「狐」が選んだ…

曇。
「穴があったら入りたい」衝動に駆られつづけた一日。
某先生から本を二冊いただく。また書籍部で、山村修『〈狐〉が選んだ入門書』(ちくま新書)を購う。あの狐氏が遂に正体を顕したということで(「山村修」名義のものとしては、『遅読のすすめ』しか読んだことがない*1)すでに話題になっているが、それよりもっと驚いたのは、この本が、武藤康史『国語辞典の名語釈』(三省堂)や菊池康人『敬語』(講談社学術文庫ほか)、橋本進吉『古代国語の音韻に就いて』(岩波文庫ほか)を「入門書」として取上げていたことである。
この本にいう「入門書」とは、例えばヘーゲルの思想を理解するための「手引書」ではなくて、「むしろそれ自体、一個の作品であ」って、「その本そのものに、すでに一つの文章世界が自律的に開かれている。思いがけない発見にみち、読書のよろこびにみちている」ものをさすのだそうだ。
そう云えば、あの西尾幹二氏も、こんな文章を書いている。その政治的発言には首肯し難い部分があるとしても(最近は〈保守派〉の論客とも衝突を繰り返しているような気が……)、この文章はおもしろく読めると思う。「私はいかなる専門家にもなれないディレッタントで人生を終わろうとしている。橋本進吉のような大業をなし遂げた専門学者、有坂秀世のような限られた時間に一領野で自己を燃焼し尽くした天才をみると、敬意だけでなく嫉妬も覚える。私の人生は何だったのだろうか」。
また西尾氏は、「橋本進吉の文章の魅力については、今ここで詳しくは書けない」と書いているが、その「文章の魅力」については、山村氏も以下の如く言及している。「私はこの『古代国語の音韻に就いて』にもまた、いかにも黒板を後にしながら、聴衆(読者)に対して篤実に、しずかに、訥々として説き来り、説き去る研究者のすがたをみる思いがします。(中略)ゆっくりしたリズムの、簡潔で快い文章です」(p.37)。
『〈狐〉が選んだ入門書』はまだ全部を読んでいないが、例えば次のような記述も印象に残る。

“狐”が選んだ入門書 (ちくま新書)
もしもテープか何かが残っているものなら、一度でも聴いてみたいのは、東洋史学者内藤湖南(一八六六―一九三四)の講演です。
教え子だった貝塚茂樹によれば、その講義ぶりは個性的な京大文学部史学科の教授陣のなかでもきわだっていたそうです。風呂敷に包んできた唐本を手にすると、ノートもなしで、まるで蚕が糸をはくように、とうとうと淀みなく話がつづく。同じことを繰り返さず、じつによく筋がとおっていたらしい。
またその声がよかった。まことに耳にやさしく美しくひびく声であったと貝塚茂樹は回想しています(「晩年の恩師」)。
つまり内藤湖南は文章家であったばかりでなく、講義はなめらかで筋がとおっていた、おまけに声もすばらしかったということがわかります。しかし『日本文化史研究』などを読むと、もうひとつ、その語り口のユーモアのことも挙げねばなりません。(pp.122-23)

*1:『気晴らしの発見』みたいにそろそろ文庫化して欲しいのですが……。