろうか。だが、1992(平成4)年に刊行された『NHKことばのハンドブック』では、「ぎごちない」が第一の読みなのである。
ただ、第二の読みとして「ぎこちない」も掲げているので、NHKも「ぎこちない」の存在は認めつつも「ぎごちない」が好ましいと考えていたようなのである。その時期の国語辞典はどうかというと、「ぎごちない」派と「ぎこちない」派がまちまちである。
ところが、2005(平成17)年に刊行された『NHKことばのハンドブック』の第2版では「ぎこちない」が第一の読み、「ぎごちない」が第二の読みと逆転させてしまった。わずか十数年の間に「ぎこちない」派が優勢だと判断されたようである。
最近の国語辞典も「ぎこちない」を見出し語として、「ぎごちない」を解説の中で触れるだけのものが増えてきている。(pp.71-72)
さて岩田氏は、「あるインタビューから」のなかで、
著者の名前で買うこと? あります、あります。泡坂妻夫なら全部買う(笑)。(『渡り歩き』p.204)
と書いているのだが、その泡坂も、「ぎごちない」の使用者であった。
動きはぎごちないが、女らしい丸みを美しく感じた。(『湖底のまつり』創元推理文庫1994:228)
熱演には違いないが、緋紗江の目にもどこかぎごちなく、幼かった。(同上p.233)
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この記事をアップした後『渡り歩き』のリンクを辿り、最近よく拝読する二つのブログ、「本はねころんで」と「とり、本屋さんにゆく」とが同書に何度も言及されていたことをはじめて知り、とても嬉しくなりました。
書影をアップすると、こういう愉しみも有りますね。
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