森一生『薄桜記』を観た

丹下典膳(市川雷蔵)“命助かって、これからまた、殺しにか、殺されにか、出向いて行く――修羅妄執の世界じゃのう。……生き死にの境を彷徨うていた幾月か……この湯治場に心が残るな……”(森一生薄桜記』1959より)

 市川雷蔵が好きだ。「眠狂四郎」シリーズは何れも(少なくとも)三回は鑑賞しているし、「濡れ髪」「陸軍中野学校」「忍びの者」等のシリーズも通して観た。この夏には森一生『ある殺し屋』(1967大映)を、秋には田中徳三眠狂四郎 女地獄』(1968大映京都)*1を観なおして、“雷さま”の恰好良さに惚れ直したものだった。
 さてこのクリスマスに、ようやく森一生薄桜記』(1959大映)を観ることができた。これを観ていなければ、雷蔵ファンであることを公言するのはちと恥ずかしい。それだから、これまで未見だった私は、ずっと罪悪感というか後ろ暗い気持を抱いていたものだった。
 誰にすすめられるわけでもないのに、「この作品だけは絶対に観なければいけない」、という強迫観念に苛まれるようになったのは、確か、川本三郎『時代劇ここにあり』(平凡社)を読んでからのことで、八年にしてようやく、ということになる。その八年間、録画し損ねたり、タイミングが合わなかったり(=東寺近くの雷蔵祭に行けなかったり)で、なかなか観る機会に恵まれずにいたのだが、最近BSで放送されていたの(録画)をやっと観られたのだった。
 監督の森は、『ある殺し屋』とこの『薄桜記』とが自身の代表作と語っていたというが(桂千穂『カルトムービー 本当に面白い 日本映画1945⇒1980』メディアックス2013:148)、それもむべなるかな、やはりこの作品を観ていなければ、雷蔵の時代劇映画作品について軽々に語ることは出来ないな、と確かに感じた。雷蔵出演の「忠臣蔵もの」映画としては、ほかに、浅野内匠頭を演じた渡辺邦男忠臣蔵』(1958大映)と、やくざ映画に置き換えたパロディ作品・渡辺邦男『長脇差(ながどす)忠臣蔵』(1962大映)とがあって、本作はその二つに挟まれた三本めの作品である。
 『長脇差忠臣蔵』で勝新太郎雷蔵の引き立て役になっていたのと同様(以前、このブログで少しだけ書いた)、この『薄桜記』でも、勝は添え物的な存在で――たとえば百田尚樹『影法師』よろしく、主人公の回想場面に始まりながら、その回想の対象こそが実は隠れた主役=ヒーロー*2――、という構成になっている。しかも、「忠臣蔵」そのものについて描くのではなく、いわゆる「外伝」という形になっている。昨年には、NHK−BSで連続ドラマとしてもリメイクされたから(山本耕史主演。それにあわせて五味康祐の原作も新潮文庫で復刊された)、ご存じの向きもあるかとおもう。

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 クライマックスで、雷蔵の助太刀(もはや手後れなのだが)をする勝はやはり堂に入っておりさすがに手慣れたもの、しかし一方、雷蔵の橋の上での立ち回りは、線が細く、どうしても迫力不足の感が否めない。だが、それはあくまで「前置き」である。その凄まじさに圧倒されるのは、隻腕となった雷蔵が、左脚に弾創を負ってさらに隻脚となり、雪の中をまろがりながら、命を懸けて仇敵を迎え撃つ――という、その異様な殺陣である。異様すぎるがゆえに、それはまさに真に迫るというか、有無を言わせぬ迫力がある。
 この大殺陣について、小松宰氏は以下の如く述べている。

 『薄桜記』の立ち回りが、観る者の目に迫真性を持って感じられるのは、それが他に置き換えのきかない強烈な劇的必然を伴っているからにほかならない。片手片足の、つまりは半身不随の剣士が大勢の屈強の男たちと絶望的な斬り合いをするという、およそありえぬ劇的必然性によって、初めて『薄桜記』の立ち回りは、ぎりぎりのリアリティーを持ち得るのである。むろんそれはリアリズムとしてのリアリティーではない。妻を凌辱した男たちに恨みの一太刀を浴びせるという、哀切きわまりないシチュエーションが奇跡的に生んだ、それこそ薄皮一枚の差のリアリティーである。
(小松宰『剣光一閃―戦後時代劇映画の輝き』森話社2013:253)

 そもそも雷蔵が劇中で隻腕になる*3のは、「妻を凌辱」されたことと関係があるのだが、この展開の「リアルさ」という部分に、谷川建司氏は「残酷時代劇」の先蹤を見ている。

 主人公の妻が卑怯な五人組に薬を飲まされた上、強姦されるという設定も、その事実に直面して「知心流道場の連中に付けられた消し難い汚辱は、そちの罪ではないから咎めはせぬ。咎めはせんが、そちの身体を俺は許すことは出来んのだ。理屈で、頭で許していてわしの身体が許そうとはせんのだ」と穢された妻の身体を受け入れられない主人公の心情も、斬られた血まみれの腕がポトリと落ちる描写も、かつてなかったほどのリアルでドギツイ表現と言えるだろう。――「忠臣蔵」映画としてだけではなく、時代劇としても。
 こういった風潮はやがて、黒澤明の『用心棒』(一九六一年)と『椿三十郎』(一九六二年)を経て松竹の『切腹』(一九六二年)、東映の『武士道残酷物語』(一九六三年)などのいわゆる「残酷時代劇」へと繋がっていくことになり、珍しいものではなくなるのだが、本作と同時期の公開であった東映の『血槍無双』が、そのタイトルの印象とは裏腹に、杉野十平次の身体を清いままに守ってやるべく身を引くお蘭の行動に象徴されるように、肉欲というものを悪と捉えて性表現の上で遮断していたのと比べると、その差異が際立って見える。(谷川建司『戦後「忠臣蔵」映画の全貌』集英社2013:144-45)

 上で引かれた雷蔵の台詞は、2013.12.14付(この日付に注目)「朝日新聞」別刷「be」の「映画の旅人」にも引かれている。そこではさらに、雷蔵の妻・千春を演じた女優の回想も紹介されている。せっかくなので引用しておこう。

 千春を演じた眞城千都世さん(76)はこれがデビュー作。「想像していた以上にセリフも多い大役で無我夢中でした」と振り返る。松竹歌劇団で活躍する歌手・ダンサーだった22歳の新人女優には、大スターだった雷蔵は近寄りがたい存在にみえた。手鏡の持ち方がおかしいと、ぴしゃり叱られたことを覚えている。でも「感情の深いところでつかまえているセリフ回しや歌舞伎で鍛えられた口跡の美しさ、どれも素晴らしかった」と語る。

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時代劇ここにあり

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剣光一閃―戦後時代劇映画の輝き

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戦後「忠臣蔵」映画の全貌

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*1:「女地獄」は、タイトルどおり「ハニー・トラップ」があちこちに仕掛けられている作品なのだが、そんなものは狂四郎は端からお見通しで、ここで見ものとなるのは、雷蔵伊藤雄之助田村高廣という剣士たちの三者三様の身の処し方なのである(雄之助が、意外と―失礼!―恰好良い)。

*2:吉良邸へと向かう赤穂浪士の一行、そのなかに、(オープニング・クレジットがそこに重なる形で)堀部安兵衛(中山安兵衛)=勝の顔が見える。物語は、堀部がまだ中山と名乗っていたころの回想場面に始まる。

*3:冒頭に引いた台詞は、その傷養生のため米沢の湯治場に出向いていた雷蔵が、駕籠にてそろそろ発とうかという場面で発せられるものである。