風流深川唄

演習発表。
消化不良の論文を読み終えたら、ご教示いただいた論文に取り掛かるとしよう。
竹中労完本 美空ひばり』(ちくま文庫)については、このまえ書きましたが、「〔付録〕竹中労がえらぶ・ひばり映画ベスト10」という巻末リストに、山村聰『風流深川唄』(1960)が挙がっていて、竹中はこう書いています。

足かけ九年前、『リンゴ園の少女』で父親に扮した山村聡の監督、鶴田浩二共演。原作は川口松太郎、新派の名舞台の映画化である。ワキを伊志井寛山田五十鈴杉村春子と名優で固め、「文芸大作」と銘を打った。『伊豆の踊子』以来の禁句、興行的に完敗を喫する。ひばりと鶴田のラブ・シーン、なかなかのものだったのだが。(p.338)

ここには書かれていませんが、『風流深川唄』の脚本を担当したのは笠原和夫さんです。「べらんめえ」シリーズが頓挫したあと、バラエティー映画を再度やろう、ということで製作されたのが、この『風流深川唄』だったのだそうです。
笠原氏は生前、荒井晴彦さん・スガ秀実さんとの鼎談で、つぎのように語っています。

昭和の劇―映画脚本家・笠原和夫
荒井●これは昭和三十五年ですか、見てみて驚きましたね。新派で、ひばりも役者としてちゃんとやっていて、これが一番しっかりしているというか。監督が山村聰さんで、過不足のない、いい意味で普通の演出をしてますよね。
スガ●カッチリとつくっていますね。そういう意味では、今、見ても古くないんですね。
笠原●そうですね。非常に理性的な映画でね……。山村さんはいい人ですよ。紳士で、ホンも褒めてくれましてね、「このホンで十分だ」と言ってくれたんだけど。
荒井●これは、ほぼ原作どおりなんですか?
笠原●いや、あれは原作そのものにインチキというか矛盾するところがあるんですよ。それで、ずいぶん、そういうところを修正したり、新しい人物をつけ加えたりして直しました。
(中略)
荒井●時代考証岩田専太郎で、金がかかっていて。
笠原●ところが、これは全然、客が入らなかった。
スガ●『風流深川唄』というのは、それまでのひばりものと比べて、かなり毛色が変わっているわけですからね。
笠原●それは、エンターテインメント的ではなくて、文芸作品という枠がありますからね。ある種の人間的な描写をしなければいけないし、そう派手にオーラを見せるわけにはいかないですしね。
スガ●だから、見方によっては、意図的にオーラを潰しているというか。というより、この頃、ひばりの興行価値というか、オーラがなくなっているという判断が会社側にあったんでしょうか?
笠原●いや、そうじゃなくて、オーラの見せ方が違うんですよ。オーラというのはアグレッシブに見せる場合と、受けの芝居で見せる場合があるんですよ。例えば千恵(片岡千恵蔵―引用者)さんというのは、どちらかというと受けの芝居で見せる人ですよね。右太(市川右太衛門―引用者)さんの場合はアグレッシブにいくところにオーラが生まれるという……。これは役者さんの質によるんですけどね、ひばりは本質的にはツッコミじゃなくてボケのほうなんですよ。受けなんです。だから、周りからガンガンやられている時に、「何よ!」なんて開き直るとオーラを発散させるというタイプなんで、どちらかというと受け身のほうを重視するような形になりやすいんですね。(中略)単純にいって、オーラというのは自信なんですよね。(中略)山村聰さんが『風流深川唄』の演出の時に言ってたんですけどね、「笠原君ね、主役と脇というのは格段に違うんだ」と。山村さんは、何かの舞台で、どこかの大店の若旦那の役をやった時に、冬に火鉢にあたるという演技があって、なるべくリアルにやろうと寒そうに肩を縮めてやったんだと。そうしたら柳永二郎だったかな、柳さんに「君、それは違う」と。「君は主役なんだ」と。「主役はリアルにやっちゃいけない。お客に受けるような見せ方をしろ」と言われたと言うんですね。寒いという設定でも、ウソになってもいいから堂々として華やかなところを出すといった見せ方をしないと主役には見えない、あるいは主役の芝居に見えないということを言われて、それから以後、主役と脇の芝居のあり方を変えたと言ってましたけどね。オーラというのはそういうことであってね。
笠原和夫荒井晴彦スガ秀実『昭和の劇―映画脚本家・笠原和夫太田出版,p.48-50)

ちなみに、笠原氏が「矛盾するところがある」といっている原作は、川口松太郎『鶴八鶴次郎・明治一代女』(新潮文庫、品切)にも収めてあります。安藤鶴夫は、その解説でこう書いています。―「川口松太郎の作品は、いつもきげんがいい。きげんのいい作品なのである」。