『血の収穫』

小林信彦さんが、本日付の『朝日新聞』に、「〈立っているだけでおかしい〉人―植木等さんを悼む」という追悼文を寄せている。「くり返し書いていることだが、植木さんはナマの舞台がもっとも面白く、次がテレビのバラエティ(「シャボン玉ホリデー」など)、三番目が映画である。映画では、〈立っているだけでおかしい〉植木さんの魅力は伝わってこない。/四年まえに雑誌「論座」三月号で対談をしたのが別れになった。何十年ぶりかで会ったのに、帰りに、私がトイレに行きます、と言うと、おれも行きますよ、とつぶやいて、ついてきた。植木さんの〈おかしさ〉は消えていなかった」。小林信彦『喜劇人に花束を』(新潮文庫,1996)を部分再読。上の「くり返し書いていること」は、この本のなかでも繰り返される(p.62)。「諷刺と逆説を失った植木節はつまらなくなったが、映画がつまらなくなるのはもっと早かった」(p.90)。「一九九〇年秋に、ほかならぬ植木等が植木節のメドレーをうたう「スーダラ伝説」の企画が発表されたときは、コロンブスの卵だ、と思った」(p.114)。
◆さきおとといから昨日にかけて、ダシール・ハメット『血の収穫』を河野一郎訳で再読したのだが(嶋中文庫←中公文庫)、これは一気に読んでこそおもしろい。この小説をはじめて読んだのは、五年くらい前*1、世評の高い田中西二郎訳(創元推理文庫*2によってであったが、一週間ほど途中休憩をはさんだせいもあって、次から次へと出て来る人名に混乱してしまった(特に後半)。
たとえばマックス・ターラーが、ダイナ・ブランドには「マックス」と呼ばれ、ルー・ヤードなどの破落戸には「ウィスパー」と呼ばれ、エリヒュー・ウィルソンには「ターラー」と呼ばれ……と、まあこのくらいならまだしもついてゆけるのだが、リーノ・スターキーが実力者として浮上する後半部に至ると、ジェイク、ウェーレン、コリングス、アルベリ、ドーンなど、いわゆる「チョイ役」(アルベリやドーンはまだよく出て来るほうだけど)が次々に登場したり退場したりして、混乱に拍車をかけ、読解が難渋し、巻頭の「登場人物一覧」に戻ることしばしばであった。それでも、おもしろく読めたのは事実であって、ずっと再読の機会をうかがっていたのだった。そこにちょうど、「コンチネンタル・オプ」シリーズだけではなく、サム・スペイドものの短篇も収録した『血の収穫』が嶋中文庫から復刊され、しかも同書を安い値で入手することが出来たので、これも良い機会だからと読んでみたのだった。今回は一気に読んだので、人名によって混乱をきたすことはほとんどなかった。それに、これが大恐慌の「1929年」に発表された作品*3であることを意識しながら読む余裕もすこしあったので、ハメット自身の社会的なスタンス、『僧正殺人事件』を念頭においた表現を見つけたりしておもしろく読んだのだった。
また、読んでいるうちに、小鷹信光氏の書いた文章――ポイズンヴィルについてのもの――をふと思い出したのだが、それをどこで読んだのかは思い出せずにいた。あるいはハヤカワミステリ文庫所収『赤い収穫』の「訳者あとがき」のようなものだったのかもしれないが、しかしこの『赤い収穫』は未所持だし、そもそも立読みをしたおぼえさえない。
そのもどかしさが解消されたのは、退屈男さんのブログを拝読したからである。最近の記事で退屈男さんが内容紹介をされていた、小森収編『ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18』(宝島社新書)にその文章が収めてあったのである。
小鷹信光「ポイズンヴィルの夏」というのがそれ。初出はハヤカワミステリ文庫だそうだから、見当ちがいではなかったようだ。この文章は、ビュートとポイズンヴィルとの類似性を説くものだが、題名から察しがつくように、もとより「ポイズンヴィル」の訳語の問題を論う趣旨のものではない。しかし、ジョー・ゴアズと著者とのあいだで交わされる会話が非常におもしろく、(現在までずっと果たされてこなかった)本格的な映画化を切に希望するという印象的なシーンでこの文章はおわる。
『血の収穫』(『赤い収穫』)は、一時期(一九六〇年代初頭)三種類の訳が併存していたとかで、上に挙げたもののほかにも砧一郎訳のポケミス版(小鷹氏によれば一九五三年刊のこれが初訳なのだそうだ)、能島武文訳の新潮文庫版(田中西二郎訳も一時新潮文庫に入っていたと思う)、田中小実昌訳の講談社文庫版があると聞くが、すくなくとももうひとつ、田中小実昌訳くらいは制覇しておきたいものだ*4

*1:黒澤明の『用心棒』が下敷きにしている、という文脈上でこの作品を知ったはずである。

*2:たとえば小林信彦氏も、「『血の収穫』は、名訳(田中西二郎訳)として定評のあるもの。一読をおすすめする」『地獄の読書録』(ちくま文庫1989,p.60)と、1959年8月(「みすてり・がいど」初出)の時点でこう書いているのである。

*3:『血の収穫』が、ジイドに賞讃されたというのは割と知られた話だが、ハーバート・アズベリーも好意的な書評を書いていたこと(小鷹信光『私のハードボイルド――固茹で玉子の戦後史』早川書房)は最近まで知らなかった。

*4:ちなみに『ミステリ=18』には、池上冬樹「”清水チャンドラー”の弊害について」という文章も収めてあり、そこで池上氏は、「(チャンドラーの作品が―引用者)もし清水(俊二―引用者)訳ではなく、田中小実昌の翻訳で全作訳されたら、ハードボイルドはもっと違った側面で語られたのではないか」(p.197)、と述べている。わたしは、『長いお別れ』を清水訳のハヤカワ文庫版で読んだクチである。ところで最近の村上春樹訳『ロング・グッドバイ』、ハードボイルド作家や研究家はどう評価しているのだろうか。