川合康三訳注『白楽天詩選(上)』(岩波文庫)が出た。ついに真打登場、といったところか。唐宋代の「詩選シリーズ」(岩波文庫)は、一人一冊が基本になっているが(李白、杜甫、蘇軾、柳宗元、杜牧、陸游、李商隠、李賀など、おもいつくものはみんなそうだ*1)、白居易は上下二分冊で出るようだ。
川合先生は、昨年一月に『白楽天―官と隠のはざまで』(岩波新書)を出した。その本は、「白楽天を読むために――あとがきに代えて」によると、『李商隠詩選』(岩波文庫)の訳注に難渋していた間、編集担当者に白居易の話をしたことが実現化したものだという。それからさらに話がすすみ、訳注を出すに至ったとおもわれる。
因みにいうと白居易の作品は、杜牧と同様、『唐詩選』には一篇も採られていない。これは、『唐詩選』が初盛唐を重視したことにもよるのであろうが(一方、中晩唐を重視した『三体詩』には李白や杜甫の詩が採られていない)、親友元稹の作風とともに「郊寒島痩、元軽白俗」(蘇軾「祭柳子玉文」)などと評されたとおり、本土での評価は当初必ずしも高くなかった。
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さて白居易といえば――、最新の研究によっていろいろ手直しされるべき部分も恐らくあるのだろうが、川口久雄『和漢朗詠集 全訳注』(講談社学術文庫,以下「文庫本」)*2がハンディで重宝している。白文や典拠を併録する川口久雄 志田延義校注『和漢朗詠集 梁塵秘抄』(岩波書店,以下「大系本」)とは少し訓み方を異にする部分もあるが、「大系本」が補注でも言及しない語義の説明がなされていたりする(たとえば巻上「春―立春」部の5に見える「計会」に米沢本『詩学大成抄』を引くなど。この語は「秋―十五夜附月」245などに見られるように、日本で受容された白話語の一とみられる。そのほか語レヴェルの影響ということでいうと、巻下「猿」部455は白居易「送蕭処士遊黔南」の頸聯であるが、第五句に「江従巴峡初成字」とある。巻上「春―三月三日附桃」部の39〈菅原道真〉・41〈藤原篤茂,『江談抄』第四に引く〉に曲水の宴を詠んだくだりで、水の流れを「巴」の字形に擬えるのは、まさにその影響に依るものだろう)。
ついでに、『和漢朗詠集』巻上「春―霞」部75は、白居易「早春憶蘇州寄夢得」の頷聯であるが、第三句「霞光曙後殷於火」について、註釈には「中国では(略)朝やけ、夕やけをいうのである」(「大系本」p.66頭注)、「日本の『かすみ』とは異なる」(「文庫本」p.69)とある。このような、中国の「霞」と日本の「かすみ」とは別のものだ、という見方は近世になってやっと共有されるようになったものらしい。その違いについては、新村出『語源をさぐる』(講談社文芸文庫など)所収の「朝やけ・夕焼け、あけぼの・夕ばえ」のpp.69-70(文芸文庫版、以下も同じ)、「霞と霧」のp.85が言及する所でもあったが、小島憲之『漢語逍遙』(岩波書店)所収、「『霞』と『かすみ』をめぐって」(pp.174-198,初出;『萬葉学論攷』平成二年)を挙げないわけにはゆくまい。日本の上代文献で「霞」が「朝焼け」などの義で用いられていることも立証されている。
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話を戻すが『白楽天詩選(上)』には、かの「長恨歌」「琵琶引(行)」も収録されている。前者「長恨歌」についていうと、元稹に「行宮」があって、李商隠にも「馬嵬」がある*3という例からもわかるように、玄宗楊貴妃の故事を詠むことが唐代には流行した。もっとも「馬嵬」は、ロマンティックどころかずっとシニカルな内容ではあるけれども(なにしろ、別世界にあるという「九州」なんて疑わしいものだ、という句から始まるのだから)。さらに陳鴻に「長恨歌伝」あり、こちらも岩波文庫版の今村与志雄訳『唐宋伝奇集(上)』で邦訳が読める(『文苑英華』所収のものに白居易「長恨歌」は引かれないので、校註者の今村氏は、魯迅が『白氏長慶集』からそれを採って補ったものに拠っている。その際『唐人小説』なども参照したという)。この一篇、元稹による私小説(?)「鶯鶯伝」と仲良く収録されているのが面白い。
「長恨歌」の特色ある訳としては、魚返善雄訳『中国名詩選』(學生社新書)所収の「尽きぬ恨み」(pp.204-213)がある。魚返は従来のリズムやライムを重視していて、「語学的註釈」と「文学的翻訳」とを区別し、後者にもとづいた清新な訳を心がけている。冒頭を一寸紹介してみると、「漢のみかどは色このみ、御代(みよ)の幾とし夢を追い。楊(よう)が屋敷(やしき)の乙女ごは、すがた知られぬ奥ごもり。われも誇りの生まれつき、ある日お召しの玉のこし。ちらり笑(え)顔のあだすがた、ならぶ宮姫(みやひめ)顔おおい」、といった具合である。
片山哲『大衆詩人白樂天』(岩波新書,1956)は、首相経験者が書いたものとして異色だが(最近では細川氏が伝統回帰的な著作をいろいろとものされているが…)、「長恨歌」は取り上げていない。とはいえ、「烈しき政治諷刺」とか「婦人に味方して歌う」とかの章を設けるように、片山の政治的バックボーンや時代背景がうかがえて興味ふかい。どちらかというと片山は、閑適詩よりも諷喩詩を好んだもののようである。
また武部利男の『白楽天詩集』は、「長恨歌」を「ながいうらみのうた」として訳出しているそうだが、実をいうと未見。高島俊男『本と中国と日本人と』(ちくま文庫)などでも紹介されているが(pp.21-25)、固有名詞(これはカタカナで書かれる)を除けばすべて平仮名で訳されているというので有名だ。これには東京創元社版(1957)、六興出版(1981)の二種があり、前者は二十二首、後者は百二十六首を収めるという。川合先生の『白楽天』にも示してあるが、平凡社ライブラリーにも入っていた(p.212。ただし現在品切)。どの版でもよいので読みたいのだが、これが意外と見つかりにくい。

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*1:なぜか蘇軾のみ号で『蘇東坡詩選』。李賀にも、『李賀詩選』〈品切〉のほかに楽天と同じく字を冠した『李長吉歌詩集』があるが、こちらは上下二冊本である。
*2:『千載佳句』やこの『和漢朗詠集』は、『全唐詩』の補遺にも役立った。白居易の佚篇を載せていたため、特に前者は『全唐詩逸』(本土に逆輸入された)が編まれた際、大いに参照された。http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/handle/10129/4322なども参照。
*3:『三体詩』に入っているし(朝日文庫版『三体詩 二』pp.82-85)、川合先生の『李商隠詩選』pp.160-65にも収める。