清張好み(5)

■『梅雨と西洋風呂』(文春文庫ほか)

 ああ、何という陰気な風呂だと、四角い木製風呂の中に浸って義介はあたりを眺めまわした。小窓のガラスに蒼白い朝の光が映っている。それでも昔ふうなこの浴室は夜のように暗い。柱は太く、煤けている。無神経そのものだ。明るい色が少しもない。燻ませるだけ燻ませて、人の気持ちをいやが上にも沈鬱にひきずりこもうとする建物だ。(p.155)

 「頑(かたくな)な浴船(よくせん)の黟(かぐろ)い縁(へり)に軀(み)を靠(もた)れて」という、日夏耿之介の詩をおもわせる一節である。その暗い檜風呂と、ピンクのポリエステル浴槽との見事な対照ぶりが、とりわけ印象に残る佳品である。
 そもそもタイトルからして、いろいろと想像をかきたてられる。「梅雨と西洋風呂」。抽象的な題名の多い清張作品ではあるが、「西洋風呂」という具体性ゆえに、そして「梅雨」という妙なとりあわせによって、かえってミステリアスな雰囲気がかもし出されている。
 しかも、実はタイトルの読みが一定していないのだ。たとえば、郷原宏松本清張事典 決定版』(角川書店)は「つゆとせいようぶろ」で立項しており、「ばいうとせいようぶろ」のほうは空見出しで立て、これを初出時のタイトルとする。一方、志村有弘・歴史と文学の会共編『松本清張事典 増補版』(勉誠出版)は、本編を「ばいうとせいようぶろ」で立項しておきながら、「全作品一覧」の項では「つゆとせいようぶろ」として収録している。だが私の持っている文春文庫版は、中扉のタイトルにわざわざ「ばいう」とルビが振ってあるから、これを初出時のみのタイトルであった、と限定するのはむつかしいのかもしれない。あるいは、文庫版に先行する「カッパ・ノベルス版」(1971.5)や「松本清張全集第十巻」(1973.5)所収のもので「つゆ」となっていたのを、文庫版刊行時に、初出の「ばいう」に戻した、ということなのかもしれないが、たとえば『風雪断碑』を『断碑』に改めるというような、目でみてそれと分る改変ならともかく、読みの問題というのは、編集者も絡んで来るものだろうし、確定することはむつかしい。とまれ、そのような不確定要素が、作品をいっそうミステリアスなものにしている、という事実はいなめない。
 しかし、この作品にふれたものは少ない。最近では、『松本清張の世界』(別冊宝島)所収の「清張の異色作品」(千街晶之)が、

『黒い空』ほどではないけれど、『梅雨と西洋風呂』も不思議な長篇だ。ある地方政治家の一代の盛衰記なのだが、終盤の数十ページで、いきなりアリバイ崩しテーマのミステリに化けてしまうのだ。読者の予想の斜め上をいくこの超展開には唖然とさせられる。(p.63)

と書いていたのや、『週刊 松本清張 第13号』(デアゴスティーニ)が、

『万葉翡翠(ひすい)』『潜在光景』『鉢植を買う女』『陸行水行』『内海の輪』『梅雨と西洋風呂』『家紋』など、短篇推理の名作はいずれもこの連作形式の所産である。(p.8)

と書いていたのを目にしたくらいで、あまり言及される機会のない作品なのである(「梅雨と西洋風呂」の含まれる連作小説のタイトルは『黒の図説』で、このシリーズは「週刊朝日」に連載された)。
 ちなみに、前掲「週刊松本清張」の記事は、本作品を「短篇」に分類しているけれども、権田萬治『松本清張 時代の闇を見つめた作家』(文藝春秋)は「アリバイ・トリック」を分類した項において「中篇」の扱いで紹介しているし(p.114)、「長篇」として扱っているものもある。
 この作品の一番の読みどころは、千街氏も述べているように、やはり作風が唐突に倒叙もののミステリに変貌してしまうという展開であろう。それから、『渡された場面』でもお馴染みの、供述調書の引用に終るという展開はさすがにこなれたものであるが、それ以外にもぐいぐい読ませる仕掛けはたくさん用意されている。たとえば、主人公・鐘崎義介の片腕となる編集長・土井源造の「茫洋とした」雰囲気・とらえどころのなさが、この作品をいっそう面白いものにしているし、鐘崎と政敵(宮山晋治郎)とが対峙する場面(15章)などはなかなか読みごたえがある。そして鐘崎が、昔読んだ牧逸馬の『浴槽の花嫁』を分析してみせたりする場面(p.97〜など)も印象的だ。
 またこの小説の特色は、ある男がいかにして人を殺める(または殺めようと決意する)に至ったか、という過程をじっくりと描き出し、しかし殺害場面を直接に描かない、という点や、男が女性(浦部カツ子)に入れあげはするものの、それが直接身の破滅につながる*1わけではない、という点にもあるといえそうだ。

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清張好み(1)『恩誼の紐』(『火神被殺』文春文庫所収)
清張好み(2)『蔵の中』(『彩色江戸切絵図』講談社文庫ほか所収)
清張好み(3)カルネアデスの舟板』(『張込み』新潮文庫ほか所収)
清張好み(4)写楽の謎の「一解決」』(講談社文庫)

*1:たとえば『内海の輪』『笛壺』『危険な斜面』などのように。