緑雨警語

非常に気になるニュース
雨がふります雨がふる 古書見にゆきたし暇はなし(あ、金もか)
大阪で「天神さんの古本まつり」がやっているが、行けない。発表が控えていると、たとえ時間があったとしても、どうもそういう気にはなれないのです。
衛星劇場では、「大雷蔵まつり」がやっている。これも録画するばかりで、いっこうに観られない。一週間ほどまえ、時代劇専門チャンネルで放送された『薄桜記』(1959)を録画し忘れたのだが、あれだけの傑作なのだから「大雷蔵まつり」でも放映されるだろう、それまで待とう、と思っていた。しかしラインナップには入っていないのだった。残念。しようがない、『蔵の中』(1981)も観たい作品だからこちらを録画するとしよう。
「剣をとっては 日本一に♪」……そういえば、今日チャンネルNECOは『赤胴鈴之助』シリーズを一挙放送するのだ。どうして、こんな日に限って、観たい番組が集中しているのであろうか。
しかし、「こんな日」でも、相変らず読書だけはやめられない。見坊豪紀『ことばの海をゆく』(朝日選書)、斎藤緑雨 中野三敏編『緑雨警語』(冨山房百科文庫)、源氏鶏太『私にはかまわないで』(集英社文庫)、谷沢永一『紙つぶて(全)』(文春文庫)などを読む。再読のものもあるが、忘れていたことがたくさん。
『緑雨警語』が読みたくなったのは、中野翠『ムテッポー文学館』(文春文庫)の評を読んだから。「八百四十一編を通読して、まず感じることは、緑雨のしたたかな倫理性である。/善、悪、偽善、偽悪、嘘、誠、志、節操、狂、愚、偉人、凡人……など案外にと言うべきかそれともやっぱりと言うべきか、倫理的なテーマにかんする考察が多い。背筋をスッとのばした古武士のように純な倫理性を持った人間が、世間に流布しているあまりにもフラットな倫理性(「説教」「人生訓」「制度的物語」)にいらだって、あの手この手で、自分の陣地を確保しようとしているように見える。天に恥じない、自分の居場所を探しているように見える」(p.62)。
○目的は巓(いたゞき)に在れども、山に遊ぶの快は、幾曲折せる坂路(はんろ)を攀(よ)づるに在り。登れる者は下らざる可らず。(『眼前口頭』)
○黒かる可からず、白かる可からず、人の生ける要訣(えうけつ)は、鼠色なるに在り。之を天にかたどりては、半(なかば)晴れ、半陰(くも)れる雲の如くなるべし。之を地になぞらへては、半乾き、半湿れる泥(つち)の如くなるべし。交錯せる、掩映(えんえい)せる、猶(なほ)黒白(こくびやく)の辨(わか)たるべし、全く混化(こんくわ)せよ、融合せよ。所謂たんまりしたる儲口(まうけぐち)は、多く鼠色の産む所たり。(『巌下電』)
○計画の十の九は齟齬するものなり。齟齬せざればまことの計画にあらず。(『長者短者』)
○学舎(がくしや)の成績は社会の成績にあらず、重きを試験点に置かずと雖も、学舎の人は社会の人にあらず、重きを試験点に置かざる可からず。学生百般(ひやくぱん)の行為の帰着は、この背反せる如き二個の心得に在りとす。(『半文銭』)
うーむ、面白い。思わず笑ってしまったのが、「あゝわれ何の欠点かあらん。強て求めば富豪岩崎を、伯父さんに持たざることのみ」(p.228)。