悪魔ちゃん事件

阿辻哲次『「名前」の漢字学』(青春新書)を読んでいたら、「悪魔ちゃん裁判」の話が出てきた。ご存じの方も多いであろうが、これはどういう事件なのかというと……。

平成五年八月のこと、ある町の市役所に名を「悪魔」と記した出生届が提出された。担当の戸籍課係官はこの名前について特に疑義を示したり、再考をうながすこともなく受理したのだが、翌日に戸籍課の中で名前に関する疑問が出され、戸籍課の上級官庁である法務局へ受理の可否について問いあわせが出された。法務局は審議の結果、市長の名を押捺しないようにと指示し、それをうけて市はいったん受理した出生届け(ママ)を「名未定」として取り扱うこととした。
これに対して自分の子供を「悪魔」と命名した夫婦は、いったん受理された出生届に記載された名を「未定」とするのは不当であって、「悪」も「魔」も人名に使える漢字の範囲内に入っているから問題はなく、さらにその名前は一度耳にすれば二度と忘れないほど強いインパクトをもつものだから、むしろ子供に対して良い影響をあたえるものであると主張して、家庭裁判所に対し、「悪魔」という名を戸籍に記載し、戸籍の受理手続を完成するよう求める訴えをおこした。戸籍法第一一八条によって、出生届が不受理処分となった時には家庭裁判所不服申立てができることになっている。「悪魔」という名前を考えた親は、その規定を利用したわけだ。
これに対して市側は、「悪魔」という名は親の命名権を濫用している点で違法であり、両親からの申立ては却下されるべきであるとして法廷で争った。
このことが新聞やテレビで報じられると世間で大きな話題となったのだが、この事案に対して裁判所は、子供に対する父母の命名権は原則として自由に行使できるが、しかし例外として、親権(命名権)の濫用にあたる場合や、社会通念に照らして一般常識からはなはだしく逸脱し、明らかに名として不適当と見られる時、または名のもつ機能をいちじるしく損なう場合には、戸籍事務管掌者(当該市町村長)が審査権を発動し、名前の受理を拒否することが許される、と判断した。「悪魔」という名前をつけられた子供は、その名前のせいで将来いじめの対象となり、さらにはその子供が社会的不適応を引き起こす可能性も高いと容易に想像されるので、子供の幸福を願う名前とは考えられず、その点で親が命名権を濫用している、と裁判所は考えたのである。
家裁の判断をうけて父親は改名に同意したが、こんどは「阿久魔」という名をつけたいと市側に打診した。両親はどうしても「あくま」にこだわったようだが、しかしこの名も「即座に悪魔を連想される」と再考をうながされ、両親は最終的に「亜駆*1」と命名、市はようやくこれを受理した。(阿辻前掲書,p.74-77)

その阿辻氏は、「私は断固として司法の判断を支持する」(p.77)と書いている。
また、たとえば斎賀秀夫氏は、「断固支持する」とは言わないまでも、この裁判についてこう結論している。「人名というものは、個人や親の私有物であるだけでなく、社会の共有物でもあるという側面を考えれば、命名にあたってある程度の制限が加えられることは、社会生活を円滑に行ううえで、やむをえないことである」(「名前に付けてはいけない字は?」―『月刊しにか』2000年6月号,p.61)。
以前(四年くらい前)この「事件」が気になっていて、それに言及した記事を見つけるたびにメモをとっていたのだが、メモが行方不明なので、とりあえず覚えているかぎり書き記しておこうと思う。
紀田順一郎『名前の日本史』(文春新書)によれば、その両親は不服申立ての際に、「誰からも興味を持たれ、普通以上に多くの人々と接してもらえることが、子の利益になる」とか「物おじしない野心家になって欲しい」とかいった理由も挙げたそうである。しかし、その後改名に同意したのは、「最終審判が出るまで、子どもが戸籍上無名のままになる」「家族の精神的疲労が限界に近づいている」「これだけの騒動になり、自分たちの言い分がわかってもらえた」という理由によるのだという。ところが、「その後離婚した母親により、再び改名された」(p.164)というのだから、まあ勝手なものである。
丹羽基二『漢字の民俗誌』(大修館書店あじあブックス)は、この両親(父親の実名を明かしている)にやや同情的で、「命名の習俗」から説明しようとしている(p.176-79)。しかし、両親が挙げた理由からして、彼らが「命名の習俗」を意識していたとは言えまい。また丹羽氏は、「悪」「魔」は本来悪い意をもつ字ではない、というようなことを書いているが、「どこの国でも命名には宗教的なものに禁忌(タブー)があり、それは法的規制を超えた文化的慣習として存在している」(紀田前掲書,p.167)ということにも注意すべきであろう。だからこそ、一般的には「悪魔」が避けられるのではないか、と見ることもできよう。つまり「久曾(=糞)」や「捨」とはまた次元の違う話だ、と考えることも可能なのである。いったい、「本来の意味」を意識する人がどれだけあるというのだろうか。さらに丹羽氏は、子供がもし不満を抱けば、「選挙権を本人が得たときに、改名の可能性を認めている」わけで、「法律は、そのためにもある」(p.178)と書いている。しかしこれも原則は禁止のはずで、名前に制限が加えられるのも改名できるのも「法」のおかげである、という妙なことになってしまう。
最後に、井上ひさし『ニホン語日記2』(文春文庫)はこう書いている。井上氏は、法が介入することをナンセンスだと見る立場である。

自由は、不幸になる自由さえも含んでいるのだ。自由にはいいことばかりあるわけではなく、その自由のせいで不幸になるかもしれない。だからこそ自由の二文字は重いのだ。したがってもしも悪魔くんがその名前のせいで不幸になるかもしれないとしても、それを親が選んだのであればそのまま放置しておくのが真の自由社会というものである。やがて成長した悪魔くんが、「よくもこんな名前をつけてくれたな、死ね」と親を飛び蹴りなんかで襲うかもしれないが、そのときはあえて蹴られでもなんでもしてやろうと親が決心しているなら、傍らの者がなにを言う必要があるだろう。さらに、悪魔くんが親を蹴るかわりに改名を望むなら、それがすぐ可能になるような措置を法務大臣はとるべきである。(p.182-83)

最近では、井上薫『司法のしゃべりすぎ』(新潮新書)がこの裁判について何か書いたそうだが、未見である。また、板垣英憲『姓名と日本人―「悪魔ちゃん」の問いかけ』(DHC)という本があるが、ちょっと読む気にはなれないでいる。
【追記】(2005.9.24)
石川九楊『書字ノススメ』(新潮文庫)の「命名(ネーミング)」(p.97-100)にも、「悪魔ちゃん」への言及があったことを思い出した。例の如く「白川文字学」を参照し、「命名」の「本義」をひととおり説いたうえで、「命名や発語は、軽々しい営為ではない」(p.99)と書いている。

*1:分解すると、「亜区馬(あくま)」となる。あくまで「あくま」にこだわったようである。