昔は良かった

晴れ。
Fで、ジョン・アシュトン 高橋宣勝訳『奇怪動物百科』(ハヤカワ文庫NF)を購う。
やや唐突ですが、今日の午前中の授業に「尚古主義」という言葉が出てきて、思い出した映画があります。それは、ルネ・クレール夜ごとの美女』(1952)。大好きな一本で、夭折したジェラール・フィリップ主演のコメディ。クロード(ジェラール・フィリップ)が夢のなかで、原始時代、ルイ十六世時代、ベル・エポック期など、あらゆる時代をかけめぐるのですが、どの時代にもきまってピエール・パロー扮する老人が登場し、「今はひどい時代だが、昔は良かった…」とぼやきます。これは確かに典型的な尚古主義ではありますが、まだ若い私は、老人がそうぼやくのには何かしら「理由」があるはずだと、さしたる根拠もなく思ってしまいます。しかし、たとえ昔は良かったという述懐を共有できなくても、その「理由」に耳を傾ける努力だけは惜しむまい。
そして、「昔は良かった」ではなくて、「昔『も』良かった」と思えるようになりたい。
さて、私が古い邦画を好んで観るのは尚古主義や懐旧趣味によるものなのではなくて、たぶん、

小津(安二郎―引用者)の映画ほど、ほんの数秒(ないし一、二秒)映される風景を見て、「ああ、こういう風景が本当にあったんだなあ」と強く感じられる映画はないような気がする。
昭和五年(一九三〇年)に撮られたサイレントの『朗かに歩め』を見ていたら、道端を犬が歩いていったのだが、それにも「ああ、この犬も本当に生きていたんだなあ」と、映画の筋に関係のないところで私は感慨にふけってしまう。昭和十一年(一九三六年)の『一人息子』の冒頭で、信州の風景が映ると「こんな風景はもうどこにもないんだなあ」と思い、劇中の人物である飯田蝶子にさえも「こういう人が昔はいたんだよなあ」と思う。
保坂和志『小説の自由』新潮社,p.41)

というような感傷にひたりたいがためなのだと思われます。
古い映画の面白さは、ディテールにこそあるのではないかと考えます。なぜこの小道具が選ばれたのか、とか、なぜこの風景でなければならなかったのか、とか。そういう筋とはあまり関係のないところを見ているうちに、私も保坂さんと同じような感慨を覚えるようになったのだと思います。
ところで、映画(や小説)を批判するときにしばしば持出されるのが、「Aが書けていない/を書いていない」という定型表現です。具体的にいうと、例えばヌーベルバーグによる「小津映画は戦争を書いていない」という批判。また例えば、「成瀬映画は、実は女が書けていない」という批判。いずれも実際に存在する批判ですが、ややもすれば党派的な批判に陥りがちです。これと関連するのですが、宮沢章夫さんの『青空の方法』(朝日文庫)に、「書かれていないのは、ほぼ女である」(p.47-49)という一文が収めてあります。宮沢氏は、小説にしろ映画にしろ、あるいは演劇にしろ、「女が書けていない」という批評がよくあるが、しかし「女を書く」とは一体何だ、という疑問を呈しています*1
また、映画は鑑賞の自由度が高いので、「外部化された時間に運動という概念を当てはめて、映像の表面性をことさら強調する論評」(小栗康平『映画を観る眼』NHK出版,p.60)まであります。これは、映画のニュートラルな時間感覚をつきつめた論評の一種で、このような批評に対しては小栗氏も批判的です。以上のような一連のしかつめらしい批評は、ある場合にはかえって鑑賞の自由度をそこねてしまうように思います。もう少しディテールと戯れて過去を感じてみては―、などと要らぬお節介までやきたくなります。

*1:じつはこの後の部分が大事なので、宮沢章夫『よくわからないねじ』(新潮文庫)の解説で、小谷野敦さんがすぐれた評を書いています(p.293-94)。ただし、成瀬映画批判は、女性によってもなされているので、小谷野氏の「読み」とは別の意味を帯びてくるのかもしれません。