モノクロームで映える仲代達矢の顔

他大学の公開授業(土曜日)の聴講を前から望んでいて、応募したら当ったのだが、その日は研究会もあり、どちらに出席すべきかと思い悩んでいる。研究会は任意参加なのだが、拝聴したい発表ばかりなのだ。
今日は大学には行かず。読書、論文読み、本の整理など。
出久根達郎『猫の縁談』(中公文庫)、仲正昌樹『なぜ「話」は通じないのか』(晶文社)、中丸美繪『杉村春子』(文春文庫)、竹越与三郎 西田毅校注『新日本史(上)』(岩波文庫)など読む。

…大学生活の四年間、「単なる思い付き」と「知的に練り上げられた言説」の区別を知らず、バカなことを言っても叱られることなく育った学生が、そのまま文系の大学院生になって研究者を目指すというケースがやたらに増えているのである(中略)。「思いつきのストーリー」を論理的に練り上げもせずに語ったら、叱られる」という当たり前のことを学習しないまま四年間以上を過ごしてしまった院生が、急に「叱られ」たせいで、その事実を受け入れずに、否認するようになると、後が大変だ。
仲正昌樹『なぜ「話」は通じないのか―コミュニケーションの不自由論』晶文社,p.94-5)

昨日の飲み会(一次会)での、某先生の全体講評を思い出した。いや、内容は全然違うのだけれども。私自身、自分にしか通用しない「思いつきのストーリー」を語っていないだろうか、と懼れている。
切腹 [DVD]
また朝に、映画を観た。小林正樹切腹』(1962,松竹)。小林正樹が手がけた初めての時代劇。原作は滝口康彦『異聞浪人記』。滝口は、「真田増誉という人物の口述を筆記した『明良洪範』という書物の、わずか十数行の記述」(村井淳志『脚本家・橋本忍の世界』集英社新書,p.110)にヒントを得て、これを膨らませて改作したのだそうだ。橋本忍が脚本を担当している。確かに、これは大傑作。北大路欣也がこの作品に大感動して、卒業論文の主テーマで取上げたというのも肯ける。小林正樹は「静」と「動」をたくみに使い分ける監督だ、と思う。かつて『怪談』(1965)を観たときにもそう思った。
前半(というか開始後一時間半くらいまで)が「静」だとすれば、後半は「動」だ。激情にかられた津雲半四郎(仲代達矢)と、冷徹な斎藤勘解由(三國連太郎)との対決が次第に盛り上がっていくので、観ている者をまったく飽きさせない。具体的な内容については、村井前掲書(p.105-115)などをご覧いただくことにして、ここでは、演出上いたく気に入った点についてメモしておきたい。
まずは、回想シーン(ナラタージュ)の見事さ。村井前掲書によれば、多くのシナリオライターが参考にしたそうだが宜なるかな。思考が中断されず、ごくごく自然に回想シーンへと移行するのである。
そして、ラストの悲壮なまでの殺陣。「殺陣」はかくあるべし。泥くさい演出なのだが、そこがリアルで素晴らしい。この殺陣について仲代達矢は、川本三郎との対談で次のように語っている。「『切腹』では殺陣にリアルな迫力、重さを出したい、と小林監督が言われて、居合の師範の方が殺陣指導に就いてくれました。道場に通い、稽古をつけていただき、刀の重さはリアルに表現出来たと思います」(川本三郎『時代劇ここにあり』平凡社,p.244)。手負いの半四郎が、刀を引きずって立ち上がろうとするシーンにはそれがよく表れていたと思う。
また、回想形式で語られる半四郎(仲代)と沢潟彦九郎(丹波哲郎)との対決シーンも、ぞくぞくするほど格好良い。川本三郎氏は、この二人の対決シーンについて、「ちょうど黒澤明監督の処女作『姿三四郎』(一九四三年)の、藤田進演じる姿三四郎月形龍之介演じる檜垣源之助の、右京ヶ原における対決を思わせる迫力」(川本前掲書,p.63)と書いている。
その戦いを回想する半四郎の放つ台詞がまた、素晴らしいのだ。

しかし、刀は斬るだけではなく、突くこと、いや、叩き折ることさえできる。
実践の経験を得ぬ剣法、所詮は畳の上の水練!

結末は、『悪い奴ほどよく眠る』的というか、『県警対組織暴力』的というか、とにかく後味の悪いものなのだけれども、だからといってこれを「反権力映画の白眉」と評することには違和感をおぼえる。まあそういう要素もあることは認めるが、私は、あくまで「時代劇映画の傑作」、と呼びたい。