復活

新たなパソコンで、なんとか復活。
だが、購書録(三年分)や、学部時代のレジュメやレポートが全て失われてしまったというのが悲しい。まあ致命的な損失はなかったのだが、昨日は、フロッピー等への上書き保存を忘れていたファイルがたくさんあることに気づき、やや落ち込んだ。今日は、すこし元気になった。
このところ、トラブル続きなので(パソコンの故障もそのひとつ)、ストレス発散のために、やたらと本屋通いをしている。しかも、最近はほとんど映画を観ていない(というか観られない)ので、読書の時間が増える。いきおい、本を買うことになるわけだ。
昨日は、島泰三安田講堂1968-1969』(中公新書)や竹内洋丸山眞男の時代』(中公新書)を買った。今日は某先生が、野口英司編著『インターネット図書館 青空文庫』(はる書房)を安い値段で譲って下さったし、某新刊書店では、鹿島茂『甦る 昭和脇役名画館』(講談社)を購った。
甦る昭和脇役名画館
これは、鹿島氏百冊目の著作らしい。帯にそうある。函入で、装釘がまた素晴らしい。茺田研吾『脇役本』(右文書院)につづく、素晴らしい「脇役」本*1の登場である。書名に、「脇役」と付いただけで、つい買ってしまうのだが、期待した以上の内容であった。
なにしろ、巻頭からいきなり「荒木一郎」なのである。私はまだ、彼の出演作を一本しか観ていない(『マノン』)。殿山泰司の出演作として有名な『温泉こんにゃく芸者』も未見である。まして、鹿島氏が本書で取り上げている作品群は未見である。
以下、ジェリー藤尾岸田森佐々木孝丸伊藤雄之助天知茂、吉澤健(!)、三原葉子(!)、川地民夫(!!)、芹明香(!!!)、渡瀬恒彦成田三樹夫とつづく。この取り合わせがいかに「異様」なものであるかは、邦画をあまりご覧にならない方でもお分かりいただけるかと思う。「今さら」三原葉子、しかも四十一歳当時の彼女を〈あえて〉取り上げようとする脇役論が、かつてあったろうか。

プログラム・ピクチャーにおいては、主役は代われど、脇役陣は常に同じである。一例をあげると、悪親分役の脇役は、多少のバリエーションを伴いつつ、ほとんど同じ役を演じ続ける。その結果、劇中の様々なキャラクターが俳優そのも人のパーソナリティーに重なって、一種独特の人格が形成されることになる。
それはいってみれば、モンタージュ写真のようなもので、劇中のそれぞれのキャラクターとも、俳優の素顔とも異なる第三の人格である。
私は、脇役特有のこの第三人格の形成にとりわけ興味をもった。というのも、これこそは、映画の製作側と受容者側とのコラボレーションによって初めて生まれる、文字通りのインタラクティブ(相互干渉)芸術にほかならないからである。
プログラム・ピクチャーを見続けることにより、私の脳内空間にしか存在しない、二重にフィクショナルな存在が誕生したのである。いいかえれば、私は、現実の映画館にいながら、「脇役名画館」というヴァーチャルな空間に身を置いて、私にだけ見える、これまたヴァーチャルな脇役の第三人格に喝采を送っていたことになる。(「開館の辞―昭和と日本映画 最後の光芒―」p.11-12)

*1:茺田氏の名づけた「脇役本」とは区別して、「脇役」をテーマにした本、という意味でこう書くことにする。