総勢87名の文章を収める佐藤聖編『百鬼園先生―内田百閒全集月報集成』(中央公論新社2021)には、たとえば河盛好蔵の文章であれば3本、阿川弘之や江國滋、安岡章太郎の文章も同じく3本、川村二郎や池内紀の文章は4本収録されているのだが、中村武志による文章は最多の6本が収録されている。その内訳は、講談社版百閒全集の月報に寄せたものがひとつ(「百鬼園先生の黒前掛」)、福武書店版百閒全集の月報や巻末に載ったものがみっつ(「阿房列車のこと」「郷里岡山に文学碑建つ」「全集完結後記」)、福武文庫の巻頭文・解説文がふたつ(「内田百閒の作品を新字、新仮名づかいにするについて」「百鬼園先生の錬金術」)、である。「内田百閒の作品を新字、新仮名づかいにするについて」は百閒生誕100年に当る1989年に書かれており、同題のものが内田百閒『冥途・旅順入城式』(岩波文庫1990)の巻末にも収録されている。内容はほぼ同じで、要は、百閒の生誕百年を機に「著作権者の遺族に乞うて、文庫にかぎり、新漢字、新仮名づかいにしていただ」いた、ということが述べられている(百閒は生前、新仮名新漢字を拒否し続けていた)。
「百鬼園先生の黒前掛」に書いてあることは、かつてどこかで読んだような気がしていたのだが、中村は同じようなことを「百鬼園随筆との出会い」(『内田百閒と私』岩波同時代ライブラリー1993所収)でも書いている。あるいはこれで読んだのかも知れない。『内田百閒と私』は、『百鬼園先生と目白三平』(旺文社1986)を「改題し、加筆、改稿したものである」といい、黒澤明の遺作となった『まあだだよ』の公開に合わせる形で復刊されたものであるらしい*1。ちなみに同書巻末の「われ百閒を超えたり――あとがきにかえて」には、「一九九二年十二月十一日」の日付がみえるが、これは中村が亡くなったまさにその日である。日付は編集部で入れたのかもしれないが、いずれにしても、これが絶筆となったのだろう。
中村武志といえば、新古書店で目白三平シリーズの自選集のようなもの(講談社文庫)を買ったこともあるが、とりわけ印象に残っているのは、古書市で入手した『埋草随筆』(私家版1951年刊)である。雑賀進*2への献呈(?)署名入りの再版本(1952年1月30日刊)で、500円だった。徳川夢声、源氏鶏太、古谷綱武、週刊朝日の書評(の一部)が転載された帯が巻かれていたことや、序文を百閒が書いていることなどに惹かれて購ったのである。「埋草」というのは、旧国鉄の社内報「国鉄」の埋め草的随筆を主として収めることに由来する*3。
さて『埋草随筆』には「図書目録」という文章が収められていて、そこに次のようにある。
その日は丁度百閒先生の随筆集「無絃琴」が発売された日であり私は幾度も手に取つて本の背をなでたり、目次を覗き見したりして暫くはそこを立ち去ることが出来なかった。向うからやつて来た男が、今私が書棚へ戻したばかりの「無絃琴」を取り上げ、一寸開いて見るや否や乱暴に函へ入れ、投げつける様に書棚へ押し込んで出て行つた。私は店員の見てゐぬ隙を狙つて、その「無絃琴」の函の中からはみ出てゐるパラフイン紙を取りはがし、丁寧に皺を伸ばしてから本を包み、書棚へそつと返したところが、「御親切にありがたうございます」とささやく様な女の声が耳元でした。この(丸善の―引用者)女店員は、何処か店の隅で先刻から私の行動を仔細に監視してゐたらしい。私が「無絃琴」に執心して手に取つたり撫で廻していつまでも立ち去らぬ様子を見て、その女店員は私が万引をするのではないかと思つたのにちがひない、と思ひ当つたら私は思はず赤面した。(pp.21-22)
この『無絃琴』、どういうわけか、「百鬼園随筆との出会い」では『百鬼園随筆』だったことになっている。当該箇所を引く。
その日――昭和八年十一月初旬、いつものように丸善書店の新刊書の棚から、内田百閒の『百鬼園随筆』(昭和八年十月・三笠書房刊)を取って、何気なく拾い読みをしたところが、もはや本を棚に戻すことができなかった。百閒の文章をはじめて読んだのだが、その独特の論理、レトリック、わかりやすい文章でありながら非凡な表現、無駄のない的確な文体、筆をおさえご本人は絶対に笑わないユーモアと飄逸(ひょういつ)と滑稽と諧謔(かいぎゃく)とが、『百鬼園随筆』のいたるところから湧き出て来るようであった。
『百鬼園随筆』を棚に戻したけれど、釘づけになったようにその場を立ち去ることができなかった。再び私は本を手に取り、背表紙をなでて見たり、目次を覗いたり同じことを繰り返した。
そこへ向こうからやって来た男が、私が書棚へ戻したばかりの『百鬼園随筆』を手に取り、ちょっと開いて、ろくに見もしないで乱暴に箱へ押し入れて、書棚の隙間へ無理矢理突っこんで出て行った。
私は、店員の目を盗んで、またもや『百鬼園随筆』を再び手に取り、箱と本の間からはみ出ているカバーのパラフィン紙を取りはがし、丁寧に皺(しわ)をのばしてから本を包み、書棚へそっと戻したところが、
「ご親切にありがとうございます」
ささやくような女の声が耳元でした。
この女子店員はどこか店の隅のほうで、先刻から私の挙動を子細に監視していたらしい。『百鬼園随筆』に執心し、手に取って撫でまわして、いつまでも立ち去らぬ様子を見て、万引をするのではないかと彼女は疑っていたにちがいないと思い当たった私は思わず赤面した。(「百鬼園随筆との出会い」『内田百閒と私』pp.38-40)
「百鬼園随筆との出会い」は、「図書目録」よりもはるか後に書かれたものらしいので、「図書目録」の記述の方が事実に近いのではないかとおもわれる(百閒の存命中に書かれたと云うこともあり)。このような齟齬があるのは、『百鬼園随筆』との出会いの衝撃をさらに劇的なものに仕立て上げたかったためなのか、単なる思い違いなのか、そのあたりのことはよくわからない。しかし、いずれにせよ中村が、『百鬼園随筆』によって内田百閒を初めて知り、その文章に心酔したという事実に間違いはあるまい。この『百鬼園随筆』を是が非でも欲しくなった中村は、「名曲を楽しむのはしばらく我慢しよう」と決意して蓄音機を質に入れ、借りた金でその日のうちに『百鬼園随筆』を購うこととなる。そして「ものにつかれたように」一晩で読了、その興奮もさめやらぬまま、古本屋で探し出した「『冥途』『旅順入城記』を夢中で読」んだという(「百鬼園随筆との出会い」「われ百閒を超えたり」)。
食い違いといえば、中村が初めて百閒に会ったときの描写も、なぜか文章によって違いが有る。まずは「百鬼園先生の黒前掛」(講談社版全集第1巻月報)から。
なんとかして、一度先生にお目にかかりたいと思うようになった。叔父の荒井袈裟之助が、小山書店主の小山久二郎さんから、先生への紹介状を貰ってくれた。それを持って、昭和十二年六月二十五日に、牛込の合羽坂のお宅をおたずねした。
恰幅のいい先生は、当時は丸坊主で、髭をはやしておられた*4ので、ありていにいうと、大入道という印象を受けた。浴衣を着て、端坐しておられる先生の前にかしこまった私は、中村武志でございますと自己紹介をしたまま、あとの言葉が出なかった。
軽くうなずいただけで、先生は何もおっしゃらない。何時間も経ったように思われたが、実際は数分にちがいなかった。お生まれは長野県だそうですね、とお聞きになった。顔をあげ、はいと答えて、また私は畳のへりに目を落した。再び長い時間が過ぎたようであった。ご郷里はどこの駅で降りるのですか。先生の口調は、重々しかった。塩尻駅でございます。
そのあと二、三、おたずねになったが、それがどんなことであったか、今は記憶にない。時々大きな目でぎょろりと私をご覧になる大入道の大先生がこわくなって、またお出で下さいとおっしゃったが、再びおたずねする勇気がなかった。(『百鬼園先生―内田百閒全集月報集成』pp.29-30)
次に引くのは、「百鬼園随筆との出会い」にみえる記述である。
東京麻布小学校の教員をしている伯父の荒井袈裟之助は、安倍能成氏に師事していた。その安倍氏が百閒先生と親しいことを知り、おそれ気も無く安倍能成氏から紹介していただいた。
昭和十二年六月二十五日(金曜日)午後一時にお出でいただきたいという返事が、依頼の時とは逆まわりの伝言で私のもとに届いた。
この時百閒先生は、牛込区仲之町の合羽坂(かっぱざか)に住んでおられた。合羽坂を登って行くと、まだ登りきらない中途の左側であった。一時二十分前に私は百閒邸の前に到着したが、丸ビルの千疋屋で求めた枇杷(びわ)の包みを提げて、約束の時間になるのを待っていた。真夏のように暑い日であった。
座敷へ通された。長い時間待たされたように思ったが、実際は一、二分にちがいなかった。かしこまっている私の一メートルほど前に、のっそりとあらわれた百閒先生が黙って座られた。坊主刈りの大きな頭で、ぎょろりとした眼でじっと私を見ておられる。
「中村武志でございます」
しばらく間をおいて先生は、
「よくお出でになりました」
といったまま再び私のほうへ顔を向けて黙っている。
何を申し上げたらいいのか、私には見当がつかない。何か口をきらなければならないとあせるのだが、頭の中が空っぽになっていうべきことが何もなかった。
「お国はどちらです」
ぽつりと百閒先生がいわれた。
「はあ、信州、長野県でございます」
それで会話が途切れてしまった。
「信州というとアルプスですが……」
「はあ、私の実家からは、北アルプスの槍、穂高、乗鞍、白馬、常念などが眺められます」
その後百閒先生からのご質問はなかった。私のほうから何かおたずねするのは恐れ多いことであった。
「今日はどうもありがとうございました。これで失礼いたします」
話のつぎ穂を失った私が挨拶をすると、
「朔日(ついたち)と十五日が面会日にしてありますから、いつでもお好きな時にお出で下さい」
と百閒先生がいわれた。(『内田百閒と私』pp.43-45)
かたや小山久二郎、かたや安倍能成。まずその紹介者からして異なるのだが、細かい点に至るまで色々と相違が有る。荒井袈裟之助が中村の「伯父」なのか「叔父」なのかということさえ判然しない。それに、「百鬼園随筆との出会い」の方が後に書かれた(と思われる)にしては、やたらと描写が細かい。ちなみに、最近出た山本一生『百間、まだ死なざるや―内田百間伝』(中央公論新社2021)は、前者「百鬼園先生の黒前掛」の記述を採用してはいる(pp.430-31)ものの、「伯父を通じて」(p.430)と書いている。
ともかく、中村は百閒との初の面会から五年後の昭和十七(1942)年にふたたび「拝謁の栄に浴」することとなり、以後百閒が歿するまでの約三十年間、百閒を文学上の師として親しくつきあうようになる。
冒頭で紹介した中村の『埋草随筆』の序文を百閒が書いていることには少し触れたが、中村と百閒との出会いには上記のようなゆくたてがあった。もっとも、百閒は序文を書くことを何度も拒んだという。このことについて詳しく述べているのが、「百閒先生の序文をいただく」(『内田百閒と私』)である。その内容を紹介する前に、中村がなぜ埋め草的文章を書くに至ったか、簡単に述べておく。
百閒作品との衝撃的な出会いを経た中村は、勤め先の東京鉄道局の社内報「運輸月報」に随筆を書くことを、編集者で友人の小沢清史からすすめられる。そこで書き始めた随筆はことごとく百閒作品の摸倣で、九歳年下の文学青年・甘木雪山*5に、百閒の摸倣をやめてはどうか、と窘められる。そこで一旦は「筆を折って」しまう。約二年後に、中村は敬愛する百閒に会うことがかなうのだが、これは先に記したとおりだ。
さて敗戦を経て、国鉄内部には地方鉄道局ごとに九つの組合が生まれた。鉄道当局は組合の左傾を防ぐという意図のもと、社内報を発行しようということになる。中村はその編集長に択ばれる。部下はたったの一人、例の甘木君だけだった。中村は、編集方針をめぐって幹部たちと対立するなどしたが、なんとか自分の意見を押し通し、昭和二十一年十月十日に創刊号を完成させる。その編集や割付は実質的に甘木が担い、今度はその甘木から、埋め草的文章を書くように頼まれた――という訣で、中村は十年ぶりに筆をとることになったのだそうだ。つまり、筆を折るきっかけも、再び筆をとるようになったきっかけも、甘木の発言だったということになる(以上「編集権を奪われる」『内田百閒と私』による)。
とまれ、それらの文章をベースとして、『埋草随筆』は誕生することとなる。
国鉄本社の社内報「国鉄」の埋草のほか、国鉄部内の新聞や雑誌に載せたものを一緒にすれば、昭和二十六年にはちょうど単行本一冊くらいの分量になった。そこで編集者時代の記念として、随筆集を自費出版し、先輩、同僚、友人たちに差しあげようと考えた。女房に相談したら、
「ご冗談でしょう。食糧事情も少しはよくなりましたけれど、でも栄養失調にならないようにするためには、今のサラリーでは食費だけで大赤字ですよ。下手な文章を集めて、自費出版するなんて、狂気の沙汰というものですわ」
たちまち反対されてしまった。
そうなると、儲ける必要はないが、印刷費だけは何とか捻出しなければならない。差しあげるつもりを、今度は買っていただくことに変更した。
懇意にしている静和堂印刷所の竹内常治郎氏に頼んで、特別に安く印刷して貰うことにした。その上費用のかからぬように文庫判にし、横綴(と)じの変型で、体裁を整えることにした。装釘と挿絵は、親しくしている高橋忠弥画伯が、無料で描いて下さることになった。(「百閒先生の序文をいただく」『内田百閒と私』p.127)
「買っていただくことに変更した」とあるから、わたしの手許にあるものも、著者献呈本ではなく、雑賀に頼んで買ってもらったものなのかもしれない。
印刷その他の準備が整ったところで、私は百閒先生にお願いして、序文を書いていただこうと考えた。
ほかの用事でおたずねしたついでに、おそるおそるお願いすると、
「序文を書くのはイヤです」
と、百閒先生は一言おっしゃっただけであった。
しばらく経ってから、未練がましく、再び懇願すると、
「イヤダカラ、イヤデス」
といって、黙っておられる。
もはや、取りつく島がなかった。
煙草を二、三本吸ってから、百閒先生が、序文というものについて、ご自分の考えを述べられた。
自分は今までに、幾人もの人から序文を書いて貰いたいと頼まれたが、みんな断って、一度も書いたことがない。それはともかくとして、その理由をいうと、序文でどんなに褒(ほ)めようと、提灯を持とうと、その反対にどんなに悪口をいおうと、本の内容にはいささかも影響を与えるものではない。読者は序文に関係なく、著者の書いた文章に感動し、あるいは駄作だと考えるだけだ。序文ほど無駄なものはない。当然のことながら、こういう意味のことを言われた。実は森田たまさんにも序文を頼まれたがお断りして、その代わり、本の題を「木綿随筆」とつけて差しあげた。内容がいいから、本の題名に関係なくたいへん評判になった、と先生はつけ加えられた。
その日は納得して帰って来たけれど、次にお目にかかった時、序文がいただけなくて残念だというような意味のことを何気なく申しあげると、
「いや、書いてあげましょう。その代わり、あんたさんが希望なさっているような内容とはちがうものかも知れませんよ」
といわれた。一カ月後に百閒先生から頂戴した序文は、在来のものとは全然ちがっていて、読者に向かってではなく、むしろ私に対する文章道についてのきびしい教えであり、訓示でもあった。先生も苦心なさった文章なので、作品同様単行本『無伴奏・禁客寺』の中に作品として収録されている。(同前、pp.128-29)
これに続けて件の序文が全文引用されているのだが、それは省略に従うことにする。ただ、岩波ライブラリー版の引用文は、元版(旺文社版『百鬼園先生と目白三平』)を踏襲した引用ミスなのかどうか定かでないが、原文と2箇所違っていて、原文で「ドウ云フ事」「私ガオ請合ヒ申ス」なっているところが、それぞれ「ドウイフ事」「私ガオ請ヒ申ス」となっている。その事実だけここに記しておく。
『埋草随筆』の完成後、中村は常時それを三、四冊持ち歩き、友人や知人に会うたびに買ってもらっていたそうだ。自費出版なので取次を通すことはできなかったが、田辺茂一と知り合いだったこともあり、まずは新宿の紀伊國屋書店に三十冊ほど並べてもらい、そのほかにも「有楽町駅前の丸の内書店、新橋の三壺堂、神田の東京堂、三越本店の書籍部、丸善の本店、拙宅の近所の紙魚書房、目白書店の七軒に、それぞれ二十冊ずつ預けた」という(「著者は叱られる」『内田百閒と私』p.133)。
そして『埋草随筆』は、「週刊朝日」の書評欄で紹介されるといった「思いがけないことが起こ」り(同p.134、手許の『埋草随筆』再版本の帯に週刊朝日の評が転載されていることはさきにも述べたとおり)、そのために「赤字がごくわずかで済んだ」のだった(p.136)。
ところが、一年おいて昭和二十八年に、私にとって、再び思いがけぬ、その上ありがたいことが持ちあがった。表紙の装釘をした高橋忠弥画伯が、六興出版社の編集の人に、私家版『埋草随筆』の話をしたら、それが社長の吉川晋氏に伝わり、ここからあらためて出版されることになる。吉川社長は、昭和四十三年に亡くなったが、吉川英治の弟さんである。
『埋草随筆』以後に書いた短い随筆「沢庵のしっぽ」などに、「目白三平の生活と意見」という小説を加えて、『沢庵のしっぽ』という変な題にして、六興出版社から出版した途端に、思いがけないほど売れだした。八人の作家、評論家の諸先生方が新聞や雑誌の書評欄で書いてくださったせいだろう。(同pp.136-37)
「沢庵のしっぽ」は読んだことがないのだが、そのタイトルは、百閒の「風の神」(『百鬼園随筆』)に出て来る「澤庵の尻尾」に由来するものでもあろうか。とまれ、『埋草随筆』を出したことが、中村の兼業作家としてのスタートになったといえる。
また、中村が出版史上にその名を刻んでいるのは、「目白三平」シリーズがヒットしたことに加えて、光文社「カッパ・ブックス」の創刊を飾った、ということも挙げられるだろう。
ただこの事実は、たとえばその関連書、新海均『カッパ・ブックスの時代』(河出ブックス2013)に、
いずれにしても、一九五四年一〇月に伊藤整の『文学入門』と、中村武志『小説 サラリーマン目白三平』の2冊で「カッパ・ブックス」はスタートした。編集長は弱冠二六歳の塩浜方美だった。(pp.37-38)
と、ごく簡単に触れられるにすぎない。「カッパ・ブックス」生みの親・神吉晴夫の著作『カッパ軍団をひきいて』にいたっては、「伊藤整の『文学入門』と『サラリーマン目白三平』の二冊をもって、カッパ・ブックスは創刊された」と、著者名すら出していない。実はそれには曰くがあり、神吉と中村との間には、印税をめぐってひと悶着あったというのである。「もの書きはつらいよ」(『内田百閒と私』)は、その経緯について詳しく述べている。そこには神吉への率直な(しかし、かなり手厳しい)批判もみられて興味深いが、ここでの詳述は避ける。
*1:同時代ライブラリー版の帯に、「黒澤明監督『まあだだよ』の世界 全国東宝系公開中!」などとあり、主演の松村達雄の写真が載っている。
*2:鉄道日本社の社長だった人物。同人は『埋草随筆』pp.81-82に登場している。『百鬼園先生―内田百閒全集月報集成』にも、講談社版全集の月報に載った雑賀の文章が収められている(pp.75-77)。『実説内田百閒』(論創社1987)という著作もあるそうだが未見。
*3:ちなみに『埋草随筆』冒頭の「堀立(ママ)小屋の百閒先生」は、百閒歿後に増補され、『内田百閒と私』に「百閒先生弟子の代筆」という文章として収められた。なお「掘立小屋の百閒先生」は、「『小説新潮』二十五年三月号に書かせていただいた」作品(中村武志「榜葛剌(べんがら)屋盛衰記」『内田百閒と私』p.56)だという。
*4:百閒と髭との複雑な(?)関係については、「髭」(『百鬼園随筆』)で百閒自身が書いている。
*5:この「甘木」というのは、これまた百閒の書きぶりを真似たもので、「某」という匿名のつもりなのだろう。