「~を鑑み」誤用説

 かつて、某首相が「未曾有」を「ミゾーユ」と読んで*1話題になったことがあった。当時は、「『未曾有』は『ミゾウ』と読むのが正しくて『ミゾーユー』は間違いだ」という批判に止まるのがせいぜいで、「未曾有」が歴史的にどう読まれてきたかということは殆ど耳目を集めなかった。
 飯間浩明氏によると、

ただ、私とともに『三国』(『三省堂国語辞典』)の編集委員を務める塩田雄大(しおだたけひろ)さんの調査によれば、戦前には、「未曾有」には「ミゾユー」「ミソーユー」など、少なくとも6つの読み方のあったことが確認されているそうです(『放送研究と調査』2009年2月号)。(飯間浩明三省堂国語辞典のひみつ―辞書を編む現場から』新潮文庫2017:82)

といい、なるほど手持ちの内海以直『新編熟語字典』(又間精華堂1903)を引くと「ミソイウ」とあるし、大町桂月編『國語漢文 ことばの林』(立川文明堂1922)を引くと「ミソウイウ」とある。確かに明治・大正期にも、「これはミゾウと讀むので、わざ\/ミソウイウなど讀むは耳ざはりである」(大町桂月・佐伯常麿『机上寶典 誤用便覽』(春秋社書店1911:425)、「『ミソウユウ』と讀まず『ミゾウ』と讀む」(高野弦月『正續 誤りたる文字の讀方』尚榮堂1914:158)といった指摘はみられたけれども、そういう指摘があること自体、「ミソーユー」という読みがひろく行なわれた状況を示すものだし、指摘とはいえ「耳ざはりである」などと述べているだけで、それが何らかの「根拠」に基づく言葉とがめだったとも思われない。
 言葉の「正誤」を云々する際には、このように、後世になってから「誤」とされるに至ったものや言葉とがめの対象となったものが少くないことに留意しておく必要があるだろう。
 「人間(ニンゲン・ジンカン)」の読み分けなどもその最たる例かも知れない。すなわち、“「ニンゲン」と読むと「ひと」の義だが、「ジンカン」と読むと「世間、世の中」の義だ”、という言説である。
 この手の指摘がいつ頃生じたのかはわからないが、「たとえば、『人間』という字を、わたしたちは『にんげん』と読むが、漢文では『じんかん』で、俗世間の意味である」(安達忠夫『素読のすすめ』ちくま学芸文庫2017←カナリア書房2004;146)、「日本語では『人間』を今『にんげん』と読むが、古くは『人間』は『じんかん』で『世間・世界』の意である」(加藤重広『日本人も悩む日本語』朝日新書2014:43)など、最近の本からも幾つか拾える。
 しかし例えば大槻文彦言海』(吉川弘文館1904)は、

「にん-げん」(一)ヨノナカ。世間。「―萬事塞翁馬」閑看―得意人」
(二)佛経ニ、六界ノ一、即チ、此ノ世界。人間界。人界。
(三)俗ニ、誤テ、人(ヒト)。

という語釈を示し、むしろ「人間=ニンゲン」を「ひと」の意味で捉えることを俗用としており、しかも、「ジンカン」という読みを掲出しない。少し時代が下がるが、服部宇之吉ほか『修訂増補 詳解漢和大字典』(冨山房1940)でも、

【人間】ニンゲン(イ)ひとの世、この世。人世、世間。(略)(ロ)(邦)ひと、人類。「――ノ力。」

となっていて、「ニンゲン」で両義を表していたことが示される。こちらにも、「ジンカン」という読みは見えない。
 少し遡って、宇野哲人『明解漢和辞典【増訂版】』(三省堂1927)で「人間」を引いてみると、「ジンカン」「ニンゲン」の二つを挙げ、「ジンカン」は「よのなか。人世」、「ニンゲン」は「ひと。人類」として区別している。この頃から、「世間」を意味する場合には特にこれを「ジンカン」と読んで漸く区別するようになったとも考えられるが、そもそも、「ジンカン」「ニンゲン」の読み分けは、「悪(アク・オ)」「楽(ラク・ガク)」「度(ド・タク)」「易(イ・エキ)」などのごとく音の相違が意味の違いと対応しているものとは異なり、単に、漢音系か呉音系かというだけの違いであるはずだ。
 ちなみに、文化庁編『言葉に関する問答集【総集編】』(大蔵省印刷局1995)は、「人間、到る処、青山在り」の「人間」の読み方について、「『ジンカン』と読むことによって誤解を防ぐ方が好ましい読み方だ」が、「『ニンゲン』と読んで『ひと』と解釈し」てもかまわない(p.401)、と述べている。
 さて、ここ十年以上ちらほら目につく言葉とがめで、このところ特によく見聞きするようになった*2ものがある。
 「『~に』鑑み」を「正」、「『~を』鑑み」を「誤」だとする指摘である。そういった趣旨のブログの記事やツイートが、なぜか多く見られるのだ*3。しかもこれが、世代を問わず広くなされる誤用指摘なのである。
 結論からいうと、「~に鑑み」「~を鑑み」のいずれも誤りではない。しかし、なぜこのような言葉とがめが生ずるに至ったのかは、まだよくわかっていない。
 まず、手近な現行の国語辞典をいくつか参照してみると、西尾実ほか編『岩波国語辞典【第八版】は「先例に鑑みて」「時局を鑑みるに」という作例を、小野正弘編集主幹『三省堂 現代新国語辞典【第六版】』は「時局に鑑みて」という作例を、北原保雄編『明鏡国語辞典【第二版】』は「国際情勢を鑑みるに楽観は許されない」という作例を、山田忠雄ほか編『新明解国語辞典【第七版】』は「時局に鑑みて」という作例を、新村出編『広辞苑【第七版】』は「時局に鑑みて生産の増大をはかる」という作例をそれぞれ示している*4
 これらだけを見ると、「鑑みて」の場合には「『~に』鑑みて」の形が、「鑑みるに」の場合には「『~を』鑑みるに」の形が「正しい」のだ、と誤解する向きもあるだろうが、少なくとも、「~を鑑み」の形も誤用ではない、ということはわかるはずだ。
 後者の「鑑みるに」については、これを「~に鑑みるに」とすると「に」が前後で重複してしまうので、それを避けるため「~を鑑みるに」とするのが自然なのだ、という見方もできるだろう。一方で、前者「鑑みて」の場合も、松村明編『大辞林【第四版】』を引くと、

「来し方行く末をかがみて(=かんがみて)」〈謡・清経〉

という用例を拾っているし、『日本国語大辞典【第二版】』(以下『日国』)を引くと、

「臣が忠義を鑒(カンガミ)て、潮を万里の外に退け」〈太平記〔14C後〕一〇・稲村崎成干潟事〉

というのが見え、古典語の実例としてはむしろ「~を鑑みて」の方が目立っている。『日国』はその他にも、

「去(さる)天文是を鑑(カンガ)み名を改め」(浮世草子・新色五巻書〔1698〕五・三)
「此書を考(カンガミ)道をひらきふたたび帰路いたされよ」(浄瑠璃蘆屋道満大内鑑〔1734〕四)

と、「~を鑑み」の実例ばかり拾っている。
 なお『太平記』の例に関していえば、応永年間書写、大永~天文年間転写の「西源院本」(原文は漢字カタカナ交じり文)を底本にした岩波文庫本(2014-16刊)は「臣の忠誠を鑑みて、朝敵を万里の際に退け」(第十巻8「鎌倉中合戦の事」、『太平記(二)』:128)となっていて、多少の異同はあるものの、当該箇所はやはり「~を鑑みて」である。
 漢文訓読でも、「鑑+A」であれば「『Aを』かんがみる」と読み下すことが多いとおぼしい。
 まず諸橋轍次編『大漢和辞典【修訂版】』を引くと、「鑑止水 シスイニカンガミル」という読み下しにいきなりぶつかるが、典拠の『荘子』徳充符*5篇では「鑑於止水」となっているので、これは無視してよい。問題になるのは、先に述べた「鑑+A」の形で、例えば『千字文』中の「鑑貌辯*6色」を文選読した和訓*7は、「カムバウとかたちをかんがみて~」となっている(小川環樹木田章義注解『千字文岩波文庫1997:267)。
 また、戸川芳郎監修『全訳 漢辞海』(第四版)で「鑑」字を引くと、

(1)かんが-みる。
(ア)かがみに照らす。映す。
明鏡可鑑形 めいきょうハかたちヲかんがミルべシ〈秦嘉―詩・贈婦詩〉
(イ)教訓にする。いましめにする。
後人哀之而之不鑑之 こうじんこれヲかなシミテこれヲかんがミず〈杜牧・阿房宮賦〉
(ウ)識別する。
鑑機識変 きヲかんがミへんヲしル〈晋*8・皇甫真載記〉

などのごとく、いずれも「~をかんがみ」と読み下している。
 秦嘉の贈婦詩は、『玉臺新詠』に収められているので、念のため手近な文庫本で確認してみると、「明鏡は形を鑒(かんが)むべし」と読み下している(鈴木虎雄訳解『玉台新詠集(上)』岩波文庫1953*9:118)。
 これらによるならば、漢文脈でも、「に鑑み」ではなく「を鑑み」の方が優勢であったと思われるのである。
 しかしながら、理由はなぜかわからないのだが(これが実に不思議なところで)、近代になるとこの多寡が逆転してしまう。
 まず「青空文庫」内を検索してみると(ノイズを除くと)、

「~に鑑み」57件、「~にかんがみ」13件
「~を鑑み」4件、「~をかんがみ」3件

と、10:1で「~に鑑み」の方が圧倒している。もっとも「~を鑑み」には、「家に飼う鳥の淘汰に人の力をかんがみる」(井上円了「西航日録」四十三、1903)といった古い例もやはり見うけられる。
 次に、現代日本語書き言葉均衡コーパスの「少納言」で検索してみると、

「~に鑑み」202件、「~にかんがみ」621件
「~を鑑み」49件、「~をかんがみ」16件

となっており、やはり約12:1の割合で、「~に鑑み」の方が多くなっている。
 このように、近代以降は「~に鑑み」の使用例が「~を鑑み」のそれを圧倒しているので、「『~を鑑み』は使った(聞いた/見た)ことがないので『~に鑑み』の方が正しいのだ」、という類推が働きやすかったのだろう、と思われる。
 またこれは思いつきの域を出ないが、あるいは、「大東亜戦争終結に関する詔書」(いわゆる玉音放送)などの影響もあるのではなかろうか。その冒頭に「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ」というくだりがあるのはよく知られるところで、ある年代以上にとっては、これが、「~に鑑み」を「正しい」とする規範意識を強めるものとして機能した可能性もあるのではないか、と思われる。

千字文 (岩波文庫)

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全訳漢辞海 第四版

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  • 発売日: 2016/10/26
  • メディア: 単行本
玉台新詠集 上 (岩波文庫 赤 10-1)

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  • 発売日: 1953/05/05
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太平記(二) (岩波文庫)

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  • 発売日: 2014/10/17
  • メディア: 文庫

*1:報道では「ミゾユー」「ミゾーユー」と読んだなどといわれたが、実際にはこう発音していたようだ。

*2:新型コロナウイルス感染状況(に/を)鑑み延期(中止)します」などといった文脈で多用される機会が多いから、それに対する反応として多く見受けられるのではないかと思われる。

*3:一方で、「~を鑑み」を「誤」と見なすのはネット由来のデマだ、と主張する記事も僅かながら見つかる。

*4:ちなみに、「鑑みる」を「他」動詞とするか「自他」両用とするかは辞書によって揺れがある。

*5:大漢和は「府」に作る。

*6:「辨」と通用する。

*7:千字文音決』。その奥書によると「貞永・天福の比(一二三二-一二三三)の手書」を「元禄七年(一六九四)」に写したものという。

*8:『晋書』。

*9:手許のは2008年2月21日第9刷。

獅子文六「牡丹」のことなど

 「三田文学」連載の対談をまとめた、石原慎太郎・坂本忠雄『昔は面白かったな――回想の文壇交友録』(新潮新書2019)を昨年末に読んでいたところ、次のような箇所が目にとまった。

坂本 (略)文六さんって人は、「牡丹」っていう絶筆を書いてね。
石原 読んだ、読んだ。
坂本 小林秀雄が絶賛してたの。
石原 あれ面白い文章だったな。僕はね、認める人は認めるんですよ、高橋和巳なんかもいい作家だけどね、力量があって。(略)(p.30)

 これに触発されて、正月の帰省時に、実家から『牡丹の花――獅子文六追悼録』(非売品、1971)を持ち出してきたのだった。
 紺色の染和紙に纏われた瀟洒な函に入ったこの本は、阿川弘之芥川比呂志淡島千景、石川数雄、上野淳一、扇谷正造大佛次郎加東大介角川源義川口松太郎河盛好蔵岸田今日子北杜夫今日出海渋谷実、田村秋子、辻嘉一戸板康二徳川夢声永井龍男長岡輝子中野好夫中村伸郎丹羽文雄野間省一、見川泰山(鯛山)、水谷準、三津田健など、錚々たる顔ぶれの揃った追悼文集で、文六先生関連書のうちでも、わたしの特にお気に入りの一冊である。背や扉の題字は小林秀雄によるものだ。
 その冒頭に(正確にいうと、まず数ページの口絵のモノクロ写真があって、その後に)、獅子文六「牡丹」が収められている。初出は「昭和四十五年五月「諸君」」となっている。すなわちこれは、文六の死後、約五か月経ってから発表されたわけである。
 この文章について、追悼録中の小林秀雄「牡丹」は次のごとく述べている。

 文六さんの三回忌には、友人達で思ひ出話でも持寄り、本にまとめてお供へしたらといふ話が出て、編輯の人から本の題名につき、相談を受けた時、『牡丹』と題する故人の名文を思ひ、「牡丹の花」とでもしたらどうかと、口には出さなかつたが、心のうちでは直ぐ思つた。それほど『牡丹』といふ彼の文には、心を動かされてゐたのである。亡くなつて間もなく、こんなものが机の引出しにあつたと言つて、夫人(文六の三番目の妻・岩田幸子氏―引用者)から、原稿を見せられ、早速、関係のあつた雑誌に、遺稿として、載せてもらつたのであつた。(p.14)

 当の岩田幸子氏(1911-2002)は、著書で次のように書いている。

 岩田(豊雄。獅子文六のこと―引用者)の亡くなった後、大磯の書斎から、未発表の原稿が、いくつか出て来たので、小林(秀雄)先生に見ていただき、遺稿として雑誌に載せていただいたが、「牡丹」という一文を、たいへん褒めて下さった。葬儀の時、委員長をしていただき、追悼文集を作る時も、「牡丹の花」という題名を書いて下さった。思い返せば御礼を申上げることばかりである。(「獅子文六の友人たち」『笛ふき天女』*1ちくま文庫2018:242)

 これらによれば、「牡丹」が絶筆なのかどうかは判らないわけだが、しかし読んでみると、これが確かに、死の影のちらつく随想になっていて、絶筆であったとしてもさほど不自然ではないようにおもえる。文六の随筆のアンソロジーを編むとすれば、最後に配置したい名品である。
 ところで、昨年12月7日から今年の3月8日まで、横浜の県立神奈川近代文学館にて「収蔵コレクション展18 没後50年 獅子文六展」がやっている*2。「特別展」ではなくて「収蔵展」だから、専用の図録は製作されていないのだが、観覧すると、菊判サイズで観音折の簡単なパンフレットが附いてくる。
 また、これとは別に1部100円で買える館報があって、その最新第147号で、文六に関する文章をいくつか読むことができる。山崎まどか獅子文六の創作ノート」(pp.2-3)と、岩田敦夫*3「父と神奈川」(pp.3-4)と、古川左映子「展覧会場から―『獅子文六業』への転業」(p.5)との三本である*4。その岩田氏の文章も、文六の「牡丹」に触れている。

「獅子に牡丹」という訳ではないだろうが、父は牡丹の花を大変愛していた。戒名の「牡丹亭豊雄獅子文六居士」も、生前お寺の和尚さんと相談し決めていたものである。大磯の庭に数株の牡丹を植えて毎年開花を楽しみにしており、東京に移ってからもふらっと大磯を訪ね牡丹と対面していた。亡くなった後に発見された「牡丹」という作品は、医者に病状を知らされ戸惑う自分の心を牡丹の花との対話のように綴ったものである。(p.4)

 展覧会を見ていて興味深く感じたのが、文六の「物持ちのよさ」である。それについては前掲の山崎氏が、「彼は「信子」の連載が始まる一九三八年の太平洋戦争前から六〇年代直前まで、二十二年に渡ってこのノートを使っていたという計算になる。物持ちがいいぞ、獅子文六。一冊のノートに、何という情報量。作品ごとにノートを変えたりしないのだ」(p.2)云々と記し、同じような点に驚きを示しているのだが、展示物のなかに、綺麗な状態のゴルフのスコアカードが何枚もあったことには、特に吃驚させられたものだった。
 文六とゴルフ、というと、木戸幸一「ゴルフをめぐって」(『牡丹の花』pp.17-19)という追悼文が面白い。その末尾を引いておく。

 岩田サンが(大磯から―引用者)東京へ移られてからは自然御一緒にゴルフをする機会も少くなりましたし、やがて健康を害されてゴルフは出来なくなったと話されるようになったのでした。
 岩田サンが文化勲章を受けられたので、早速御祝いの手紙を出し「スポーツシャツの上に勲章をブラ下げた貴兄と相模原頭で雌雄を決することが出来ないのは誠に遺憾千万。千載の恨事です」と申送ったところ、左記のような御返事を頂戴しましたが、これが同君からの最後の手紙となってしまったので、これを引用して結びと致します。

 拝復。今回不測の光栄に浴し早速御祝詞頂戴奉感謝候。スポーツシャツの上に勲章をブラ下げゴルフ致したきもドクター・ストップにては詮方なし。尤もこの間箱根でひそかに四ホール程廻り候処、腕前少しも衰へず、尊台なぞは歯が立たざるに非ずやと愚考仕候。何れ拝眉の上御礼申上候へ共、不取敢御挨拶申上度如此御座候。     岩田拝
   十月三十日
 木戸老台
   虎皮下

(pp.18-19)

 いかにも皮肉屋の文六らしい、エスプリのきいた書簡文であるといえる。

笛ふき天女 (ちくま文庫)

笛ふき天女 (ちくま文庫)

*1:単行本は1986年12月講談社刊。同書末尾には「文六教信者に」が収められているが、これは、『牡丹の花』の末尾の文章(pp.279-88)を再録したものである。

*2:その最後のほうに、『牡丹の花』と、小林が題字を記した色紙とが展示してあった。

*3:文六の長男。三番目の妻・幸子との間に生れた。

*4:ちなみに古川氏の文章は、『牡丹の花』から中村光夫による追悼文の一部を引用している。

藤原宰太郎・遊子の「父娘合作」

 藤原宰太郎*1氏(1932-2019)は、ミステリの面白さを教えてくれた点において恩人のひとりだといえる。
 巷では、藤原氏の著作群が古典的名作トリックのひどい「ネタばらし」の宝庫になっていたというので、「罪」の部分がクロースアップされることもしばしばだ。確かにその通りなのだが、それはひとり藤原氏の責任に帰せられないわけで、かつての(わたしが小中学生だった時分の)子供向け漫画や、子供向けの手引き類*2はおおむねそんな状況だった。わたし自身、漫画やクイズ本であらかじめ犯人やトリックを承知したうえで原作にあたる場合も多かった。もっとも、最近では、作品の根幹にはあえて触れずにすませたり、「この後の記述にはネタバレが含まれます」などとあらかじめ注意を促してくれたりする解説書類も増えている、というか、それこそが「常識」「お作法」になっているが。
 ともかく、わたしにとって藤原氏の著作群は、「功」の部分がむしろ大きかったわけで、ネットも何もなかった時代に、世界には他にどんな探偵がいるのかとか、次に何を読むべきなのかとかいった、いわば名作ミステリの指南書の役割を果たしてくれた。
 わたしが当時よく読んだ藤原氏の本は、『探偵ゲーム―怪盗Xより七つの挑戦状』(KKベストセラーズワニ文庫1989*3)、『真夜中のミステリー読本―古今東西、名&珍作ガイド』(KKベストセラーズワニ文庫1990)、『あなたの頭脳に挑戦する 世界の名探偵50人―推理と知能のトリック・パズル』(KKベストセラーズワニ文庫1984*4)、『知的興奮をもう一度…… 続・世界の名探偵50人―推理と知能のトリック・パズル』(KKベストセラーズワニ文庫1994 *5)、『推理狂 謎の事件簿―奇想天外のトリックを楽しむ』(青春BEST文庫1990)、『日本縦断ミステリー紀行 名探偵に挑戦(第三集)―あなたの故郷で事件が起こる!』(KKベストセラーズワニ文庫1991)、『殺人ファイル 犯人は誰だ!?―奇想天外! 殺人トリックにあなたも挑戦!!』(にちぶん文庫1994)。
 わけても『世界の名探偵50人(正・続)』『真夜中のミステリー読本』の三冊は、何べんも繰り返し読んだし、いまでも時々披く。『世界の名探偵50人(正・続)』などは、掲載されているデータこそ古いかもしれないが、たとえば創元推理文庫エドワード・D・ホック木村二郎訳『怪盗ニック全仕事』が全六巻で出たり(2014―19年)、作品社からバロネス・オルツィ『隅の老人』やジャック・フットレル『思考機械』(全二巻)が平山雄一訳で完全版として出たり(2014年・2019年)、春陽堂書店から横溝正史の『人形佐七捕物帳*6が完本として全十巻で出たり(刊行中。既刊1巻)しているといった現状に鑑みるならば、名作ミステリのガイド役たる鮮度をなお保っているとさえおもう*7。この二冊での「ネタバレ」を避けたいのであれば、クイズやコラムを読み飛ばして、探偵のプロフィルだけ読めばよい。
 さて昨年末のこと。『真夜中のミステリー読本』が、「改訂新版」として装いも新たにふたたび世に出た。藤原宰太郎・藤原遊子『[改訂新版]真夜中のミステリー読本』(論創社)がそれである。共著者・藤原遊子氏は宰太郎氏の長女。宰太郎氏は2000年代初頭に、「遊子」名義で小説を書いていたこともある。「あとがき」で遊子氏が、

 実際の父も、用事のない限りほとんど書斎から出ることなく、一日中トリックのことを考えているような人でしたから、世事や流行にはとても疎く、小説の中の事件現場は自分の故郷(広島県尾道市―引用者)や母校であったり、登場人物の女子大生は性格も趣味も娘の私そのままのプロフィールであったり、娘と同じ名前の女性を殺してみたり、と自分の身近なネタばかりを小説に使うので、家族にとってはかなり迷惑でしたが、今となってはいい思い出です。(p.184)

と書いているのが微笑ましい。また遊子氏は、改訂新版の編集方針について、「二一世紀のIT社会にも通用するミステリーの案内書(ガイド)を作りたいという父の遺志を引き継ぎ、娘の私が加筆や訂正、および項目の削除を行い、『真夜中のミステリー読本』を生まれ変わらせました」(pp.182-82)、と書いている。
 そのような元版との異同については、アマゾンの書評子が、削除された項目を中心にして実に丁寧な比較検討を行っているので、ここでわたしがあれこれ述べる必要はないだろう。そちらで書評子は、「削除の基準は(略)多くは『今日的観点』と思う」と書いており、「今日的観点」の具体的な項目として、「人権意識」「ネタばらし、トリックばらし」等を挙げている。わたしもざっと読み較べてみて、確かにその通りだろうとおもった。元版p.51の「外人」が改訂新版p.30で「外国人」となっていることや、プロローグの「読むためにも知りたい推理小説これだけのルール」(改訂新版では「読むためにも知っておきたい推理小説のルール」)で、ある海外作品の犯人がいきなり明かされてしまうのがぼやかされていることなども、多分この類であろう。さらに書評子が、改訂新版の「大変良い工夫」として、「可能な限り、トリックの原典の作品の名前を注の方に移し」たことを挙げているのにも同感であった*8
 ただ、意味が通じにくいとはまったく思えない文章にもあちこち手を加えているのであり、その理由はよくわからない。
 宰太郎氏は晩年には脳梗塞を患い、ミステリの世界からは離れ、厖大な蔵書も全て手放してしまったとのことだが、「〈インタビュー〉推理小説と歩んだ半世紀」(『藤原宰太郎探偵小説選』論創ミステリ叢書2018、pp.394-416)を遺してくれたのは、一ファンとしてたいへん嬉しい。インタビューでは、旧河出書房の倒産後に『探偵ゲーム』が「KK河出ベストセラーズ」から出た経緯や(KK河出ベストセラーズ社長の岩瀬順三〔1986年歿〕と宰太郎氏とは、同じ中学の出身だという)、子供向け推理クイズを学年雑誌に執筆するようになったきっかけなどについても語っている。ちなみに、この談話でインタビュアーが言及している『真夜中のミステリー読本』の記述(p.414)や、『藤原宰太郎探偵小説選』の解題(呉明夫)で紹介された『真夜中のミステリー読本』所収の「久我京介のミステリー談義」(同p.423)は、いずれも改訂新版では削除されている。

改訂新版 真夜中のミステリー読本

改訂新版 真夜中のミステリー読本

藤原宰太郎探偵小説選 (論創ミステリ叢書 113)

藤原宰太郎探偵小説選 (論創ミステリ叢書 113)

*1:本名「宰(おさむ)」。

*2:とりわけ印象に残っているのは「てのり文庫」で出た幾冊かの本。ふと学研の『世界の名探偵ひみつ事典』というのも思い出したが、こちらは藤原氏の監修。

*3:元版は1968年刊のKKベストセラーズ

*4:元版は1972年刊のKKベストセラーズ。手許にあるのは「1994年7月1日十四版」。「名探偵は死なず―まえがき」の末尾に「一九八四年」とあるにも拘わらず、その冒頭が「推理小説の始祖E・A・ポーが一八四一年に名探偵デュパンを創造してから、約百三十年間、それこそ無数の探偵が世に出ました」(p.3)と、おそらく元版の形のままになっているのが可笑しい。

*5:これには元版がなさそうで、オリジナル文庫として出たものと思われる(ここに挙げたもののうち、『探偵ゲーム』『世界の名探偵50人』の二冊以外は、みな文庫版がオリジナルの形であったようである。ここで「思われる」「ようである」などと言うのは、いずれも巻末などに書誌が全く示されておらず、詳細がわからないためだ。なお『続・世界の名探偵50人』の「プロ&アマ探偵、ゾクゾク登場!―まえがき」末尾に、「二十年後といわずに、十年以内には、早くも三冊目の『世界の名探偵50人』シリーズを書くことになりそうです。/そのときは、またよろしく」(p.5)とあるが、それが果されなかったのは残念である。

*6:BSフジでは、林与一版「人形佐七捕物帳」(1971年、全26話)が放送中だ。わたしは第十話まで見ている。特におもしろかったのは、宝田明が将軍家斉に扮した「第五話 折れた扇子」(監督は第一話に引き続き田中徳三!)、佐々木功ささきいさお)出演回で二転三転する展開が見ものの「第六話 雷の宿」、鳳八千代・岩崎智江・西山恵子、三者三様の女性たちの物語とでもいうべき「第十話 怪談・変幻地蔵」。

*7:怪盗ニック・ヴェルヴェットは続篇pp.125-30、隅の老人は正篇pp.41-46、思考機械バン・ドゥーゼンは正篇pp.48-52、人形佐七は正篇pp.77-80にそれぞれ登場。

*8:さきに述べたプロローグ中の「ある海外作品」には、注さえ附けられていない。やや大げさにいうと、ミステリの歴史にも関わる問題なので、たとえ注の形であっても作品名を記すことにためらいがあったのだろうか。

渡辺一夫とモンテーニュ

 『寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか――渡辺一夫随筆集』(三田産業2019)という本がある。これには、標題の「寛容(トレランス)は自らを守るために不寛容(アントレランス)に対して不寛容(アントレラン)になるべきか」(pp.110-30)のほか十六篇(計十七篇)の渡辺一夫による随筆が纏められている。
 1951年の7月に書かれた「寛容は自らを守るために~」は、これまでに出た文庫にもしばしば収録されている。たとえば渡辺一夫『僕の手帖』(講談社学術文庫1977)*1のpp.99-117や、大江健三郎清水徹編『渡辺一夫評論選 狂気について 他二十二篇』(岩波文庫1993)のpp.194-211、そして最近では、トーマス・マン渡辺一夫『五つの証言』(中公文庫2017)のpp.185-207がある。但し各版に小異があって、三田産業版はエピグラフとして掲げられたガブリエル・セナック・ド・メーラン(1736-1803)の言葉(二宮敬氏によれば「出典は未詳」だそうだが)が省かれているし*2、中公文庫版には末尾に「附記1」(1967年)、「附記2」(1970年)が附される。いささか時評めいた「附記1」は蛇足であるようにもおもうが、それはさて措き。
 わたしが渡辺の随筆のうち最も心惹かれるのは、書物や読書に関するもので、『僕の手帖』に収める「古本」「読書の悲哀について」「読書の恐ろしさについて」「読書の思い出」、あるいは『狂気について』に収める「買書地獄」「本を読みながら」、渡辺一夫『白日夢』(講談社文芸文庫1990)に収める「書痴愚痴―一九四六年―」*3、「架空文庫について」*4あたりをとりわけ好む。
 特に「古本」の、次のようなくだりがいい。

 つまり、このはかない、残忍な世の中で、昔から、現在の自分と全く同じようなことを考え、同じことに興味を持つ人々がいるということが、古書の存在によって証明されるのは何よりもうれしく、楽しいことである。書物を愛し、古本屋めぐりをするのがすきな人々ならば、こうしたうれしさ楽しさは、何度となく感ぜられるであろう。
 暇を作って、古本屋に這入り、ぼんやり書棚を眺めているうちに、昨夜考えたことや、昔興味を持ちながら忘れてしまったことなどに関するぼろぼろな古本を発見した時のたとえようもないうれしさは、こうした経験のない方々には全く判らないだろう。(略)僕は変態ではないつもりだが、古本の匂いならば、どんな匂いでも、くんくんと嗅ぐ。新刊本の匂いもよいけれど、古本の匂いはまた格別である。新刊本の匂いが、みどり児の甘い匂いとすれば、古本の匂いは豊かな大人の体臭であり、時には屍臭であり、しばしば焼場の匂いである。みどり児の匂いは、ただ単に感覚的であるが、大人の体臭、屍臭、焼場の匂いは、それ以外のものを持っている。それ以外のものは何だかはっきり判らないが、人間世界を狼星(シリウス)の高みから眺めるような幻想を与えるものも含むと言ったら変であろうか?(「古本」『僕の手帖』講談社学術文庫pp.121-22)

 書物随筆以外のもので印象に残っているのが、1947年に書かれた「モンテーニュと人喰人」だ。オリジナル編集の『五つの証言』(中公文庫)の解説「第六の証言」(山城むつみ氏)が渡辺のこの随筆に触れて、「渡辺一夫にとってモンテーニュは、ラブレーを補うユマニストだった」(p.208)云々と書いている。ただし『五つの証言』は、渡辺の「モンテーニュと人喰人」を併録しておらず、文庫版としては、『狂気について』がこれを収めている(pp.79-95)。
 「モンテーニュと人喰人」は、モンテーニュの「人間」に対する認識について述べたものである。すなわちモンテーニュにとっては、新大陸アメリカやアフリカの「人喰人」が、「野蛮人」やラブレーが準えたような「怪物」などではなく、「ヨーロッパ人同様の」、それどころか「失った美徳すら持っている『人間』」であったと論じた文章で、ルネサンス期の「人間」観のコペルニクス的転回を、モンテーニュの思想に見いだし、考察している。
 これを、くだけた話しことばで説いたのが、渡辺一夫ヒューマニズム考―人間であること』(講談社文芸文庫2019)に収める「新大陸発見とモンテーニュ」(pp.169-94)であり、そこで渡辺は、「モンテーニュは、いわゆる文明人の思い上がりと、偏見とを明らかについているように考えられます」(p.185)、と結論している。
 いずれの随筆でも渡辺が参照しているのが、モンテーニュ『エセー』第一巻三十一章の「人喰人について」である(原二郎訳の岩波文庫版では、「食人種について」)。
 この章は、『エセー』中のハイライトに数えられることもある。たとえばレヴィ=ストロースは、1992年9月に書いた随筆「モンテーニュアメリカ」で、当該章を参照しつつ、

 「われらが人食い人種」と彼(モンテーニュ)が呼んだブラジルの野蛮人は、社会生活を可能にするのに必要な最低条件という問題を彼に投げかけた。言い換えると、社会的絆の本性とは何かという問いである。その問いへの書きかけの応答が『エセー』にいくつも散りばめられている。とりわけ明らかなのは、モンテーニュはその問いを定式化しながら、ホッブズ、ロック、ルソーの手で一七、一八世紀のあらゆる政治哲学がその上に築き上げられていく基盤を築いたということである。(クロード・レヴィ=ストロース渡辺公三監訳・泉克典訳『われらみな食人種(カニバル)―レヴィ=ストロース随想集』創元社2019:136)

と述べ、モンテーニュが切り拓いた「ある文化が異文化を評価する拠り所となるどんな絶対的基準も受けつけない相対主義」(p.138)を称揚しているし、保苅瑞穂『モンテーニュ―よく生き、よく死ぬために』(講談社学術文庫2015)*5も、第一部「乱世に棲む」の「怒りについて―人食い人種は野蛮か」で『エセー』第一巻三十一章(保苅氏の訳では、「人食い人種について」。後に挙げる宮下氏の訳文も同断)を引き、

 野生の意味を逆転させ、それによって人為と自然をめぐる価値の判断までも逆転させようというのがかれ(モンテーニュ)の狙いなのである。この価値の逆転はもともとかれの根底にある考えであって、人間の人為が変質させて自然の姿から逸脱させたものこそが、反対に「野生」なのだと言いたいのである。(p.47)

と書いているし、また宮下志朗モンテーニュ―人生を旅するための7章』(岩波新書2019)の第五章「文明と野蛮」も、当該の章から幾つかの文章を引用しながら、モンテーニュの思想の根柢に、「文化相対論」(p.148)、「エコロジーの原点のような発想」(p.150)などの観点があることを述べている。
 これを要するに「人喰人について」は、モンテーニュの先見性がよく表れた一章である、ということだ。

狂気について―渡辺一夫評論選 (岩波文庫)

狂気について―渡辺一夫評論選 (岩波文庫)

*1:河出市民文庫(1952)版がもとになっている。

*2:巻末の「凡例」には、「底本にあったエピグラフと「附記」、外国語の原綴は省略した」と明記してある。

*3:ちなみに「トーマス・マン『五つの証言』に寄せて」で渡辺は、「このマンの小冊(「ヨーロッパに告ぐ」のこと)は、戦争が始まった時以来、他の三、四冊の書籍といっしょに常に雑嚢のなかへ入れて身辺から離さずに置いたものでありますが」(『五つの証言』p.11、『狂気について』p.120)と書いているのだが、「書痴愚痴」によれば、その「他の三、四冊」というのは、アンリ・バルビュス『知識人へのマニフェスト』、ロマン・ロラン『動乱の上に立ちて』、ジュール・ロマン『精神と自由』、プレイヤード叢書の『ラブレー全集』、岩波文庫版の『陶淵明詩集』の五冊だといい、「厚さは全部で約二寸ぐらいだった」(p.29)とのことである。

*4:確かこれは、『亀脚散記』(朝日新聞社1947)で最初に読み、感銘を受けたのではなかったか。

*5:元本は、『モンテーニュ私記―よく生き、よく死ぬために』(筑摩書房2003)。

正宗白鳥『読書雑記』の『細雪』評

 池谷伊佐夫『書物の達人』(東京書籍2000)で紹介されている本の一冊に、正宗白鳥『読書雑記』(角川文庫1954)がある。これについて池谷氏は、「初出がはっきりしないので、元版がいつどういう形ででたのか不明だが、わずか百六十頁ほどの薄い文庫本の四分の三にあたる百二十三頁に、読書雑感が当てられている。まるで、ながながと続く古老の読書談義を拝聴しているかの思いでこれを読んだ」(p.211)云々、と書いている。
 その「元版」と思しき新書版を、二冊、所有している。ただし、発行年や装釘がたがいに異なる。
 ひとつは、正宗白鳥『讀書雜記』(三笠新書1952)。奥付をみると「昭和27年9月20日第1刷刊行」となっていて、手許のは「昭和27年10月20日第2刷刊行」。当時の定価は100円で、三笠新書の通番「4」が附いている。当初はカバー缺かとおもっていたが、どうも最初から附いていなかったようだ。大阪の古書肆にて350円で購った。
 いまひとつは、正宗白鳥『讀書雜記』(三笠新書1955)。東京の古書肆店頭にて216円で購ったものである。奥付をみると「昭和30年5月30日第1刷刊行」となっている。当時の定価は120円。こちらには、抽象画が描かれた白色のカバーが附いており、その表紙に、「現文壇最高の叡知が深い体験と独自の識見をもって、古今東西の文学を縦横に鑑賞し、そこに深い、人生批判、社会批判をも投影した絶好の読書案内」といった内容紹介が書かれている。カバーを外した本体の装釘も、前述の1952年刊のそれとは異なる。また、1952年版の本体、中扉、奥付に記されていた通番「4」の文字も消えている。
 池谷著の書誌によれば、角川文庫版は「昭和二十九年六月十五日」に刊行されたというから、刊行順としては、「カバーなし通番『4』つき三笠新書」→「角川文庫」→「カバー附き通番なし三笠新書」、ということになる。いったん他社の文庫に収まったものを、一年も経たないうちに再刊するのは珍しいことのように思うが、ともかく、二冊の新書は、本体や奥付、中扉が異なるほかは、中身の版面がそっくりそのままで、ざっと見る限り、手の加えられた形跡はない。ページ数も同じである。しかも、これらの新書版にも、初出のデータなどはまったく記されていない(そもそも「あとがき」にあたるものがない)。
 したがって、1952年刊の新書版が元版なのかどうかは、これだけでは分からないのだけれど、例えば正宗白鳥坪内祐三・選『白鳥随筆』(講談社文芸文庫2015)の巻末に収められた「著書目録」(作成・中島河太郎)をみると、「単行本」の項に「読書雑記 昭和27・9 三笠書房」とあるから(p.304)、新書版が元版だと考えて、まず間違いないとおもう。
 さてこの『讀書雜記』、池谷氏はその内容に関して、「文中さまざまな作品が登場するが、それがことごとく批判され、称賛の栄にあずかったものは数えるほどしかない。『途中まで読んでやめてしまった』という記述も多い。ことに私小説には辛辣な評が多」い(p.211)と書き、「ちなみに、数少ない絶賛をあびた作品に谷崎潤一郎の『春琴抄』」がある(p.212)と記す。また『讀書雜記』所収の「『宮本武蔵』と『細雪』」(pp.163-84)は、谷崎の『細雪』を、――『春琴抄』ほどの手放しの絶讃とまではいかないにしても――高く評価している。
 白鳥は次のように述べる。

細雪』のやうな作品は、私などの好みにはかなはない筈で、中卷下卷と讀み續けたいと熱望してはゐなかつたが、つい讀み出すと、この作者特有の匂ひのあるやうな文章に心惹かれて讀み耽るやうになるのである。大阪の女性の會話は、私にも面白く思はれ、一般の讀者の興味をそゝるのである。概して會話のうまい作家は文壇に少いのである。西洋の小説には、會話のうまい作家が、さぞ澤山あることであらうと推察されるが、悲しいかな、それは飜譯では皆目分らず、原語で讀んでも、我々の語學知識ではそこまで味ふことが出來ないのである。(略)
 谷崎は、久保田(万太郎)同樣、東京の下町生れであるから、作中人物の會話がおのづから、都會的で氣が利いてゐるのであらうが、『細雪』の會話は、意識して、努力して、研究的にそこへ寫し出したのであらうから、氣輕な自然さがない。あまりに大阪言葉であり過ぎると云つたやうな感じがする。しかし、これが、模範的大阪言葉(たとへ傳統的の純大阪言葉であるとかないとかの議論はあるにしても)でなく、他の地方語か、或は普通の東京語なんかで書かれてゐるとしたら、この小説に對する私などの興味は半減するであらう。それほどだから、この小説は外國語に飜譯されたら、肝心の會話の妙味だけでも全く失はれてしまふと云ふみじめな事になるであらう。會話に含まれてゐる意味は別として、言葉そのものから受ける藝術的快感を、『細雪』の讀者は覺えるのであるが、會話ばかりでなく、全體の文章から受ける文字の上の快感が、『細雪』鑑賞の重要な分子になつてゐるのである。雪子と妙子は一種の風韻を帶びて浮動してゐるし、縁談だの社交だのの日常生活が、實際に有る如き光景として描叙されてゐるが、三卷の長編としては、事件の印象が稀薄なのである。大小説を讀終つたと云つたやうな感じがしない。長い繪卷物を披いて、見終つたやうな感じである。作者の人物描寫は彫刻的ではなくつて繪畫的である。すべて繪のやうであり奇麗事である。上卷の、京都に於ける觀櫻の場面、中卷の阪神間の山津波の光景、下卷の大垣在の螢狩りの有樣などが、繪卷物のなかでも、色彩鮮明に描かれて、見る人を、藝術鑑賞の境地に惹入れて陶醉させるのである。作者の態度は甚だのどかである。
 私が三卷の『細雪』をとぎれ\/に讀んで、最も感心したのは、作者のこののどかな態度である。この長編は戰時中に書きはじめたもので、執筆にも發表にも支障のあつたものだが、終戰後に書き終るまで、作者の製作の上では心を亂さなかつたのであつた。周圍の時世には激しい動搖があつたのに關はらず、作者の實生活にも、世間と同樣の心配苦勞があつたであらうのに、はじめ計畫を立てた時の氣持をそのまゝに貫徹したのであつた。そこに私は敬意を寄せ、羨望もするのである。(pp.179-82)

 上記のように白鳥は、『細雪』中の会話文について、「あまりに大阪言葉であり過ぎると云つたやうな感じがする」と書いているが、大阪生まれの生島遼一は、むしろ逆の見方をする。

 でも上方の人間である私には、谷崎氏の書く上方言葉が一段と進歩してゐることに興味がもてた。大阪言葉を技巧的にもちひて世評の高かつたのは『卍』だつたが、われわれから見るとあの言葉づかひはまだ生硬でことさら上方用語が隨處にはめこんである感じだつたが、その後の作品で次第に垢ぬけして、『細雪』ではごく自然な、そのままらしい、大阪言葉の生地になつてゐる。殊に若い女性同士の一見そつけなく、裏に情をふくんだ會話にさういふ生地がたくみに生かされてゐる。かういふのはいはゆる船場中心の土地言葉で、大阪言葉に露骨なものが洗練され、まつたくほのかな、ぼんやりした上方味になつたものだ。この小説に書かれてゐるやうな中流舊家のやや大阪流に近代化した環境特有のものであらう。いはゆる大阪言葉、從來小説に書かれた上方言葉とは大分ニュアンスがちがひ、おつとりとして、しかも一種の神經があつて、案外標準言葉に近いところがあるのは意外かもしれぬがかういふのが本當である。(生島遼一谷崎潤一郎論」『日本の小説』角川文庫1953所収:135-36)

 生島氏は「『細雪』問答」でも、Aという匿名氏をして「(『細雪』は)會話の部分が面白いといふこと――大阪言葉の中でも、從來あまり人の書かなかったニュアンスの豐かな、ふつくらした特殊な大阪言葉が、さういふ點で評判をとつた『卍』などと比較にならぬほど今度はよく書けてゐるのみならず、會話において人物の性格がよくとらへてある」(同前pp.145-46)と言わしめているが、しかし作品全体としては、さほど高くは評価していないようである。というのも、同じ文中でAは、「『細雪』のやうな小説、これほど自己滿足的な小市民感情の横溢してゐる作品が日本の現代文學の第一級の作品としてどつかと位置してゐることはいろいろかんがへさせられることがある」(p.154)と言っているし、つづけて、

 僕はこの小説讀後の印象から、この作品をたとへば繪でいつたらどんな繪だらうかといふことを想像した。失禮ないひ方ながら、どうしてもこれはブルジョワ家庭の床の間にかけられる掛物の繪、四季折々に、春は花見の圖、夏はあやめ、秋は紅葉といつたやうにとりかへられるあの繪である。さういふ繪が少しも反撥を感じさせないで眺められる人たちがどういふ人たちかはいふまでもない。(p.154)

とも述べているからである。この記述は、発表年からして、白鳥の「繪畫的」云々という評を意識したものではあるまいとおもわれるが、しかし白鳥の如く、「京都に於ける觀櫻の場面」を、「少しも反撥を感じ」ずに眺められる人たちは少くない。
 例えば永井荷風は、「細雪妄評」で「細雪の篇中、神戸市水害の状況と、嵐山看花を述べた一節とは、言文一致を以てした描写の文の模範として、永遠に尊ばれべきものであろう。わたくしは鷗外先生の蘭軒伝の他に、其趣を異にした言文一致体の妙文を喜ばなければならない」(『葛飾土産』中公文庫2019*1所収p.192)と書いているし、また辰野隆も「舊友谷崎(細雪蘆刈春琴抄など)」で、「特に僕の興味を引いたのは――正宗(白鳥)氏も既に指摘してゐるが――毎年、幸子が夫貞之助を促がして、雪子、妙子、悦子と連れ立つて試みる吉例の花見である。僕はこの花見の一章に日本の傳統的花見の粹を見るやうな氣がする」(辰野隆谷崎潤一郎』イヴニング・スター社1947所収p.82)と書いている。なお辰野は、「もし、「細雪」が繪畫であり、「春琴抄」が詩であるならば、「蘆刈」は正に音樂であらう」(同前p.93)、とも書いている。
 批判するにせよ賞讃するにせよ、このように『細雪』を、なぜか絵画にたぐえる場合が多いというのは、なかなか面白いことである。

書物の達人

書物の達人

  • 作者:池谷 伊佐夫
  • 出版社/メーカー: 東京書籍
  • 発売日: 2000/08
  • メディア: 単行本
読書雑記 (1952年) (三笠新書〈第4〉)

読書雑記 (1952年) (三笠新書〈第4〉)

日本の小説 (1953年) (角川文庫〈第467〉)

日本の小説 (1953年) (角川文庫〈第467〉)

葛飾土産 (中公文庫)

葛飾土産 (中公文庫)

谷崎潤一郎 (1947年)

谷崎潤一郎 (1947年)

  • 作者:辰野 隆
  • 出版社/メーカー: イヴニング・スター社
  • 発売日: 1947
  • メディア:

*1:単行本は中央公論社(1950)刊。ちなみに「細雪妄評」の末尾には、「昭和廿二年十一月草」とある。

徳田秋声『仮装人物』のことなど

 徳田秋声『仮装人物』の梢葉子のせりふに、

別に悪い人でも乱暴な男でもなさそうだけれど、ちょっと気のおけないところがあるのよ。男前も立派だし、年も若いわ。奥さんもインテリで好い人なんだけれど、何うもあの人、私に対する態度が変なのよ。(『仮装人物』十九、講談社文芸文庫p.250、以下同)

というくだりがある。ここでは、「気 の/が おけない」が「信用できない」といったニュアンスで使われている。これが「新たな」用法であることは、しばしば言及されるのでよく知られるところだ。平成18(2006)年度の「国語に関する世論調査」では、「60歳以上を除いた全ての年代で、本来とは違う意味で使う人が多くなってい」ることが判った(文化庁国語課『文化庁国語課の勘違いしやすい日本語』幻冬舎2015:101)*1
 しかし、『仮装人物』の作中における「気 の/が おけない」が全てそのような用法なのでは決してなく、上記以外の地の文は、

庸三はこの頃仲間の人達で、こゝを気のおけない遊び場所にしている人も相当多いことを考えていたので、…(十一、p.144)

葉子の家がそれらの青年達に取って、気のおけない怡(たの)しいサルンとなることも考えられないことではなかった。(十五、p.210)

 葉子はあの時のことを想い出しもしない風だったが、いくらか気が置けるらしかった。庸三も気が弾まなかった。(二十、p.274)

大衆作家の同志が広間に陣取っていて、一晩中陽気に騒いでいることもあって、そう云う時には葉子も庸三もいくらか警戒するのだったが、不断は気のおけない場所であった。(二十七、pp.344-45)

等々、「気が置ける」も含めて「本来の」使われ方がなされている。とすると、これは、庸三=秋声の愛人だった葉子=山田順子(ゆきこ)の口吻をそのままなぞったものであったのかも知れない。
 若い頃の順子のことばづかいとして、もうひとつ特徴的なのが「フライ」である。
 川崎長太郎徳田秋声の周囲」(『抹香町・路傍』講談社文芸文庫1997所収)*2に、次のような順子の発言が見える。

「あなた、お友達になって下さいな。今、私一人で寂しいんです。一寸、世間から身を隠しているというふうなの。――お友達になって下さい。私、迚(とて)もフライよ」
 と、下唇しゃくりながら、順子さんの思わせ振りな口上です。中学も満足に行っていない私には、第一「フライ」とは如何なることを意味する言葉か、さっぱりのみ込めかねますし、…(pp.179-80)

「ね、私のこと、外へ行って、喋っちゃいや。約束して。秘密にしていてくれたら、私本当にフライになるわ。約束して頂戴、さァ!」(p.185)

 この「フライ」とは一体何か。わたしも皆目見当がつかない。まさか「フライング・パン」の略で、「(身持ちが)堅い」「(口が)堅い」ことをしゃれて言ったものでもあるまい。隠語・俗語辞典の類を幾つか見ても分らず、長岡規矩雄『新時代の尖端語辭典』(文武書院1930*3)の「戀愛用語」に「【フロイライン】Fraulein(獨) お孃さん。令孃。」(p.169)とあり、その下略語が訛ったものかと思いもしたが、確証が得られない。諸兄姉の指教を乞う次第である。
 さて『仮装人物』であるが、今年になって二度読んだ。春先に一度読んだあと、古書肆Iにて献呈署名入の山田順子『女弟子』(ゆき書房1954)を廉価で入手したこともあって(ついでに云うと、岩波文庫版の『仮装人物』も300均で拾って)触発され、秋に再読したのである。
 『仮装人物』は、秋声が矢継ぎ早に書いた「順子もの」の集大成といわれる。しっかりした筋らしい筋があるわけでもなく、出来事が時系列順に並んでいるわけでもなく、むろん読んで明るい気分にさせられる作品でもないが、秋声の文章のくせも含めて、なんとはなし味読したくなるような作品なのである。
 登場人物のモデルの同定は各所でなされているが、秋声、順子のほかに主な人物を挙げると、「若い劇作家であり、出版屋でもあった一色」(『仮装人物』一、p.13)は聚芳閣の足立欽一、「兎角多くの若い女性の憧れの的であった、画家の山路草葉」(同p.14)は竹久夢二とされる。モデル問題について小田光雄氏は、「足立欽一と山田順子*4(『古本屋散策』論創社2019:163-65)で、野口冨士男徳田秋声伝』などを参照しつつ纏めている。
 『仮装人物』のモデルは判然しないものが多いというが、『女弟子』はその点、かなりあけすけに書いている。秋声は実名だし、たとえイニシャルで表記しているとしても、「“脂粉の顔”の作者たる女流作家、U女史」(「秋声と四人の女作者」p.127)は明らかに宇野千代のことであるし*5、「断髪に洋装の怜悧な瞳をした、少女物の作家のY女史」(同p.133)も吉屋信子のことだと直ぐに判る。
 『仮装人物』は、順子のある作品について、「モデルがはっきり誰であるとも示すことも出来ないように、彼女一流の想念の花で扮飾されてあった」(三十、p.358)と書いているのだが、『女弟子』はそれとは違って、実名小説と云うかかほぼノンフィクション仕立てになっているのである。戦後という時代が、そういった「告発」を可能にさせたということは、「あとがき」を読めば判る。
 ちなみに、秋声と順子の交際がまだ順調だったころのことを、林芙美子が書き留めている。

(二月×日)
 思いあまって、夜、森川町の秋声氏のお宅に行ってみた。国へ帰るのだと嘘を言って金を借りるより仕方がない。自分の原稿なんか、頼む事はあんまりはずかしい気持ちがするし、レモンを輪切りにしたような電気ストーヴが赤く愉しく燃えていて、部屋の中の暖かさは、私の心と五百里位は離れている。犀という雑誌の同人だという、若い青年がはいって来た。名前を紹介されたけれども、秋声氏の声が小さかったので聞きとれなかった。金の話も結局駄目になって、後で這入って来た順子さんの華やかな笑い声に押されて、青年と私と秋声氏と順子さんと四人は戸外に散歩に出て行った。
「ね、先生! おしるこでも食べましょうよ。」
 順子さんが夜会巻き風な髪に手をかざして、秋声氏の細い肩に凭れて歩いている。私の心は鎖につながれた犬のような感じがしないでもなかったけれど、非常に腹がすいていたし、甘いものへの私の食慾はあさましく犬の感じにまでおちこんでしまっていたのだ。誰かに甘えて、私もおしる粉を一緒に食べる人をさがしたいものだ。四人は、燕楽軒の横の坂をおりて、梅園という待合のようなおしる粉屋へはいる。黒い卓子について、つまみのしその実を噛んでいると、ああ腹いっぱいに茶づけが食べてみたいと思った。しる粉屋を出ると、青年と別れて私たち三人は、小石川の紅梅亭という寄席に行った。賀々寿々の新内と、三好の酔っぱらいにちょっと涙ぐましくなっていい気持ちであった。少しばかりの金があれば、こんなにも楽しい思いが出来るのだ。まさか紳士と淑女に連れそって来た私が、お茶づけを腹いっぱい食いたい事にお伽噺のような空想を抱いていると、いったい誰が思っているだろう。順子さんは寄席も退屈したという。三人は細かな雨の降る肴町の裏通りを歩いていた。
「ね、先生! 私こんどの女性の小説の題をなんてつけましょう? 考えて見て頂戴な。流れるままには少しチンプだから……」
 順子さんがこんな事をいった、団子坂のエビスで紅茶を呑んでいると、順子さんは、寒いから、何か寄鍋でもつつきたいという。
「あなた、どこか美味しいところ知っていらっしゃる?」
 秋声氏は子供のように目をしばしばさせて、そうねとおっしゃったきりだった。やがて、私は、お二人に別れた。
林芙美子『放浪記』岩波文庫2014:第二部、pp.322-24*6

 「燕楽軒」など、『仮装人物』『女弟子』に散見する固有名詞も登場するが、順子の発言中の『流れるままに』は、正確には『流るるままに』であったと思しい。それを林が聞き違えたのか、あるいは誤植に因るものか。これは、順子が最初にものした本のタイトルだが、原題の『水は流れる』を、足立欽一が『流るるままに』と改題したということを、小田前掲によって知った(小田氏は野口の『徳田秋声伝』に引用された井伏鱒二の書簡を根拠にしている)。
 なお小田氏には、「山田順子『女弟子』と徳田秋声『仮装人物』」(2013.1.9)という文章もある*7。これは、ブログの記事の一部を纏めた『近代出版史探索』(論創社2019)*8にはまだ収められていないが、順子が『女弟子』を自費出版した意図についても考察しており、たいへん興味深い。

仮装人物 (講談社文芸文庫)

仮装人物 (講談社文芸文庫)

文化庁国語課の勘違いしやすい日本語

文化庁国語課の勘違いしやすい日本語

抹香町・路傍 (講談社文芸文庫)

抹香町・路傍 (講談社文芸文庫)

古本屋散策

古本屋散策

放浪記 (岩波文庫)

放浪記 (岩波文庫)

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 ちなみに小島信夫は、「順子の軌跡/徳田秋聲」(『私の作家評伝1―草平・秋聲・漱石・鴎外・武郎・藤村―』新潮選書1972)で次のように書いている。

 順子が淫蕩な女だとか、何とかいうふうに解釈することは出来ないのであって、川崎長太郎という秋聲の弟子であった作家はその頃、二十六ぐらいであったが(川崎長太郎徳田秋聲の周囲」群像、昭和三十五年五月号)、当時の思い出を小説ふうに書いている。順子が作家気取りで、袂の中へ手をひっこめて、たたむように胸の前へ合わせて、前かがみになって歩くことや、つやっぽい調子で誘いこまれるように話しかけられて、こちらの方も大人ぶって対応すると、
「今日は駄目よ」
 とか、
「私、これでも、その方はしっかりしているのよ」
 とかいうような調子のことをいわれ、一方秋聲には甘えた口調で話しかけるところを見せつけられたかと思うと、秋聲の眼をかすめて、色っぽい視線を送ってくるところが、くわしく書かれている。事実そのままではない、と但し書きがしてあるので、全部そのまま信じることが出来ないし、第一、四十三、四年も前のことである。(p.65-66)

 さらに小島は、「ほんとかうそか、川崎長太郎氏が(秋聲が順子を)探しまわっているところに出会ったと書いている」(p.66)とも述べている。
(2020.1. 10追記)

*1:その主な理由のひとつとして、「『気が許せない』という意味で使われていた『気が置ける』という言葉が、現在ではあまり使われなくなっていることが挙げられる」(同p.101)。この状況からさらに十年以上経っていることに注意。

*2:この作品には、『仮装人物』に描かれた場面も含まれていて、例えば、秋声が行方知れずの順子を捜して見つけ出すくだり(「徳田秋声の周囲」pp.215-21)は、『仮装人物』七のpp.77-79に対応している。

*3:手許にあるのは、昭和六(1931)年一月三日(発行)の七版。

*4:初出は「日本古書通信」(2006.10)。

*5:当該作は今夏、岩波文庫に入った。

*6:新潮文庫の新版では、pp.272-73。ついでにいうと、注釈は新潮文庫版の方が懇切である。

*7:http://odamitsuo.hatenablog.com/entry/20130109/1357657247

*8:巻末に、前著『古本屋探索』と併せての人名索引を附す。

『橋本多佳子全句集』

 わたしが橋本多佳子や西東三鬼に興味を抱いたのは、十二、三年前に松本清張の「月光」『強き蟻』を読んだからだが、穂村弘氏は「私の読書日記」(「週刊文春」2019.10.3号)でこれと逆のことを述べている。すなわち穂村氏は、多佳子や三鬼の句集を入りくちにして清張の「月光」や『強き蟻』に関心を持ったのだという。もっとも「月光」は、句作の困しみや厳しさなどについて述べたものというよりもむしろ、多佳子と三鬼との関係について描いたもの、つまりゴシップ的な好奇心に応えるものであったと思う(だからといって、この作品を嫌いなわけではないが)。
 今年は、多佳子の生誕120年に当る*1。そこでこの数日、穂村氏が読書日記で紹介していた『橋本多佳子全句集』(角川ソフィア文庫2018)*2にお気に入りの革カバーをかけ、何処へ行くにもそれを携え、閑さえあれば披いていた。
 ひらき癖がついたせいか、「蟇(ひき)いでゝ女あるじに見(まみ)えけり」の句ばかり目に入るのが何となく可笑しかったが*3、「ゆくもまたかへるも祇園囃子の中」「子守唄そこに狐がうづくまり」「農婦帰る青田をいでて青田中」「木犀や記憶を死まで追ひつめる」「冬の旅日当ればそこに立ちどまる」「薔薇崩る切るに躊躇の長かりき」「蜂もがく生きるためにか死ぬためにか」「プールサイドの椅子身をぬらさざる孤り」「何の躊躇独楽に紐まき投げんとして」「雪はげし書き遺すこと何ぞ多き」など、孤独感や逡巡を感じさせる句がことに好みにあった。
 穂村氏は、多佳子の句に「孤独と誇り高さ、そしてナルシシズム」を感じ取っており、それらの「すべての源には、ただ一人で自らの宿命に対峙するという意識があるようだ」(p.130)と評している。その「宿命」というのは、穂村氏が直前で「いなびかり北よりすれば北を見る」の句を取り上げて、

「いなびかり」が「北」からしたのに南を見る者はいない。だから、この反応は当たり前なのだ。にも拘わらず、どうしてこんなに恰好いいのだろう。これが南や西や東では成立しないことはわかる。「北よりすれば北を見る」という反射的行為の中に、一瞬の宿命の暗示を見ているような感覚がある。(同前)

と記したことを受けたものだ。
 なお『全句集』所収、山口誓子の「解説 附多佳子ノート」*4によると、多佳子の作風に「ナルシシズム」がみられることは、当時の批評家らによっても「指摘」されてきたというが、誓子は、それは与謝野晶子の歌にうかがえる自己陶酔とは違って「自己愛惜と言うべきもの」だ(p.530)、と記す*5
 ところで東直子氏は、「朝日新聞」(2018.9.15付)の「文庫この新刊!」で『橋本多佳子全句集』を挙げて、

「乳母車夏の怒濤によこむきに」「いなびかり北よりすれば北を見る」等、激しさと冷静さを併せ持つ橋本多佳子の独自の俳句作品に魅かれていたので、気軽に持ち運べる文庫版の全句集がとてもうれしい。

と書いており、「毎日新聞」(2018.10.14付)の「今週の本棚・新刊」も『橋本多佳子全句集』について、

 師の山口誓子が「一処一情」と評したように、対象と位置をきびしく選ぶ句が多い。「しやぼん玉窓なき廈(いへ)の壁のぼる」「いなびかり北よりすれば北を見る」「春空に鞠(まり)とゞまるは落つるとき」の視覚も鋭い。「白桃に入れし刃先の種を割る」。手元を見つめるシンプルな美しさがある。

と述べている。評者がこぞって「いなびかり」の句を択んでいるのが興味深い。これは「北を見る」の詞書をもつ一連の句のひとつであって、ほかにも「いなびかり遅れて沼の光りけり」「いなびかりひとの言葉の切れ切れて」などの佳句がそこに含まれる。
 さて藤沢桓夫に、「俳人橋本多佳子」(『大阪自叙伝』中公文庫1981*6)という文章があって、藤沢は次のように書いている。

 ここで思い出したが、その頃(「昭和十二、三年頃」―引用者、以下同)新潮社から出ていた「日の出」という大衆雑誌に私は「大阪五人娘」という長篇を連載することになり、その時の私の担当者が、後に樋口一葉の研究者として知られ、現在渋い良い短篇を書いている作家の和田芳恵氏だったが、雑誌の口絵に使う写真に、私が大阪の女学生たちと一緒にいるところを撮りたいという先方の注文で、私は当時帝塚山学院の女学生だった弥栄子(藤沢の母方の叔父石浜純太郎〈敦煌学・西夏語学者〉の娘、松本弥栄子のこと)の学友たち四五人にカメラに入ってもらったが、その一人のどこか岡田嘉子に似た少女が多佳子さんの長女の淳子さんだった。
 とにかく、そんな因縁から、いつとはなしに私は多佳子さんと知り合うようになるのだが、まだ当時は多佳子さんが兄事していた山口誓子氏も多佳子さんも水原秋桜子氏主宰の「馬酔木」に客員の形で参加していた時代だった。そして、多佳子さんは夫君と死別して間がなかったと記憶する。
 長身の多佳子さんは文字通りの容姿端麗の人だった。彼女の俳句の清楚なあでやかさ、形のよさがぴったりの才色兼備の佳人と言ってよかった。(p.279)

 『全句集』巻末の年譜によれば、一九三五(昭和10)年9月のところに「誓子に従い「馬醉木」へ同人加入、以後俳号を「多佳子」とする」(p.555)とある。ちなみにそれ以前の俳号は「多佳女」、さらにその前は「多加女」であった。また藤沢は前掲の文章で、「帝塚山の、学院から北へ二町ほどしか離れていない高野線の線路から一町東の位置に、多佳子さんの住居があった」(p.278)と書いており、さきの年譜によると、多佳子が「大阪市住吉区帝塚山へ転居」したのは一九二九(昭和4)年11月のことで、その直後に誓子と初めて面晤している。
 藤沢の文章は次のように結ばれる。

 (多佳子が)奈良県のあやめ池へ引っ越してから*7も、多佳子さんは時どき私の家へ遊びに来てくれた。色紙や短冊に気軽に自分の句を書いて行ってくれることも多かった。彼女らしい美しい字を書くひとだった。それらの句の幾つかをここにしるして故人を偲びたい。

 もの書けるひと日は紫蘇に指をそめ
 蓮散華美しきものまた壊る
 秋風にあさがほひらく紺張りて
 炉より火花ひとりの刻をさっと捨つ

(pp.281-82)

 ただしこの四句、『全句集』に収めるものとは若干の異同が有る。「蓮散華」「秋風に」の句は全同だが、「もの書ける」「炉より火花」の句は、それぞれ「もの書けるひと日は指を紫蘇にそめ」「炉より立ちひとりの刻をさつと捨つ」、となっている。

橋本多佳子全句集 (角川ソフィア文庫)

橋本多佳子全句集 (角川ソフィア文庫)

*1:三鬼はその一歳下であるから、来年生誕120年を迎えることになる。

*2:穂村氏は同誌で、「本と名のつくものの中でも文庫版の全句集は最高だ。何故なら、優れた作者が一生涯に作った作品のすべてを手の中に収めることができるから。その安心感と喜びは大きい。小説ではこうはいかない。短詩型の魅力の一つだろう。/橋本多佳子と云えば、「雪はげし抱かれて息のつまりしこと」などで知られた伝説的な女流俳人だが、改めてその魅力に痺れた」(p.130)と書いている。

*3:三鬼の句に、「橋本多佳子邸にて」の詞書をもつ「ぱくと蚊を呑む蝦蟇お嬢さんの留守」というのがある。

*4:初出は『橋本多佳子句集』(角川文庫1960)。

*5:同じく誓子によれば、「多佳子の美しさのことを言うひとがあると、多佳子はいつも私には美しさはありません雰囲気があるだけですというのを常とした」(同前p.529)という。

*6:朝日新聞社1974年刊を文庫化したもの。

*7:多佳子が「奈良県生駒郡伏見村字菅原(現奈良市あやめ池)へ疎開」したのは、年譜によると一九四四(昭和19)年5月のこと。