父親として、政治家として

緒方四十郎『遥かなる昭和―父・緒方竹虎と私』(朝日新聞社

遙かなる昭和―父・緒方竹虎と私
2005.1.25第一刷。
緒方竹虎*1。以前もちょっとふれたことがありますが、「ポスト鳩山」と目された大政治家です。また、三木武吉大野伴睦らとともに、「保守合同」の立役者としても知られています。もともと、朝日新聞政治記者で、副社長まで昇進しましたが、1944(昭和十九)年に政界入りを果しました。
本書の著者、緒方四十郎さんは、緒方竹虎の三男です(また、緒方貞子さんのご主人でもあります。最後のほうには、緒方貞子さんの話もすこし出てきます)。
この本は、緒方四十郎さんの「自伝」としても読めますが、緒方竹虎の「評伝」としても読めます。彼の評伝はいくつか出ていますが、はじめて竹虎の息子が書いたという意味において、貴重な著作だといえるのではないでしょうか。

著者は、「はじめに」で、本書を書き上げることは「楽しみでもあり、老化防止に大いに役立った」と書いており、その出版は自身の「課題」であったといいます。それだけに、かなり充実した内容になっています。
まず著者は、

尋常科三年生の頃から日記を中絶していた私は、この言葉(成蹊学園の土田誠一校長が、生徒たちに日記をつけるようにすすめたこと―引用者)にしたがって、四五年五月九日から再び日記を書きはじめ、途中何度か中断したものの、米国留学へ出発の日(1954年7月22日―引用者)以降は、ほとんど毎日書き続けて、今日に至っている。(p.95)

と書いているように、幼いころから習慣的に日記をつけています。その日記がしばしば繙かれるので、時代情勢や自身の心境の変化がたいへん分りやすい。さらに、著者が米国に留学をしていたときに竹虎とやり取りしていた手紙からの引用もあります。
特に、緒方竹虎が、昭和史の重要な局面で「いったい何を考えていたのか」―という問題について書かれたくだりは興味ふかく、たとえば、

父は、後年、占領軍の進駐が無血で終わったことをもって、「これだけでも東久邇宮内閣出現の意義は十分あった」とし、「民間人の総理大臣では、到底不可能であったろう」としながらも、七十年の歴史をもつ陸海軍が解消する時に、「一人の榎本釜次郎、一個の彰義隊」も飛び出して来なかったことに「一抹の寂しさを禁ずるを得なかった」と、その複雑な心境を遺稿に書き残している。(p.25)

開戦後、父は、当時の大多数の国民と同様に、戦いを始めた以上負けることはできないとの立場をとっていたが、開戦直後の戦果におごる東條内閣が言論統制を強化しようとする動きに対しては、強い反感を示していた。(p.89)

というように、いつわらざる心境が赤裸々にのべられているので、たいへん好もしい。
また、中野正剛*2や古島一雄、猪熊信行といった人物や、二・二六事件(ちょうど六十九年前のできごとだ)、重慶工作、極東軍事裁判などにかんする興味ふかい話もたくさん載っています。
わけても印象的なのは、緒方竹虎による鳩山一郎*3の次の評価。

選挙(一九五五年二月の総選挙―引用者)は鳩山の勝利になったが、鳩山政治には困ったものだ。まるで無定見で、対ソ交渉などどこにどう国を引張っていくか、全く危いものだ(p.200.「一九五五年二月二十八日付」の手紙文より)

ほかにも、興味ふかい記述が多々あったのですが、それはまたの機会に、ということにしておきましょう。
それでは最後に、評論家・浅川博忠さんの文章を引いておきます。

自民党・ナンバー2の研究 (講談社文庫)
本書に登場する幾多のナンバー2の政治家の中でも、緒方こそがその品格からしても破格な存在であったと記せよう。いや、ナンバー1に達した政治家、つまり歴代首相の中でも総合的に見て緒方に勝る者は少ないのではなかろうか……。
その急逝ゆえに“未完の大器”の印象がいまだに鮮明に残されている。こうした人望と人格を残したまま逝った緒方。この悲劇の大政治家の存在が、その死から半世紀近くを経るにしたがい、忘却のかなたへと去りゆくのは残念なことである。彼のようなタイプの政治家の再出現が待たれてならないのだ……。
浅川博忠自民党・ナンバー2の研究』*4講談社文庫,2002.p.226-227)

歴史に、「もし」を持ちこむことは許されていません。しかし、それを承知で、「もしも」緒方竹虎が首相になっていたら、戦後の日本は一体どうなっていたであろうか―、そう想定してみるのも、あながち無駄なことではないとおもいます。

*1:竹虎の祖父は、大戸郁藏(1814‐71)。緒方洪庵と義兄弟の約をむすび、「緒方」姓を名のった蘭学者です。父は、緒方道平(1846-1925)。

*2:緒方竹虎は、『人間 中野正剛』(鱒書房、のち中公文庫)という本を書いています。

*3:最近、外務省の「第十九回外交記録文書公開」で、日本‐フィリピン間の戦後賠償交渉におけるある事実(密約)が明らかになりました。一九五五年五月三十一日、国会内閣総理大臣室で、鳩山一郎は単独でフェリノ・ネリ(フィリピン賠償交渉首席代表)と会いました。そのネリが賠償5億5000万ドルに民間借款2億5000万ドルをくわえた8億ドルを最終案として提示したのを、鳩山が筋書きにない「大盤振る舞い」の発言をしてこれを認め、妥結したのだそうです。しかし、生前の鳩山は、自由党や左右社会党の批判にたいして、「フィリピン側の要求に応じた事実はない」と釈明していたようです。(『讀賣新聞』2005.2.25付による)

*4:この本では、どういうわけか、緒方四十郎さんの名が「十四郎」になっています。彼が「四十郎」と名づけられたのは、竹虎が四十のときの子であったからで、これが「十四郎」では意味をなしません。