松本恵子訳『アクロイド殺し』のことなど

 「叙述ミステリ」は、「そういう作品である」とあらかじめ聞かされて手に取ることが多い、と以前書いた。むしろそのような前提知識があった方がありがたい場合もあるので、この前Nさんにすすめられて読んだ麻耶雄嵩「こうもり」(『貴族探偵集英社文庫2013所収)は、叙述系だという予備知識がなければ、結末を理解するのにきっと時間がかかったことだろう。
 同様に、「意外な犯人」の古典的作品も、どこかで結末を聞かされてから読む場合が少なからずあるのではないかと思う。わたしの場合、『モルグ街の殺人』『黄色い部屋の謎』などはみなそうだった。これらは、子供向けの「学研まんが」「てのり文庫」などであらすじを読んだために、大人向けの邦訳を繙く前からすでにトリックや犯人を「知っていた」。
 この春、安原和見氏による新訳(光文社古典新訳文庫*1で出た、アガサ・クリスティーオリエント急行殺人事件』もそのひとつ。これによって久々に新訳でクリスティー作品を楽しんだが、その「訳者あとがき」は原作の矛盾・疑問点にも言及していて、ああなるほどな、と思わせる。「解説」は斎藤兆史氏が書いており、こちらも興味深く、おもしろく読んだ。ちなみに斎藤氏が、『ロジャー・アクロイド殺人事件』(『アクロイド殺し』)や『ABC殺人事件』『ナイルに死す』などクリスティーの名作を列挙するくだり(pp.406-07)は、ほぼ同じ記述が、斎藤氏の『めざせ達人! 英語道場―教養ある言葉を身につける』(ちくま新書2017)の「コーヒーブレイク(2)英語教材としてのクリスティー推理小説」にも見えるのだが(pp.60-61)、なぜか後者は、『ナイルに死す』のタイトルが映画邦題の『ナイル殺人事件』になっている。
 ところで、このあいだN書房店頭にて、函入のクリスチイ作/松本惠子訳『アクロイド殺し』(平凡社1929)800円、を拾った。「世界探偵小説全集」の第18巻である。同書は『アクロイド殺し』のほか、短篇の「クラパムの料理女」「呪はれたる長男」「魔法の人」も併録している。
 訳者の松本恵子については、川本三郎氏が「アガサ・クリスティの紹介者、松本恵子のこと」*2(『老いの荷風白水社2017所収)で次のように書いている。

 松本恵子(明治二十四年―昭和五十一年)という翻訳家がいた。
 私などの世代はアガサ・クリスティのミステリは松本恵子の訳で読んだ。手元にはいまも十代の頃に読んだ松本恵子訳のクリスティ『青列車殺人事件』(日本出版共同、昭和二十九年)がある。「現代女流探偵作家の最高作」「本邦完訳」と銘打たれている。(略)
 そもそも松本恵子は大正時代にクリスティの短篇「魔法の人」を中野圭介の名義で訳している(「探偵文藝」大正十五年十一月号)。この号にはもうひとつクリスティの短篇「白鳥の歌」も載っている。訳者名がないが、中野圭介、つまり松本恵子といっていいだろう。
 男の名前になっているのは当時、女性がミステリ(当時の言葉でいえば探偵小説)に関わることが遠慮されたためという。
 大正時代にクリスティを訳している。日本におけるクリスティ紹介の草分けといっていい。昭和四年には『アクロイド殺し』も出版している。(pp.168-69)

 最後に挙がっている昭和四年刊の『アクロイド殺し』というのが、今回わたしの入手した本をさすのだろう。また併録の「魔法の人」は、引用文中にある、中野圭介名義で訳されたものと同一かと思われる(『アクロイド殺し』には初出誌の明示などがないので、そのあたりのことが全くわからないのだ)。川本氏が書いている初出誌の「探偵文藝」は、もと「秘密探偵雑誌」といい、松本恵子が夫の松本泰とともに設立した出版社(奎運社)から創刊されたものだという(川本著p.173)。
 さてこの『アクロイド殺し』も、「意外な犯人もの」として有名で、わたしも、真犯人をあらかじめ知った上で邦訳(羽田詩津子訳)に取りかかったくちである。そういえば故・瀬戸川猛資氏も、中学時代に高木彬光のある作品によって『アクロイド』の真相を知らされてしまい、「怒りくるい、もう読むものかと心に決め」た(「誰がアクロイドを殺したって?」『夜明けの睡魔―海外ミステリの新しい波』創元ライブラリ1999所収:205)と書いていた。
 東秀紀氏は、『アガサ・クリスティー大英帝国―名作ミステリと「観光」の時代』(筑摩選書2017)で、「クリスティーがストーリーをつくっている手順が、多くの場合、「舞台」の設定から始められていた」というジョン・カラン氏の指摘(p.28)に触れた上で、『アクロイド』や『オリエント急行』は「先ず、犯人に関する着想が、あったに違いない」(p.29)、と書いている*3

貴族探偵 (集英社文庫)

貴族探偵 (集英社文庫)

オリエント急行殺人事件 (古典新訳文庫)

オリエント急行殺人事件 (古典新訳文庫)

老いの荷風

老いの荷風

アガサ・クリスティーの大英帝国: 名作ミステリと「観光」の時代 (筑摩選書)

アガサ・クリスティーの大英帝国: 名作ミステリと「観光」の時代 (筑摩選書)

*1:帯に「ジョニー・デップほか豪華キャストで映画化! 2017年11月全米公開!!」とある。

*2:初出:「図書」平成二十五年九月。

*3:また東氏は、クリスティーが『アクロイド』の舞台に設定した「英国の田園」を、「人々を優しく慰めてくれるユートピア」(p.68)と定義し、これは横溝正史が描いた「不吉な因習、陰惨、血生臭さに満ち」た日本の田舎(p.66)とは対蹠的な存在だとも書いていて、この分析も面白かった。