だから、写楽の経歴の穿鑿(せんさく)はやめて、写楽は写楽たらしめよ、というのがわたくしの考えです。幻の写楽は、幻でいいではありませんか。彼の作品だけでよいのです。作品こそ幻でもなんでもなく、写楽の実在そのものです。(p.72)
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それは、明治期から昭和期にいたる「写楽別人説」の表に、松本清張の名も見えるのだが、清張が「昭和32年」に、「写楽」=「能役者・斎藤十郎兵衛」説を唱えたことになっているという点である(p.3)。そこには、詳しい書誌情報は示されていないのだが、発表年から考えると、これは、『小説日本藝譚』(新潮文庫など所収)の一篇「写楽」をさしているとおぼしい。
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ともあれ清張は、『写楽の謎』の中で色々の説を検討した結果、写楽は「写楽」のままでよく、正体を云々する必要はない、という趣旨のことを述べている。それがタイトルの「一解決」に当るのではなくて、その後に「素人なり」の想像(p.34)から、かなり大胆な説を述べているのだが、この場で種明かしをする必要もなかろう。
私がこの作品を好きなのは、上にあげたような説が面白いから、というのではない。また、「一解決」のほかにも、「十返舎一九」は「十返舗九(とーへんぼく=唐変木)」に由来する*1とか、「東洲斎写楽」=「東(洲)西(=斎)の洒落」とするとか(「思いつき」であるとことわってはいるが)、おもしろいことも書かれてあるのだが、それでこの作品を好む、というわけでもない。
それは、清張が写楽について語りながら、小説家としての自分の立場を語ったと考えられる発言が散見するからなのである。
たとえば、「天平時代の仏像、建築物、工芸品などは、それを制作した人たちが、決して『芸術』を生み出そうとして作ったわけではないのです。職人が、自分の技術を最高に発揮しようとして作った作品が『芸術』になったのです。現在の画壇でも文壇でも、おれは芸術的作品をつくるんだとか、『純文学』を書くんだとか、というような宣言をする人たちがいます。そういう気張った人たちは、こういった職人の技術が芸術になっている点を考えてもらいたいと思います」(p.36)とあるところ。
最近たいへんおもしろく読んだ、岡田暁生『音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉』(中公新書)の「はじめに」にも、今日「芸術音楽」とされるバロック時代の合奏曲やヨハン・シュトラウス(2世)のワルツなどは元来「実用音楽」として生み出された、という記述があったと記憶しているが、清張自身も、小説は「まず面白くなければならない」と宣言していたように、実作に於ては、芸術家ではなくて「職人」たらんとしていた、技術者に徹しようとしていたのではないか、とおもわれる。
次に、「自分では実作しないで、他人の画を見て、その印象から批評するのはどうも弱いようにわたくしには思えます。(略)しかし、実作をする人の批評は具体的で的確です」(p.48)というのも、いかにも清張らしい主張である。
このくだりを読んで、名作『真贋の森』を想起するのは、果して私だけであろうか。
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某先生が、「『禿山の一夜』が流れていた清張の土曜ドラマ」と仰っていた作品の正体が分った。名取裕子主演の『けものみち』(1982年製作、ジェームス三木脚本、和田勉演出)であった。日本映画専門チャンネルや衛星劇場の清張生誕百年記念特集を、ライブラリに保存していたので、それで分ったのである。三話完結で、ずいぶん前に、一度だけ見たことがあるのだけれど、オープニングの「禿山の一夜」はまったく印象に残っていなかった……。
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きょうはNHKで、谷原章介主演の「顔」がやっていた。烏丸せつこや戸田菜穂など、主役を女性が演ずることが多かったが*2、今回は原作どおり男性が演じている。