読書と或る人生

◆枕頭の書のうちの一冊は大体「本の本」、つまり「書物に関する書物」で、いま読んでいるのは福原麟太郎『読書と或る人生』(新潮選書,1967)なのだが、これはその評判どおり面白い。
福原氏ほどの読書人に、「私はどう思っても、読書家といううちには入らない」(p.11)などと言われると、まったく深愧に堪えないところ。しかし全然嫌みがないのだ。
「ねる前まで読んでいて、あとは明日にしようと、残り惜しくも本を閉じ、あしたの朝を待つ心持で枕につくとか、外から帰ってくるとき、帰ったら、あの本にすぐ取りつこうぜと心に思いながら、電車に乗っている、というようなことは、決して無くはない。私自身の経験にも、そのような時代があった。今から思うと、どんなに貧乏でも、どんなに辛いことがあっても、そういう時にその人は幸福なのである。小説、詩歌の本に限らない。無味乾燥と思える学問の書でも、そういう楽しい愛着をもって、がむしゃらに読めるものである。読書の愉しみというのはそれだ。それは生きることと共にある愉しみというものではないであろうか。」(p.24)――と、この文章は、著者が「新潮社のために書いて送った『読書の愉しみ』という短文」なのだそうだ。著者曰く、「実はこれが、私の知っている読書の楽(ママ)しみの全部なのである」。それにしても、なんていい文章なんだろう。
読書や書物に関する話題は勿論だが、脱線部分や回想にも、おもしろくて興味ふかい記述が多い。
「私の先生は岡倉由三郎といって、『茶の本』の岡倉天心の弟だが、私はこの先生について、英語英文学のみならず、あらゆることを教わった。私が『万葉集』を読むことが晩かったのは、先生のこの古典に対する興味がさかんになるのが晩かったからである。先生は元来バズル・ホール・チェイムバレン(チャムブレンと明治の人達は呼んだ。東京帝国大学で明治中期、言語学を講じ、国語学の組織を立て、日本語学の基礎をつくり、『古事記』以降の国文学の価値を世界に知らせてくれた英人である。)の二人のすぐれた弟子(もう一人は上田万年)の一人であったから、もとより万葉のことは詳しかったけれど、私どもに強く影響するほど万葉の話をせられなかった。晩年(昭和十一年六十九歳で逝去の前十年くらい)になって万葉に特に親しまれたらしかった。その頃出た新らしい美しい版本を買い集めたりしていられた。私どももそれにひかれて万葉のことなど考えるようになった。(中略)万葉のほかに『源氏物語』にも先生は興味を持って、源氏の複刻本などをも集めていられた。先生が亡くなられたとき、その書房の整理を委任された私は、万葉、源氏関係の本が多いのに驚いたのであった」(pp.55-56)。チェンバレンの高足としては、ほかに佐佐木信綱芳賀矢一が有名なところか。
土岐善麿氏も熱心な杜甫の読者である。英語には帰依者(devotee)ということばがあって便利である。土岐善麿氏は正に帰依者であろうか。『新訳杜甫詩選』三冊(私の書棚には、第二、第三、第四とあって第一が無いのはどういうわけだ。)『杜甫草堂記』(昭三七、春秋社)『杜甫門前記』(昭四〇、春秋社)と、いくらでも杜甫の本がつづいて出ている。土岐先生の本はまだ能楽書が別の棚にもあるはずで、この人くらい守備範囲がひろく、打撃も自由自在という選手は珍らしい。英文学の出身で大ヂャーナリストで、一生を朝日新聞のために奉げ、しかも田安宗武を研究して学位を得たばかりか学士院賞を貰い、そのくせ、学士院会員にはならないで芸術院に属している。石川啄木の友人で、生活短歌の先達で、日本式ローマ字論者で、杜甫が好きで、喜多実と組んで新作能の作者で、名作があり、その数はそろそろ世阿弥シェイクスピアに肉薄しようとする。不思議な人がいたものである」(pp.121-22)、と土岐善麿の多才ぶりを説くくだりなんかもおもしろい。因みに土岐には、都立日比谷図書館の館長、日本図書館協会の理事長、国語審議会の会長といった顔もあった。
辞書について語ったくだりには、「この言葉(事典というコトバ―引用者)を発明したのは平凡社の某氏(下中彌三郎。たぶん―引用者)であったらしいと、野尻抱影先生が教えて下さった」(p.139)、とある。こんなふうに、誰々に教わった、あるいは誰々に教えた、などという証言を聞いたり読んだりするのもすごく楽しいことだ。
◆またまたNさんから、永井龍男『雀の卵 その他』(新潮社)署名入など二冊を頂きました。どうも有難うございます!
福原麟太郎のキーワードで辿ってゆくと、講談社文芸文庫の目録を作成されたかたがいらっしゃった。なんと、☆印の多いことよ……(『大阪の宿』がボブ・サップとの共著…というくだりにはおもわず笑ってしまった)。