隠れて読む本

◆『大阪春秋』秋号の「角山榮博士が語る 立川文庫あれこれ」に、

私が旧制の大阪高校に在学していたとき、あの有名な桑原武夫先生がフランス語の授業中、脱線して立川文庫の面白さ、楽しさをいろいろ話すことがあったんです。(p.56)

とあって、大正初期から昭和初期にかけて少年時代を過ごした人(戦中派)の回想には、そういえば必ずといっていいほど「立川文庫」が出て来るなと思った。しかも、「親に隠れて読んだ」という註釈つきで。最近では、松田道雄がそういうことを書いているのを読んだはずだが、肝心の本がみつからない。
清水幾太郎『本はどう読むか』(講談社現代新書)の「立川文庫体験」も、印象的であった。清水は、

私の両親はインテリではなかった。私が本を読んでいれば、勉強しているものと思っていた。上品でもなく、芸術的でもなく、科学的でもない「立川文庫」を私が読んでいても、両親は、私が勉強しているものと思っていた。(p.11)

という家庭に育ったのだとかで、「両親にお礼を言いたい」、と書いている。だから、「隠れて読む」必要もなかったわけだ。以下続く「『立川文庫』を卒業した日」(pp.14-16)には、ちょっと感動してしまう。
これが、もう少し下の世代になると『少年倶楽部』を読み耽る少年が多くなり、さらに時代下って昭和中期ごろになると、「乱歩作品を隠れて読んだ」少年が多くなるようだ。私もそのくちで、別に隠れる必要もないのに、『化人幻戯』『陰獣』などを隠れて読んでいた。何となく後ろめたい感じがしたものである。