小谷野氏の新刊から

なぜ悪人を殺してはいけないのか―反時代的考察
小谷野敦『反時代的考察 なぜ悪人を殺してはいけないのか』(新曜社)を読んでいる。N君がその存在を教えてくれた「『今上天皇』という語」も入っているし、江戸幻想を批判した文章も入っている。私は、ポストモダンの余燼さえ受けようとしなかったから、一九八〇年代のいわゆる「江戸ブーム」も、例えば柄谷行人『言葉と悲劇』(講談社学術文庫)等で、「後から」知ったのである。それゆえに、「江戸幻想」をポストモダニズムとの関わりから見る、ということが出来ずにいる。
そんな世代に属しているので(敢えて一般化してしまおう)、当然ながら、社会言語学の旗手としての田中克彦氏も知らないわけである*1。と、いきなり田中克彦の名前を出したのは、小谷野氏のこの本に、書き下ろしの「田中克彦チョムスキー』批判」が収められているからである。田中克彦氏の『チョムスキー』を「真面目に」批判したものとしては、他にも、黒川新一「田中克彦チョムスキー』に驚く」というのが(ウェブ上に)あったのだが、これは読めなくなっている。黒川氏は、例えば「深層構造」の誤解とか「声門閉鎖音」の無理解とかいった面から、田中氏の『チョムスキー』を批判していた*2
さて、私はまっさきにこの「田中克彦チョムスキー』批判」から読んだのだが、たいへん面白いのは、「田中克彦が、多様な言語を擁護する『左翼』的な立場からチョムスキー言語学を批判しているのに対し、斎藤兆史は、国語の伝統を守ろうという保守派的な立場から批判している。つまりこの両者は、政治的立場を異にしていても、言語が自然科学的に、物質的に処理されることに我慢がならないというロマン主義的言語観を抱いている点で共通している」(pp.236-37)ということである。
論争・英語が公用語になる日 (中公新書ラクレ)
これと同じようなことが、英語公用語化問題でも起っていたことを思い出した。つまり、ひとくちに「公用語化反対」とはいっても、多言語主義とか反・言語帝国主義とかいった観点から反対する人と、保守的な立場から反対する人があるのである。例えば、中公新書ラクレ編集部+鈴木義里編『論争・英語が公用語になる日』(中公新書ラクレ)を見てみると、そのことがよく分る。もちろん各論に相違はあるが、「英語公用語化反対」という基本的な見解で一致しているのが、中村敬氏、津田幸男氏、加藤周一氏、渡部昇一氏、松田徳一郎氏、安田敏朗氏、田中克彦氏、茂木弘道氏、田中慎也氏の各氏である(また、英語は少数精鋭の者に学ばせればいい、という意見の鈴木孝夫氏も、公用語化反対論者に含めてよいと思う)。

*1:なんと、私が最初に読んだ田中氏の文章は、石田英一郎『新版 河童駒引考―比較民族学的研究―』(岩波文庫)の「解説」なのである! はじめて読んだ田中氏単独の著作は、『差別語からはいる言語学入門』(明石書店)だったが、あまり良い印象は持てなかった。例えば次のような記述に。「私は漢字のことになると、世評の高い白川静さんの『字通』(平凡社)という分厚い辞書(白川氏は、「字書」と主張している―引用者)を開いてたしかめることにしているので、その『隻』のところを見ると、『かたわれ』『ひとつ』という意味しか掲げておらず、『二つで一組になっているもののうちの』ひとつという説明がないのにはがっかりした。これは、意味論的に、ひどくレベルの低い、できの悪い説明である」(p.127)。生意気にも私は、「かたわれ」が、まさに「二つで一組になっているもののうちのひとつ」という意ではないか、どこが「意味論的に、ひどくレベルの低い、できの悪い説明」なのか、と思ったものである。

*2:後に、「田中克彦名言集」「カツヒコ・オートマトン」などが加筆された。「たぶん続く」とあったのだが、続かなかったようである。