このまえ、ひさびさに*1をのぞいたら、欲しい本がたくさん出ていて困りました。すこし迷いましたが、今日、辞書一冊、学術誌一冊、専門書三冊(計五冊)を注文。いずれも、昨年末か今年に入ってから出版されたものです。いかがわしい「におい」のする出版社も、いくつか欲しい本を出していたのですが、買ってから後悔したことがあるので、今回はやめておきました。また余裕のあるときに買おうとおもいます。
さて、四月前には届くかな。
日垣隆『売文生活』(ちくま新書)
2005.3.10第一刷。
日垣氏の本を読むのは、これで五冊めです。なかなかおもしろい本。引用が多くて、やや物足りない気もするのですが、作家や評論家に対する(いかにも日垣氏らしい)痛烈な批判がいちいち的を射ており痛快です*2。
まずは冒頭で、「私的な状況」から説きおこし、「印税」「売文業」が一体どのようにして誕生したか、という歴史的な問題からはじめます。そして、明治期の文士が基本的には兼業であったことを踏まえて、「漱石」スタンダードがいかに劃期的なものであったか―ということを論じていきます。夏目漱石は、自由と野心と生活の「三兎を追う」(p.88)はなれ業をやってのけた偉人であることが、あらためてよく分ります。そして時代がくだり、筆一本で生活していける作家がたくさん生れ、「一〇%印税」が成立することになるのですが、その背景には「円本ブーム」があったということを明らかにします。…と、ここまでは前半部をまとめてみたのですが、むしろ後半部がおもしろい(面倒なので、これでやめておきます)。もちろん本書でふれられている、いわゆるゴシップやトリヴィアルな情報もおもしろいのですが、ここでは縷縷のべません。
それにしても、中村武羅夫が筆一本でこんなに稼いでいたとは。驚きました。
篠原勝之『放屁庵退屈日記』(角川文庫)
1985.10.25初版。
ひところテレビでもよく見かけた、クマさんこと篠原勝之さんの「私小説日記」(内容紹介での表現)。彼は、『麻雀放浪記』(1984)とかとかに「チョイ役」で登場しているのですが、しかし不思議な存在感があります。本作品は、ちょうど『麻雀放浪記』が製作されていた頃のもので、その撮影についての話もあり、(もちろん原作者はいうまでもなく)和田誠や真田広之が登場します。
まさに「私小説日記」というべき作品で、そんなことを書いていいのかしらというようなことまで書いてあって、かなり驚かされます。また、徹底したシンプル・ライフをよしとするのかとおもいきや、大枚をはたいて文明的な道具(暖房器具など)を購うことにも吝かでない。その俗っぽさがたまりません*3。
この作品が非常にたのしいのは、クマさんの「交遊録」としても読めるからだとおもいます。
たとえば、次のような記述があります。
静かな、男のエン会が始まった。カオル(小林薫―引用者)はハナっからなんだか勢いがあり、オレもそれにつられていた。ワイワイぶっ飛んでいく。近所の原田芳雄さんがバーボンさげてきた。柄本明がのっそり入ってきたし不破万作がヒョイ。あれよあれよといううち、四谷シモンが“それえ”と参入。(中略)誰かが深夜になって、離婚成立の根津甚八を呼んだらしい。笑う。激論。なぐり合い。エン会のバトル・ロイヤルだ。誰がどうしたか。目を覚ますと万作とオレとカオルはコタツの中で死んでいた。(p.191-192)
この顔ぶれのおもしろさを見よ。柄本明が「のっそり」入ってきたり、不破万作が「ヒョイ」とあらわれたり、(役者の容姿によって使い分ける)表現のしかたがまた絶妙で、その光景が目にうかぶようです。ほかにも、糸井重里、平野甲賀、荒木経惟、村上龍、楠田枝里子、篠山紀信、山田邦子、深沢七郎、赤塚不二夫、筒井康隆、嵐山光三郎、金井美恵子、桃井かおり……などなど、ひと癖もふた癖もある面々がどんどん登場します。
さらに、いかにも「クマさん」らしい、簡潔な人物評がまたおもしろい。
たとえば色川武大については、
プラスチックな遊び人が多い世に、本物の遊び人の顔の色川さんは凄みがある。(p.17)
いやはや、陽水は歌がうまいわい。初めから仕舞までオレはたまげていた。絶望的に上手な歌うたいだ(「絶望的に」の部分に傍点―引用者)。(p.68)
と書く。その井上陽水さんはお返しだといわんばかりに、本作品の解説を書いています。
この解説がまた、秀逸な人物評となっているのです。