雷蔵版・弁天小僧

 先日、伊藤大輔『弁天小僧』(1958,大映京都)を観た。脚本もカメラワークもすこぶるよい。脚本は八尋不二で、撮影は宮川一夫。黙阿弥の「青砥稿花紅彩画(あおとぞうし はなのにしきえ)」(「白浪五人男」)を基にした作品である。
 冒頭、鯉沼伊織=河津清三郎らの“悪人旗本”連中が、使僧を偽って、ある御隠居から金を巻き上げにかかるが、市川雷蔵に正体を見破られる*1
 雷蔵は声音も変え、「宮家の小姓」とよぶに相応しい見事な振る舞いをみせるけれども、これが実はとんだ小悪党。その正体は、変幻自在の弁天小僧菊之助であった。正体を現した菊之助は、強請りの材料になったおはん=青山京子を手籠めにしようと襲い掛かる。
 しかしそのとき菊之助は、おはんが咄嗟にあげた「お母さま!」の叫び声にハッとする。そして、おはんを強姦することを思い止まる。このくだりが重要な伏線となる(おはんの方は、菊之助が根からの悪人でないことを知り、かれに対して次第に恋心を抱くようになる)。
 小道具にも注目したい。この作品ではまず“お守り袋”が、出生の秘密を知る道具として巧く使われるが、さらに注目すべきは、おはんの赤い塗り櫛である。この櫛は、お吉=阿井美千子が菊之助に焼き餅をやくきっかけとなったり、(おはんと菊之助とが一度きりの口づけを交わした後)菊之助が懐中からとり出して投げ返すことで、しばしの別れを暗示したりする。さらにラストでは、割れたこの櫛のカットが、おはんの破れた恋心、あるいは菊之助の絶望を象徴する。
 すなわち、櫛が「女性の分身」となっている。同じく櫛が女性のメタファーになっている名作としては、たとえば加藤泰『沓掛時次郎 遊侠一匹』(1966,東映京都)がある*2。劇中でおきぬ=池内淳子は、つげの櫛を半分に折って覚悟のほどを示し、夫の三蔵=東千代之介に託す。のちには、病床にあるおきぬが、「その櫛は、あたしの心のつもりでした…」と述べるくだりもあって、櫛の担う役割の重要さがおのずと知られる。
 櫛以外の小道具が、女性の分身になる、あるいは女性の心情を代辯する、ということも映画ではよくあって、たとえば簪――五所平之助『マダムと女房』(1931,松竹蒲田)滝澤英輔『東海道は日本晴』(1937,P.C.L)*3など――や、鏡――藤武市『赤い夕陽の渡り鳥』(1960,日活)*4など――がある。
 つい話が逸れてしまったが、『弁天小僧』の一番の見せ場として特筆すべきなのは、やはり「劇中劇」(のちに再び登場する浜松屋の幸兵衛=香川良介が、劇中劇で初めて顔を見せるという趣向も面白い)であろう。それは以下のような形で挿入される。
 まず鯉沼は、隠居を控えた伯父・松平左近持監=中村鴈治郎の助言を容れて、元服前の息子を浜松屋幸兵衛のひとつぶだね・お鈴=近藤美恵子と婚姻させることを画策。それを聞きつけた、「三尺たけえ木の上へ」*5が合言葉の菊之助一味、「お江戸を高飛びの行きがけの駄賃に」お鈴の持参金(三千両とも五千両ともいわれる)を狙う。そして狂言の筋立てを菊之助が披露する。それがそのまま劇中劇となる。
 劇中劇で女形雷蔵を見られるのは、かれのファンとしては嬉しいが、そのくだりで、日本左衛門こと浜島庄兵衛=黒川弥太郎に、女に扮しているのを見抜かれた(=庄兵衛ももちろんグル)雷蔵、「知らざァ言って聞かせやしょう」の名台詞。この口跡がまた見事なこと。
 もくろみどおり(?)、浜松屋に乗り込んだ「五人男」のうち――庄兵衛、赤星十三郎=島田竜三、忠信利平=舟木洋一の三人。さて幸兵衛を強請ろうとしたが、そこで幸兵衛が、娘の輿入れを快く思っていないという本音を聞き出す。庄兵衛らは義憤にかられ、遠山左衛門尉(金四郎)=勝新太郎の包囲網が身近に迫っていることを覚悟のうえ、浜松屋を救おうという意見で一致する。一方、鯉沼方は体面を気にして、それまで行動を共にしてきた三池要人=小堀明男、横地帯刀=伊沢一郎をめでたい宴席に呼ぶことを拒否する(不貞腐れる小堀が面白い)。この小さな出来事が結局、ラストの大捕物を演出することになるのだから、つくづく脚本の巧妙さに感心した。
 ラストを目前に、もうひとつの見せ場がやってくる。お鈴のふりをして、松平家に乗り込むお吉。駕籠で運ばれる道すがらは角隠しで顔を隠しているため、初めはうまく誤魔化している。しかし鯉沼は、かの女の三々九度での酒の飲みっぷりを見て、お鈴でないことに気づき、サッと顔色を変える。つづいて屏風の陰から姿を現す菊之助。そこで、金四郎と菊之助との二人、すなわち勝新雷蔵とが対峙する。ファンとしては、ラストを目前にしてのこの「カツライス」の顔合わせに感動する。この展開は後にも、渡辺邦男『長脇差(ながどす)忠臣蔵』(1962,大映京都)の堀ノ内喜三郎=雷蔵、大前田英五郎=勝新、という役柄で反復される。ここでの大前田は、映画版『忠臣蔵』の垣見五郎兵衛、立花左近役に相当している。つまり、勝新は、いずれにおいても条理をわきまえた“裁定者”を演じているというわけ。
 だがしかし、『弁天小僧』で金四郎に扮する勝新は、(「彫り物」をしていることをほのめかしこそすれ)例の「花吹雪」を見せない。残念だが、これはあるいは、時代考証にもとづく演出なのかも知れない。
 そこから物語は、怒濤のラストへと流れ込むのだが、その大捕物の場面はやはりワイドスクリーンで観るべきもので、わたしのように小さなテレビ画面で観るのは、「邪道」というものだろう。

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*1:見破られた鯉沼らは、雷蔵が去ったのち、開き直って金を分捕る。ここで、権勢を擅にする鯉沼の威力がいかほどのものかということが鑑賞者に伝わる仕組み。これも脚本の妙であろう。

*2:この作品には、特に印象に残る場面がある。それは、はらはら舞い落ちる雪のカットから幕が上がるようにしてゆっくり現れる、沓掛時次郎=中村錦之助と、お槇=中村芳子とが対坐する場面である(正確には対坐ではなく、時次郎が横向きに、お槇が正面を向いて坐る)。時次郎はお槇に、自分のことを友人に仮託して語るのだが、これが延々4分ほどの長きに亙るワンシーンワンカットなのだ。この方法――詰まり、自分の話をあたかも友人の話であるかのように語る方法――は、後にも澤井信一郎Wの悲劇』(1984角川春樹事務所)で、世良公則薬師丸ひろ子にそうするなど(こちらも相当な長回しであったと記憶する)、男女間の語りにしばしば取り入れられているが、一体どれくらいまで遡れるのだろうか。

*3:脚本は山中貞雄

*4:白木マリが、「母さんが言ってたわ。鏡は女の魂だって。私は母さんの言いつけにも背いて東京に出たわ。そこで…そこで、私は自分の魂を失ってしまったのよ」と言って、赤いコンパクトを浩=村瀬辰也の目の前に置いて出ていく場面がある。

*5:一種の諦観だけれども、この表現が、菊之助とおはんの生きる世界の違いを表してもいる。