琵琶のロマン

 松尾恒一『日本の民俗宗教』(ちくま新書2019)は知的好奇心をかき立てられる本だが、すこし不思議な点がある。第三章「民衆の仏教への受容」の第三節「因果応報の志操の遊行と宗教者・芸能民」に、

 中国の琵琶の音色やメロディーを考える上で注目したいのは、仏・菩薩の住む浄土の様子を描いた『浄土変相図』には、琵琶を含む、浄土での演奏の様子が見られることである。
敦煌莫高窟(とんこうばっこうくつ)」第二二〇窟の唐代の浄土変相図の一つ『奏楽図』には、正面の高欄(こうらん)のある高舞台に仏・菩薩や天女と思われる楽人たちが座して、琵琶やほぼ円形の胴の阮咸(げんかん)(ruanxian)などの棹のある弦楽器や横笛、ハーモニカ状の排簫(はいしょう)(pai2xiao1)などの吹奏楽器を奏している様子が描かれている(図23)。(略)
 画中でひときわ目を引くのは、琵琶を背負いかつぐようにして弾く様子である。この奏法は「反弾琵琶(はんだんびわ)」と呼ばれ、現代の中国では天女が演奏するイメージが定着し、絵画や彫刻のモチーフとなって制作され、舞劇などでも、実際に女性が天女姿で演じたりする。(pp.122-24)

とあり、「浄土変相図」の一部分とされる図が掲げられているのだが(p.123)、その記述と写真とに少々疑問があるのだ。
 そのことを述べる前に、「変相図」とは何かということについて触れておこう。たとえばある概説書は次のように説く。

 隋時代以降(581年-)、敦煌ではそれまでの仏伝図や本生図といった釈迦の在世や前世の事績を描く絵画に代わり、経典に描かれる内容や仏世界を絵画化した様々な変相図(経変)が描かれるようになった。初唐・盛唐期(7-8世紀)には、維摩経変、法華経変、弥勒経変、阿弥陀浄土変、薬師浄土変、仏頂尊勝陀羅尼経変などの変相図が、窟内の壁面全体に大画面パノラマのごとく表されている。(朴亨國監修『東洋美術史』武蔵野美術大学出版局2016:276)

 同書は、同ページに「阿弥陀浄土変相図」の写真を掲げ、

 莫高窟第220窟の東壁と北壁には「貞観十六年」(642年)の墨書題記があり、本窟の壁画の制作年代はおよそこの頃と想定される。同窟南壁の画面いっぱいに阿弥陀浄土変相図が描かれている。中央に宝池から伸びる蓮華座上の阿弥陀仏が説法する様子が描かれ、左右には脇侍菩薩のほか、多数の聖衆を配する。菩薩が身にまとう裙(くん)や天衣(てんね)は薄く透けており、瓔珞(ようらく)その他の装飾も華やかである。画面左右部には楼閣や樹木、上部には雲に乗って飛来する仏や種々の楽器、下部には舞踏や奏楽する天人たちなど、画面全体には浄土を構成する様々なモティーフが色彩豊かに、かつ緻密に描き込まれる。(pp.276-77)

と解説している。ちなみに、姜亮夫『莫高窟年表』(上海古籍出版社1985)の「六四二年 唐太宗貞觀十六年壬寅」「D二二〇窟」の項を見ると、「大雲寺律師道弘造『藥師淨土變相』壁畫一鋪。(同上窟、左壁『藥師淨土變相』下端題記云;「貞觀十六年、歳次□寅、奉爲大雲寺律師道弘……造……。」)」(p.216)とあって、おやと思うが、東山健吾『敦煌三大石窟―莫高窟・西千仏洞・楡林窟』(講談社選書メチエ1996)によれば、第220窟は東壁門口の両側に「維摩詰経変」、南壁に「『仏説阿弥陀経』にもとづく大画面の阿弥陀浄土経変」、そして北壁には「『薬師如来本願功徳経』にもとづく薬師浄土経変」が描かれているといい(p.143~)、それだと『東洋美術史』の記述とも合致するので、得心が行く。
 さてその『東洋美術史』が掲げるところの「阿弥陀浄土変相図」だが(モノクロでやや小さいけれど)、どんなによく目を凝らして見てみても、「反弾琵琶」らしきものが描かれていないようなのである。
 東山著も、「反弾琵琶」について言及しているのだが、第220窟ではなく、「第112窟」(吐蕃支配期*1に造営)の「観無量寿経変」の一部だといっている。次の如くである。

 「反弾琵琶」として知られる図は、観経変の中尊阿弥陀仏前方の舞台にあらわされた舞楽段の一部である。この舞楽は、舞天一名と楽天六名で構成され、楽天の向かって左側の三名は鶏婁鼓(けいろうこ)と鼗鼓(とうこ)、横笛、拍板(はくばん)を奏し、右側の三名は箜篌(くご)、阮咸(げんかん)、琵琶を奏す。その前に設けられた平台ではさらに左右各二体の伎楽天が背中あわせに坐り、父子相迎会の阿弥陀に対して楽器を奏している。中央の舞天は頭に宝冠をのせ、半裸に胸飾り、臂釧をつけ、短袴(たんこ)をはき、天衣をひるがえして舞う。足を高くあげ、指をそらせてステップを踏みながら、身体を傾け琵琶を背にまわして弾いている。このような弾奏法を「反弾」といい、きわめて難度が高いことから絶技とされた。この図は「反弾琵琶」として著名で、莫高窟壁画中の白眉であるばかりでなく、唐代の舞踏史を研究するうえから貴重な史料とされている。(東山健吾『敦煌三大石窟』pp.174-75)

 あるいは、第220窟の維摩経変か薬師浄土変かに似たような絵が見られるのかもしれないが(そのあたりは慎重に考えなければならないところだ)、「反弾琵琶」として紹介されるのは、ふつうは東山著が挙げるように「第112窟」の「観無量寿経変」の部分としてである。なぜ松尾著は、著名な第112窟ではなく第220窟の方を紹介しているのだろうか。
 しかも、松尾著が浄土経変の一部として掲げた反弾琵琶の図は、保存状態が頗るよいので、当初は複製か何かを写したものかと思っていたところ(加えて、「観無量寿経変」の反弾琵琶とは違って下部の伎楽天二体がいない)、ネット上に公開された画像がもとになっているらしいことが判った。ちょっとわかりにくいのだが、これは右下に作者名が記されており、どうやら敦煌壁画を摸した作品であると思しい。それにその画像には、「莫高窟第220窟 舞楽図・唐」との文言も添えられている。この記述は、果して正確なものなのかどうか。
 ところで松尾著は、琵琶そのものの由来についても述べている。

 琵琶は、隋・唐代の宮廷音楽の楽器であったが、中国にとっても外来の楽器であった。隋・唐の帝国は、周辺国への版図の拡大とともに、その国の音楽・舞踊を吸収し、外国の楽器も取り込んだ。琵琶はそうした楽器の一つで、宋代、陳暘(ちんよう)著の『楽書』(一一〇一年成立)には、異国の楽である「胡楽(こがく)」の中に「琵琶・五絃琵琶」を分類している。
 単に「琵琶」と記される楽器は、中国から日本にまで広域に広まったペルシャ起源の四弦琵琶である。一方、五弦琵琶はインド起源で、その両方が中国に入ってきていたことがわかる。ちなみに古代の五弦琵琶は日本にも伝来しており、東大寺正倉院の宝物として伝えられている。現在、世界に確認されている五弦琵琶は二本だけで、そのうちの一本が日本に現存しているのである。(p.122)

 小泉文夫『日本の音―世界のなかの日本音楽』(平凡社ライブラリー1994)は、琵琶には上記の「四弦」か「五弦」かという種別に加えて、「直頸」か「曲頸」かという違いがあることを紹介している。

 日本にはいまあげた、いろいろなタイプの琵琶の音楽があるのと同じように、楽器としての琵琶も、それぞれにみな少しずつ違っていて、あるものは四弦であったり、三弦であったり、あるいは五弦であったり、また、琵琶という楽器の棹のところについている非常に丈の高い柱(じ)の数も、たとえば四柱であったり、五柱であったりというふうに、いろいろです。琵琶全体の大きさもそれぞれに違っていますし、さらにはその構造も違っています。しかしながら、こまかなヴァラエティを度外視すると、まず、棹の上端――天軫(てんじん)がうしろに曲っているということ、これが共通しています。それから柱があるということです。
 実は、日本には、もう一つの全く違う種類の琵琶があります。いままであげたものは、こまかく言えばいろいろ違っていますけれども、しかしやはり、一つのタイプ、首がうしろに曲った琵琶で、それを曲頸琵琶といいますが、もう一つのタイプというのは直頸琵琶、首が真っすぐな琵琶というものです。これは弦の数が五本あるものですから、五弦琵琶と言われ、さらにもっと簡単に五弦とも言われておりますが、この楽器はすでに述べた通り正倉院にあります。(略)この五弦というものは、いままで述べてきた、琵琶のすべてのタイプとは全く違う種類のものです。(略)
 それから今日見られる資料で重要なものはインドにあります。インドで紀元後二世紀の仏教遺跡と言われているアマラーバチというところに石に彫った浮彫がありますが、お釈迦さまの事跡を描いた構図の中に、いまの正倉院の五弦琵琶に非常によく似た形の楽器が現われています。おそらくこういうような事柄から、五弦琵琶のほうは亀茲というところは、クチャという地名になっていますが、ここから中国に伝わったということで、こういうインド系の琵琶のことを亀茲琵琶といいます。したがって日本の五弦琵琶は、この亀茲琵琶がもとであり、そしてそのもとはインドであると想像されております。(pp.167-69)

 これによれば、「五弦」かつ「直頸」のものはインド系ということになり、前引の松尾著によると「四弦」はペルシャ系、ということになるが、その通説に疑義を呈しているのが、若林忠宏氏である。

 今日、正倉院の研究者、伝統邦楽研究者のほぼ全てが、聖武天皇(在位724~749年)が中国から献上され、正倉院に収められた様々な中国撥弦楽器は「直頸五弦琵琶」「曲頸四弦琵琶」「阮咸」の三種に大別されると、疑いもなく信じていると思われます。少なくとも今まで、これに物言いを付けた記述は見当たりません。(略)
 そして「直頸五弦琵琶は古代インド系」「曲頸四弦琵琶は古代ペルシア系」といい、やや詳しい研究者は、「阮咸という円形胴の琵琶の名は、この楽器の名手であった戦国時代の竹林七賢人のひとりの名に因んだものである」といいます。これは、中国学研究者にとって重要文献とされている(私にとっては最大最悪の偽書である)『通典(つてん)』の記述によるものでしょう。
 私も五十年弱にわたる民族音楽研究の大半は、この通説を信じてきました。しかし、世界に散在する様々な琵琶系弦楽器の壁画や石彫を改めて検証すれば、そこには、遥かに壮大な「琵琶の世界」があり、正倉院の三種は、そのほんの一部に過ぎなかったことがわかったのです。
 まず、古代インド系の「直頸琵琶」ですが、確かに古代インドの琵琶は、ほぼ全て「直頸」です。しかし、そこには五弦の他、四弦も六弦も存在します。また、三蔵法師も通った、アフガニスタン東部からパキスタン北部にかけてのガンダーラ地方には、明らかな曲頸であったり微妙な曲頸であったりする楽器の他に直頸もあります。アフガニスタン西部は古代からペルシア文化圏でもありましたから、曲頸はペルシアからの移入で直頸はインドから、で話は落ち着きそうですが、ガンダーラの直頸がインドより古い可能性は皆無ではありません。
 他方、アフガニスタン以西、果てはスペインに至るまで存在する西域琵琶は、ほとんど曲頸です。そしてその伝播の出発点は、定説どおり古代ペルシアであろうと思われます。東西に広がる以前、直頸の楽器が多く存在していた各地にとって、「曲頸」のアイデア(同じ張力でも弦の余韻と立ち上がりが顕著に向上する)は古代ペルシアの大発明ともいえます。しかし、西域の曲頸琵琶には、四弦の他、五弦、六弦、七弦、八弦もあり、北アフリカでは、四弦がむしろ少数派の時代もありました。
 したがって「直頸=インド系=ほぼ正解」「曲頸=ペルシア系=正解」ですが、「五弦=直頸」「四弦=曲頸」「五弦=インド系」「四弦=ペルシア系」ということではないのです。正倉院の琵琶の「捍撥(かんばち。撥から表面板を守るための絵画で装飾した皮や布の帯)」には、「直頸四弦琵琶」もしっかり描かれています。(若林忠宏『日本の伝統楽器―知られざるルーツとその魅力』ミネルヴァ書房2019:105-06)

 なお若林著が「そもそも『リュート』は、西アジアの琵琶が伝わったもの」(p.11)と説いているように、ヨーロッパの古楽器リュート」は琵琶と親縁関係にあるらしい。小泉著も次のように書いている。

 とにかく、インドから、さらに西のほうに目を向けてみますと、たいへん琵琶によく似た楽器が現われてきます。それは今日のイラン、トルコ、あるいはアラブ諸国イラク、シリア、エジプト、モロッコなどで使われている、ウードという楽器です。このウードというのはアラビア音楽で一番重要な弦楽器で、日本の琵琶とよく似た形をしていて、演奏法も中国の琵琶のように自分の手の指ではじくのではなく、細長い撥を使うということや、首がやはり、うしろの方に曲っているということなど、たいへんよく似ています。(略)
 さらに目を西のほうに向けていきますと、アラビアのウードがヨーロッパに入っていったと思われる、よく似た楽器がたくさんあります。特に東ヨーロッパなどでは、いまでもそれをラウドと呼んでいるところもありますし、また、南ヨーロッパのスペインなどでは非常によく似た形のもので、しかしマンドリンのようなフレットのついた楽器のことをラウタなどと呼んでいまでも使っています。こういったものが発達して、完全にヨーロッパの楽器になったものが、リュートと呼ばれるものです。
 リュートは国によっていろいろな呼び方があります。ドイツ語ではLaute(ラウテ)、イタリア語ではliuto(リウト)、フランス語ではluthe(リュト)、英語ではlute(リュート)というようにいろいろな呼び方がありますが、これらは全部アラビア語のウード、それに定冠詞をつけてエルウード(elud)、こういう言葉がなまってできたものですから、アラビアとヨーロッパのリュートとの結びつきは非常にはっきりしています。さらに、ほかの楽器と混って、今日のマンドリンだとか、ギターというヨーロッパ楽器ができあがったと想像されております。(小泉文夫『日本の音』pp.169-72)

 リュートといえば、イタリアのレスピーギによる「リュートのための古風な舞曲とアリア」が想起される。とりわけ第3組曲の第1曲「イタリアーナ」は2007年ごろクルマのCMの挿入曲として使われたのでよく知られるようになったが(第3曲の「シチリアーナ」なども有名)、この作品は16~17世紀のリュート用の楽曲をレスピーギ弦楽合奏のために「編曲」しただけで、「リュートのための」とうたってはいるものの、そもそもリュートで奏される作品ではない。リュートは18世紀中にはいったん「滅びて」しまっているからだ。
 ちなみに「リュート」と「クラシック」との複雑な関係について述べたものとして、星野博美『旅ごころはリュートに乗って―歌がみちびく中世巡礼』(平凡社2020)がある。最後にそれを引いておく。

 日本の音楽教育で刷りこまれたクラシック観を基準にしたら、リュートはクラシックには入らない。リュートの繊細で小さな音色は、金管楽器鍵盤楽器には太刀打ちできず、楽器の熾烈な生存競争から脱落した。バッハと、同時代に生きたヴァイスを最後に、作曲家たちはリュート曲を作らなくなったといわれる。ヴァイスとバッハの死んだ十八世紀半ばを境に凋落の一途をたどり、二世紀以上の深い眠りについた。リュートは絶滅した、といわれがちな所以である。
 過激な表現をするならば、リュートは、いわゆる「クラシック」に殺されたともいえる。
 しかしながらCDショップに行けば、リュートはクラシックコーナーの片隅の「古楽」や「アーリーミュージック」に分類されている。自分を殺した相手と一緒にされ、さぞ居心地が悪かろう。
 リュート界や古楽界の人々の、クラシックとの距離感はどうなのだろう。私から見ると、やはりクラシック畑出身の人が多く、純粋にこの楽器に魅了された、クラシックをやっていたが何らかの理由で飽き足らなくなった、あるいはラッシュアワーを避けて通勤する人のように、すいた電車に乗り換えた、という人が多いように見受けられる。(pp.25-26)

*1:東山氏によると、唐の時代区分は文学史などのそれとは異なっており、「初唐」(618-712)、盛唐(712-781)、吐蕃支配期(781-848)=中唐、張氏支配期(848-907)=晩唐、というような分け方をするという(p.108)。