「臨場」(第2シーズン)第9話を見ていたら、卜部兼好『徒然草』を愛読するホームレスの中年男性(斎藤洋介)が登場した。文庫版のものがちらと映ったが、最近出た島内裕子校訂・訳『徒然草』(ちくま学芸文庫)よりもずっと厚かった。表紙には校注者名(?)として「真田啓人」とあったようだから、これはおそらく架空の本なのだろう。
なぜ『徒然草』に過剰反応したのかといえば、つい先日、小旅行の道中で、今泉忠義譯註『改訂 徒然草 付現代語訳』(角川文庫)を通読していて、なぜか「ぐっと来て」しまったからである。たとえば、第百三十一段の「おのが分を知りて、及ばざる時は、速にやむを智といふべし。ゆるさざらむは人のあやまりなり。分を知らずして、しひてはげむはおのれが誤なり」という箇所に。またたとえば、第二百三十五段の「虚空よく物をいる。我等が心に念々のほしきままに來り浮ぶも、心といふもののなきにやあらむ。心にぬしあらましかば、胸のうちに若干(そこばく)のことは入り來らざらまし」という箇所に。
かねて『徒然草』には、「中年文学」という印象があった。紀田順一郎氏が、似たようなことを書いている。
高校時代、私にとって『徒然草』は世にも退屈な教材でしかなかったが、社会人になって数年目、疲れて一夜この個所(第百八段*1―引用者)を読み返してみたところ、じっと考えこんでしまった。三十までの人生、四十までの人生というように、人生が日程化して見えたのである。(略)若いうちにおもしろいのは、せいぜい久米の仙人のエピソードぐらいのものであろう。書物というのは、それを読むにふさわしい年齢があるのだ。(『日本の書物』ちくま文庫,pp.194-95)
だから、まさか自分が感動してしまうとは、まったくおもいもよらなかった。
『徒然草』に対してはさらに、雑駁で話題が多岐にわたりすぎているような印象もいだいていたのだが、あらためて通読してみると、意外な発見もあったりしたのだった(ちなみに、前掲の島内氏訳は、通読することを第一の目標として編まれている)。
さて『徒然草』は、次のように、鴨長明『方丈記』が引き合いに出されてその特徴を論われることが多い。
食、衣、住のことは、長明は書いているけれども、兼好の言う四条件中の、最後の、医薬のことはどうしていたものか、私はひどく気になるのだが、彼は何も書いていない。(略)時代が長明の生きていた時よりも、より一層に、きわだって変貌していることを示すことばも、この(『徒然草』の―引用者)百二十段に露頭している。(略)文武両道などという観念的なことを言わないところに、現実人としての兼好法師がいるというものであろう。(堀田善衞『方丈記私記』新潮文庫,pp.172-73)
そういう上出来の随筆集として『徒然草』の右に出るものは、過去六百年のあいだに、ついに一冊も見出されなかった。何を持ってきてくらべてみても、この片々たる随筆集に敵うものはない。『枕草子』、『方丈記』、いずれもはるかに手応え弱く、器量とぼしく、一方は綺羅をかざって乙に取り澄ましている才女振りが鼻につくと面を掩いたくなるし、もう一方は幾十幾日も洗っていない下帯のむさくるしく匂って、吐く息の抹香くさく、それに口臭さえ入りまじっているところ、なんともまた耐えがたい。(杉本秀太郎『「徒然草」を読む』講談社文芸文庫,p.4)
三浦 みなさん「方丈記」がすごいすごい、とおっしゃるけど、僕は点数辛いんだよね。「徒然草」のほうがいい。「方丈記」はキザというか……。
丸谷 美文だからね。
鹿島 三浦さんの言うこと、何となくわかりますよ。「方丈記」っていうのは黙示録的だから、そこがイヤだっていう人はいる。
三浦 「徒然草」というのはなんかボーッとしてるじゃない? どっち取るかといえば、僕はボーッとしているほうがいいな。だって、「方丈記」というタイトルのつけ方からして、悪しき近代文学っぽい(笑)。(丸谷才一・鹿島茂・三浦雅士『文学全集を立ちあげる』文春文庫,p.144)
「ボーッとしている」という表現は、内容が雑駁であるがゆえに、そのようにとられる場合もあるということなのではないか。たとえば富士正晴は、やはり『方丈記』と対比させつつ、次のように述べている。
長明は一途に一筋の歌をうたっているが、兼好は一つの鉢に有職故実・人生論・美術論・音楽論・珍談奇談を盛り込んでにぎわいを添えたという感じもする。だから、長明の文章は余り簡単にぬきさしならぬところがあるのに対して、兼好の文章はあれこれ別のをもってきて差し替えても差し支えないようなところがあるように思われる。(『書中のつき合い』六興出版,p.22)
そんな富士正晴も、「ひねこびた趣味的老人(兼好のこと―引用者)の感想などこっちがひねこびてから読む方がいい気もするが、昨年、すでに還暦すぎてひねこびた老人となったわたしが読み返してみたら、何やら空虚な手ごたえない感じばかり残った。閉口する」(同前p.19)、と書いているのだから、おかしい。
また、『徒然草』が「ボーッとしている」のは、昔からいわれてきたような「自家撞著」を感じさせもするからではなかろうか。しかし、これは単なる矛盾ではない、と言う人もあって、たとえば西尾實は、日本古典文学大系(岩波書店)の月報(第30卷附録)で、「つれづれ草における思想的矛盾といわれているものが、抽象してとりあげると矛盾になるが、具体的表現をたどってあるがままに読んでいくと、決して矛盾ではない」(「つれづれ草の友情論」)と再説しているし、最近では四方田犬彦氏が、『徒然草』の記述を引用しながら、
多様といえば多様、支離滅裂といえば支離滅裂なわけだが、思うにこれは作者が各段にではなく、そのコラージュからなる全体としての書物に理解を求めているからだろう。兼好は長明のように、継起的に持続する叙述という手法を採らなかった。その代わりに夥しい断片を繋ぎ合わせ、それが統合されて曼荼羅のような織物を築きあげることに主眼を置いた。(『日本の書物への感謝』岩波書店,p.152)
と述べていた。これはあたかもよし、最近読んだ『主題と変奏』*2のなかで、吉田秀和氏がロベルト・シューマンの音楽を評して「アラベスクのような美しさ」と言っていたことと、見事に重なる。
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どういうわけか、『徒然草』は読みやすい、とされているけれども、解釈が一定していないところはもちろんたくさんある。たとえば、漢字好きにもよく知られる、「六条の故内府、参り給ひて、『有房、ついでに、物習ひ侍らん』とて、『先づ、「しほ」といふ文字は、いづれの偏にか侍らん』と問はれけるに、『土偏に候』と申したりければ、『才の程、既に顕れにたり。今は、然ばかりにて候へ。床しき所、無し』と申されけるに、響動みに成りて、罷り出でにけり」(第百三十六段)というくだり。最新の島内訳でも、「いづれの偏」はやはり漢字の部首を示すものと解されているが、小松英雄『徒然草抜書』(講談社学術文庫)*3が、これは「篇」の義、つまり、特定の書名かその下位分類かをさすものであろう、と書いていたのは面白かった。
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ちなみに松本清張は、『随筆 黒い手帖』(中公文庫)所収の日記で、『徒然草』第七十一段を引用している(p.65)。すなわち、「又如何なるをりぞ、ただいま人の云ふ事も、目に見ゆる物も、わが心のうちも、かかる事のいつぞや有りしがとおぼえて、いつとはおもひ出でねども、まさしく有りし心ちのするは、我ばかりかく思ふにや」という、いわゆる「既視感(デジャ・ヴュ)」をあつかった段である。清張は自注で、「この錯覚心理がおもしろく、この文句をしばしば借用した」と書いている。ただちにおもい出されるのが、「殺意」における引用である(『遠くからの声』講談社文庫所収,p.55)。
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紀田氏には、「私の古典(4)『徒然草』」という文章もある。
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