だまし、だまされ

『あなた買います』(1956,松竹)

監督:小林正樹、原作:小野稔、脚色:松山善三、撮影:厚田雄春、音楽:木下忠司、主な配役:佐田啓二(岸本大介)、伊藤雄之助(球気一平)、水戸光子(谷口涼子)、岸恵子(谷口笛子)、大木実(栗田五郎)、谷崎純(父)、三井弘次(栗田為吉)、花澤徳衛(栗田米次)、磯野秋雄(栗田三郎)、水上令子(嫁里子)、須賀不二夫(宮沢監督)、十朱久雄(坂田豪助)、山茶花究(古川太郎)、石黒達也(六甲忠助)、多々良純(島悠助)、東野英治郎(大串)。
吉野二郎監督の、『怪談 狐と狸』(1929,マキノ御室)という映画(活動写真)があります。これは、「男と女のだまし合い」をテーマとした分りやすい作品なのですが、本作品は「売る側と買う側のだまし合い」がテーマ。具体的にいえば、プロ野球界における新人獲得のスカウト合戦。ですから、「買う側」同士でも争いがあって、それが人間関係をさらに複雑にしています。
東洋フラワーズのスカウト岸本大介(佐田)が主人公で、主に彼の視点からえがかれています。スカウトの対象たる期待の大学生は、栗田五郎(大木実)。その「育ての親」が球気一平(伊藤雄之助)で、栗田は彼に頭があがりません。ですからスカウトマンたちは、球気にとり入ることに必死です。
岸本は、スカウトとしての役割、そしてひとりの人間としての役割―このディレンマにおおいに悩まされるのですが、最終的には、球気一平と対峙して胸を割ります。岸本のおもいが通じてか、球気の心が徐々にうごかされてゆく。その展開が見もの。また岸本と、大阪ソックスの古川太郎(山茶花究)、阪電リリーズの島悠助(多々良純)らライバルたちとのかけ引きも見ものです。

―ところで、ドラフト制度が導入されてひさしい現在もなお、契約金問題が浮上することがしばしばあります。ですから、この映画のテーマは、まったくふるびていないのかもしれません。とはいえ、なにも、大上段にかまえて「プロ野球論」を打ちましょう、というわけでは決してありません。そもそも私は、プロ野球には明るくはないので。また教条主義的に、「真に人間的な存在とは…」と語る気だって寸毫もありません。
というのは、ラストのやりきれなさをご覧になればお分りになるとおもうのですが、この映画はむしろ、「諦念」によって成立している映画だからです。しょせん、他人の心というものは分らない。個々人のふるまいは予測不可能です。ゆえに翻弄されているのは先方(つまり選手個人)ではなくて、むしろ自分たちのほうだと言えるのではないのか―。そういう厳しいテーマをもった映画を、いわゆる「社会派」としてではなく、娯楽作品に仕上げた小林正樹の手腕はもっと評価されてよいとおもいます。
さて、まったく話はかわるのですが、当時の伊藤雄之助は、嶋田久作さんにソックリです(ちなみに竹中労は、ミッシェル・シモンに酷似していると書いています)。かつて荒俣宏さんは、『帝都物語』の加藤保憲は伊藤をイメージした人物だ、と言ったのだとか。さもありなん。容貌魁偉(怪異?)とはまさにこのこと。齢三十七にして、すでに「ヌシ的ムード」(竹中労)をそなえています。…以下は、その頃の伊藤雄之助について、竹中労が書いたくだりです。

芸能人別帳 (ちくま文庫)
その雄之助が、日活製作再開に参加し、やがて無国籍映画氾乱(ママ)のきざしに反対してフリーの道をえらび、“五社協定”で映画資本からシメだされ、独立無頼の役者一匹、草創期のテレビ・ドラマに新天地を切りひらき、ついに映画五社に頭を下げさせて、意気ようようと松竹の『あなた買います』(小林正樹監督)でスクリーンへとカムバックし、一九六七年度にはブルー・リボン、ホワイト・ブロンズをかちとるまで、ソレガシは「フレーッ、フレーッ」と、マスコミ応援団席から旗をふりつづけてきた。
竹中労『芸能人別帳』ちくま文庫,2001.p.412)

ちなみに栗田五郎は、南海ホークスに入団した穴吹義雄中央大学出身)をモデルにしているのだそうです。映画は小野稔の原作とともに大ヒットし、「あなた買います」は1956(昭和三十一)年の流行語にもなりました。キネマ旬報ベストテン第十位作品。
野球ファンのかたにも、自信をもっておすすめしたい映画です。