赤木圭一郎の時代

曇り。夜から雨、の予報がはずれる。
午前中に家を出る。京都の某大での例会のため。
車中で、築島裕歴史的仮名遣い―その成立と特徴』(中公新書)、小松英雄『日本語書記史原論[補訂版]新装版』(笠間書院)の第三・第四章を読む。
会場となる某大は、きょう初めて行く大学だったので、最寄のバス停で降りたが道に迷ってしまう。そのため、時間を無駄にして古本屋に寄れず。今度からもっと早めに家を出るとしよう。
例会は午後六時まで。その後喫茶店で懇親会。久々に、退職された某先生とお話しすることが出来た。
散会は午後七時半。帰途Kで、「新・読前読後」の評を拝読して気になっていた、末永昭二『電光石火の男―赤木圭一郎と日活アクション映画』(ごま書房)を購う。ごま書房。懐かしい響きである。『合格英単語600』(通称:「ごま単」)は健在なのか、といま検索してみたら、ナント新装版が出ているではないか。しかし、「東大入試でも、これだけで十分合格」という売り文句は未だに変わっていない。かつての受験生たちが「シケ単」に親しんだように、わたしたちの世代も、「ごま単」→『速読英単語』(通称:「ソク単」)という途を歩んだのである*1
電光石火の男―赤木圭一郎と日活アクション映画
車中で、『電光石火の男』をあらかた読み終える。「映倫」の誕生(これが石原裕次郎の「アクションもの」、あるいは日活アクションを成功に導くきっかけとなるのだから、皮肉なものだ)、「プログラムピクチャー」のちゃんとした定義についても書かれてあって、さほど長くないわりに、なかなか読み応えのある本だった。特に、映画化作品と〈貸本文化〉との連関が論じられる第六章は、末永氏の本領が発揮されている。これこそ、序章の「『イメージ』を積み重ねることによって、あの時代が見えてくるのではないか。そして、現在まで続く『伝説』によって、大衆は赤木に何を求めているかがあぶり出しにできるのではないか」(p.8)という提言に呼応するものである。
また、「(昭和三十五年、年間十三本もの主演作を撮りあげるという―引用者)ハードな仕事が、赤木を追いつめることになったことは、おそらく間違いないだろう。体力には問題なかっただろうが、赤木には、小林旭宍戸錠のようなハングリーさが欠けていた。子役からの叩き上げや、演劇系の大学出身者とはモチベーションが違いすぎたのだ」(p.106)という文章が悲しい。
いつだったか、チャンネルnEcoが「赤木圭一郎特集」を集中放送していたことがあったのだが(とは云え主演作の四、五本のみ)、そのうちの一本しか観られなかったことを後悔している。「日本映画専門チャンネル」でも「衛星劇場」でもいいから、いま一度、赤木圭一郎を特集してくれないものだろうか。
圭一郎の次は、もう一人の短命日活ヒーロー「小僧=和田浩治」の評伝が読みたくなってきた。末永氏は、「小僧」シリーズについて、「惜しむらくは、それが裕次郎や旭のパロディと呼べるほどの批評精神を持っていなかったこと」だ(p.90)、と書く。これは西脇英夫氏による、以下のような和田浩治評に通ずるものであろう。「しかし惜しいかな、彼には新人スターに不可欠な時代風俗としての装飾にとぼしく、旭映画のミニチュア版といったメルヘン・コミックにばかり出演していたため、マスコミ性が足らず、一般的評価の水準にまでいたらなかった」(西脇英夫『日本のアクション映画―裕次郎から雷蔵まで―』教養文庫*2,p.127)。
それでも、この日活ヒーローの「悲劇性」のなさが、後年「底ぬけに明るくとぼけた作品を生み出す要因と」なった(西脇前掲,p.127)、という見方は面白い(なお末永氏も、和田が「明るくほろ苦い青春映画の主人公のひとりとして」ひっそりと復活を遂げたことに言及している)。

*1:そういえば、『英単語ターゲット1900』派も居た。

*2:この本のなかで西脇氏は、赤木の出演作について、『紅の拳銃』よりも『抜き射ちの竜』を高く評価したうえで、「一本でもいい、舛田利雄との夢の共演が見たかった。舛田の職人芸と赤木のマスクが織りなすベタベタのムード・アクション。考えるだけでもタメ息が出そうだ」(p.123)と書いている。