清張ブーム

松本清張に関連するものは、書籍にしろテレビ番組にしろ、なるべく目を通すことにしている。最近(ここ二箇月)の関連書籍をみてみると、全集未収録の『決戦川中島』が幻冬舎から発売されたし(解説は塩澤実信)、おなじく川中島の戦に材をとった「川中島の戦」(『私説日本合戦譚』収録)がPHP文庫に入ったようだ(現物は未確認)。これらは大河ドラマの影響によるものとしても、森まゆみ氏の連載記事をまとめた『『婦人公論』にみる昭和文芸史』(中公新書ラクレ)には「松本清張と『霧の旗』『影の車』『絢爛たる流離』『砂漠の塩』」が入っているし*1、それから『文蔵 三月号』(PHP研究所)の特集が、「これから読む人のための松本清張ガイド」なのである。加之、「昭和30年代粒ぞろい短編集」なる清張オリジナル短篇集(角川文庫)も刊行中だ。
なにもこれは、「第○次 松本清張ブーム」というような大袈裟なものではなくて、清張ブームが現在もなおゆるやかに続いていることの証左なのかも知れない、などと思ったのは、『文蔵』所収の奈良一騎「時代が求め続ける「落差」のドラマ」(pp.30-35)を読んだから。奈良氏は、「じつは、50年代に松本清張がベストセラー作家になって以来、約半世紀、清張作品がドラマ化されなかった年は、ほとんどないのである(厳密には74年のみ制作されなかったようだ)。そういう意味では、清張ドラマのブームは延々と続いているともいえるだろう」(p.31)、と書いている。しかもその「74年」にも、テレビドラマこそ制作されなかったものの、野村芳太郎監督作品『砂の器』が制作されているのである。近年になってふたたび清張ドラマが盛んにつくられているような気もするが、それは錯覚で、さまで珍しい状況でもないのである。出版業界でもおなじようなことがいえそうだ。
また、中津文彦「再読した、あのときの昂揚――清張作品と私」(pp.36-43)に、「小説は泣けるものでなければ、などという陳腐な風潮が蔓延しているが、清張作品には、知的な興奮や胸に迫る感動はあっても、その手の安直な物語はいっさいない。上作とはこういうものを指すのだろう」(p.40)とあり、おおいに同感する。まあ、「清張作品」だけに特化している(ように見える)のは行き過ぎだと思うが、しかしそれにしても、最近は「泣ける物語」「感涙小説」ばかりもてはやされている(ような気がする)のはどうにも困る。『文蔵』自体、「ブレイク寸前! おすすめ感動小説」(2005.10)、「『泣ける本』と出会う。」(2006.10)などという特集を組まねばならないというのは、なんともはや、皮肉な事態ではある。それで思い出したが、五年ほど前、友人に「最近感動した映画は?」と訊かれ、「もちろん好き好きだとは思うけど、ヴェルヌイユの『冬の猿』かなあ。ラストの、ジャン・ギャバンの後ろ姿がなんだか良くって」と応じ、乞われてヴィデオを貸したはいいが、数日後の友人はどこか浮かない顔。それで「全然泣けなかった」、と云われたのにはガッカリした。感動って、「泣く」ことなのか。

*1:森氏は、当該文章の後半で、清張の新珠三千代への思い入れについて触れ、「私の感興は一挙にシラケた」(p.315)と書いている。そう云えばかつて竹中労が、皮肉まじりにこう書いていた。「『波の塔』『霧の旗』『ゼロの焦点』などを、新珠三千代をイメージにおいて書いたという、松本清張氏の"後援"は大いなる力でおじゃった」(『芸能人別帳』ちくま文庫2001,pp.265-66)。